批判精神を育てる授業の頻度において、         日本はoecd諸国中断トツの最下位

機械化は人間を苦役から解放すると言う
前提の疑わしさをチャップリンはガンジーに指摘され
 モダンタムスは生まれた
 大学1年生と4年生の教職に対する意識を比較した調査結果がある。常葉大学紅林教授によれば、4年生になると現場で役立つ即戦力指向の学生が増えるが,社会問題や政治・選挙への関心は薄まるという。4年間の教職課程は、学校への服従を準備する過程となっているかのようだ。

 これは今に始まったことではない。 1990年代、僕が『平凡な自由』を書いて、編集者達から「タイトルが捻くれている」と揶揄された頃、神戸校門圧殺事件やな戸塚ヨットスクール事件など目を背けたくなる事件が相次いでいた。高校生達も身の回りの理不尽を答案の裏やノートに書き綴って怒りを表明していた。それが1988年の「内申書裁判」頃から微妙に変化し始める。高2までは批判精神に溢れていた生徒達が高3になるや、「近頃はすっかり現実的になって、悲しい気持ちが残りました」などと書き出したのだ。それまでは、世間と安易に妥協する兄姉や両親を冷静に観察し「あんな姿になるものか」と書いてた。僕は授業で麹町中内申書裁判の意義(裁判を通して、内申書に「この生徒は気に入らないから落としてしまえ」とは書けなくなり、内申書公開の世論も大きくなった)について語ったが、それでも「もし万が一」との恐怖が高校生の批判精神や闘いを抑制し始める。
  
 最近教職課程は採用試験対策と称し、授業技術やトラブル対処など「how to」に強く傾斜している。これは1970年代から既に始まっていた。(国立大学教育学部を出た教師が、自律性や批判精神と行動力を持つのを各地の教委が忌避し始め、素直な新設の女子短大卒を合格させ始めた。それらの短大の売りが「how to」)であった。
 
 早い段階の短期実習の機会が皮肉にも「未熟な我と経験豊かなベテラン教師」という枠を無意識に形成し,学生は物言わぬ存在へと導かれる。学生らしさは早くから奪われ、社会に対す関心は極度には薄れる。一説によれば教職課程学生の読書時間は、一般学生より低いと言われる。
 こうした学生が現場にくれば、教委や管理職に都合はいいとしても、現場に新風を吹き込むことはない。まして現行教育行政に批判的視点は持てず、上からの指示に従順だけが取り柄となり、自他ともひたすら『頑張る』ことを唯一の指針とする以外になくなる。

 OECD国際教員調査「TALIS 2018」では中学校教員に対して、授業で批判的思考を促す頻度を問うている、結果は仰天すべき水準。日本は調査48国中頻度が最も低く、日本以外の全ての国がポルトガルの97.9%からノルウェーの65.6%にかけて分布しているのに対して、日本は24.4%とダントツの最下位。日本の教育には質的な異常性が構造化していることを表している。

 2021年度中学、2022年度高校で学習指導要領が改訂、「主体的で対話的な深い学び」が喧伝され、 指導要領国語の解説には、「批判的」という言葉が41回使われているが中身が寒いものであることは言うまでもない。 何故ならあくまでも与えられテキスト内での論理的諸関係を問うに過ぎないからである。与えられた前提それ自身を疑うことはあり得ないという枠が最初にはめられている。
 面白いことに、
新しがり屋の社会科教師が一時期夢中になった「ディベート」が「与えた枠内」に限る批判であった。ある意味で文科省は「民間」の自主的な取り組みを利用している。
 日本の教師は、我が身を滅ぼす線路を張り切って敷いてはいないか。学校と若者の実態を「批判」的に分析すればそれを簡単に否定できない。自らの労働の前提を疑え。

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