集会は会議室でなくてもやれる、いつでもどこでも |
多様で厄介な生徒たちを相手に、七転八倒しながら授業した記録(どんなに短くてもいい)を、持参することを条件にする研究会をやりたい。研究者編集者の類いが参加を希望すれば、彼らにもにも七転八倒の実践報告を求める。
田舎屋敷の一室に車座になり、司会も置かず人が集まれば自然に始まる。時程や日程がなければ不安という脅迫観念から先ず自由になる必要がある。参加者が多くなったら、庭や浜に分散して話を続ける。時間無制限。
宿の手配も、床を延べるのも、食事の支度も自分でやる。掃除も片付けも。
議論を滑らかにするために酒はいい、手作りの菓子や茶受けも歓迎する。酔っ払ったら迷惑、自ら退場する。分散会の交流は昼休みや、夕食後に自然に開かれるだろう。討論が終わらないところもあるだろう。近所の農夫や子どもが覗き込むようになればしめたもの。
まとめや総括の類いはない、終わった途端の総括に碌なものはない。ひとり一人が話し合いの中身を咀嚼し、胸に刻むことが重要なのだ。数ヶ月して自分なりの総括が出来たら、不定期刊行の雑誌に送る。そうすることで、自他の違いが際立つだろう。それが、又あの人たちと語り合いたいという気持ちに繋がる。
こうした会は、絶対不定期でなければ成立しない。最初の言い出しっぺは必要だが、次からは誰かが言い出すのを待つ。自然消滅も悪くない、継続は力などという呪文に縛られていては、国家の消滅も展望できない。組織は発展継続するだけではない、生成と消滅を繰り返すことも多い。生成と消滅の間には発展も停滞もある。停滞は腐敗さえなければ安定でもある。
表現企画したいという少年たちの意欲を、一斉の日程に合わせることなどそもそも無理な話ではないか。文化祭や体育祭は、少年たちの表現を組織するのではなく、組織のスケジュール表に少年たちの成長を閉じ込める。
戦前戦中の体験に懲りて、青少年の成長を組織の都合や利益に合わせるのはいい加減にしたのではなかったか。
先ず教員自身が、スケジュールから自由に行動する必要がある。その自由を模索する少数の教師が、七転八倒している筈である。それが見えてこない、余程少数なのか。
であれば、学校の日程や教師の管理から自由になることを青少年が恐れず実行することが先だ。自由は君の目の前にある、それを君が掴めないのは管理が厳しいからではない。君が臆病だからだ。教師は君より臆病なのだ、君たちが彼らを解放するのだ。
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