警察や法務省の統計によれば、少年の非行が減少している。少年1,000人当たりの検挙者数を見るとは、2014年が6.8人で、戦後最多だった1982、83年の18.8人の半分以下。13歳以下の少年の補導件数も減少を続けている。だが 内閣府「少年非行に関する世論調査」では、約8割の人々が、少年非行は「増えている」と感じている。
全く人々は事態を正しく認識していないのか。それともただ単に若者を強く罰したいのか。一体どうしたことだろうか。我々の感覚は麻痺したのか。
山手線に近い都立B高校定時制課程が荒れ、生徒たちが校舎や校庭にバイクを乗り入れ、教室や廊下で花火・校庭にたばこの吸い殻や菓子袋が散らばったのは、すでに少年非行が減り始めていた90年代半ばであった。それ故B高校の荒れは世間に目立ち、教師の対策も苛烈を極め精魂尽きてしまった。あれからおよそ20年、日本の少年非行は更に減少している。
少年たちは温和しくなっのか、ひょっとすると非行すら出来なくなったのではないか。少年たちは厳しい校則へ依存してしまったのではないか。生徒だけではなく、親にも教師にも行政にも広がってしまった。暴力を伴う過剰な依存が。社会的弱者や少数派への悪口雑言はsns上で直ちに歓迎され、選挙の得票に直結してしまう。そのことが、更に秩序への過剰依存を政治潮流にまで押し上げている。
非行が学校を駆け巡った1970年80年代、教師たちは「教研」活動の組織に忙しかった。僕の職場では、職員会議を潰して具体的教師の授業が議論され、日が暮れても議論は続き、様々な取り組みが生まれた。このような職場教研を基礎に毎週支部教研が、学期ごとに都道府県教研が、年一度全国教研が開かれ、多くの教育実践が交流していた。
教研を組織しながら我々は生徒の「荒れ」を、授業や教育そして社会への「表現」「異議申し立て」と捉えてきた。
だがこんな動きにも、歴史的反動はある。そんな甘いことでいいのか、「荒れ」そのものは「管理」して退治すべきとの動きが広がり、マスコミを賑わす。管理主義教育が、取り締まりが「偏差値」を挙げる手段して脚光を浴びるようになった。暴力を伴う取り締まりは生徒を追い詰め「死者」をもたらしても止まらなかった。様々な荒れを、生徒の表現= 権利と捉える教師たちの声は届きにくくなった。確かに管理主義のメッセージは短く単純だった。
生徒たちの「荒れ」から学ぼうとする職場が徐々に減った後に、現れたのがB高校定時制課程の騒乱だった。騒乱の実態を見極める教師集団が衰えていたのだ。
疲弊しきった学校に革命を巻き起こしたのは、夜間中学を卒業したたった数名のお婆ちゃん。彼女たちは、学び続けるために入学したのである。お婆ちゃんたちは、荒れる高校生に一瞬たじろぐが「なにしてるの、学校は勉強するところでしょう」と言いながら、教室に入り教科書とノートを広げた。数日の間に花火は姿を消し、静寂が訪れた。荒れ狂ったツッパリ達がおとなしく鉛筆を握ったのである。
教師は何処でも、~するなと言う。命令である。お婆ちゃんたちは、~すると宣言し実行した。荒れるツッパリとその同調者だけで構成された空間。一見敵対する存在の教師はツッパリと同調者の結束を固めた、同質なのだ。
夜間中学からのお婆ちゃんは異質。均質の空間に異質の存在が加わることで、突然湧き起きる根底的変化、それが革命であった。
学校の日常を支配していたのは「掟」であり、その論理は学校ムラの壁を越える普遍性からは絶望的に遠い。「掟」に埋没する者は、突然の革命に遭遇して狼狽え呆然とする。革命を内側から理解するには、長い時間と捨て身の覚悟がいる。ムラ集団から「浮く」ことでしか壁は越えられない。「掟」に縛られる側も「掟」で縛る側も「掟」に中毒する。「掟」なしでは生きられない。
そもそも突っ張り荒れる高校生たちは、嫌いな筈の学校になぜ登校するのか。どうしてサボらないのか。自由な時間を好きなことに使わないのか。「掟」に縛られるためか、「掟」に逆らうためか。自由が嫌いなのか、わからないのか。 中毒したからだ、掟に。自由は使わなければわからない。使うとは失敗する経験のことだ。何度か倒れなければ、自由に自転車は操れない。
B高校定時制課程に革命を起こしたお婆ちゃんにとって、自由とは学び続けることとして既に明白であった。だから荒れに直面してもたじろがなかった。
ツッパリは「掟」に逆らうことで名を揚げ、教師は「掟」を遵守させることで名を揚げる。教師も生徒も失敗しながら学ぶ必要がある。自由が何なのかわからないと言う点で、教師と生徒は同列なのだ。
「ツッパル」のは疲れる。非常に消耗する。ヘトヘトになる。本音ではどこかでもう止めたいと思っている、生徒も教師も。だが一度振り挙げた拳はなかなか下ろせない。切掛や大義名分がいる。厄介なことだ。
生徒であれ教師であれ、常識があれば「突っ張るから疲れる」と自ずから気付くものだ。
当blog『「突っ張るのって疲れるのよ」 何もしないという作為 』
生徒たちの直面する現象(その大方は目を背けたくなる)を教材化しよう、その実態を暴き本質に肉薄することこそ社会科教師の存在意義。そこにしか我らの自由はない。
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