人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である

  
人間の尊厳は不可侵と宣言し、それをを守る覚悟
ベトナム戦争中、米国は同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約(武力紛争に際し、戦闘行為に参加しない民間人や、戦闘行為が捕虜、傷病者などの保護を目的としてつくられた条約。ジュネーブ条約がつくられたのは、武力紛争の最中であっても、人道をふみはずす行為は許されないという世論があってのこと)を遵守した。
 ドイツは米国の民族皆殺し政策に加担せず、南北ベトナム双方の民間人を治療した。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んだ。沖縄の米軍基地を爆撃に使わせるのを断って、日本が病院船を派遣すべきだった。沖縄とベトナムなら補給や重傷者の移送も迅速に行われたはずだ。憲法九条を持つ国にそれが出来なくて、ドイツには可能だったのか。
 
    ドイツ憲法第1条
   人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である。

    日本国憲法第十三条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

  「人間の尊厳」とは、その存在の尊さ言う。存在の無条件の承認である。何かが出来るから、名門に合格したから尊いのでは無い。大会を勝ち抜いてメダルを囓る姿が素晴らしいのでは無い。生きている事実そのものが尊い。
 そんなことは言われずとも分かっている筈なのに、我が子や我が校が一歩でも抜きん出ることを目指してしまう。  


 「だのに何故、歯をくいしばり、君はゆくのか、そんなにしてまで・・・」。映画「若者たち」の主題歌は、そう歌っていた。貧しい兄弟たちは、助け合い罵り合いながら、平等と正義を求めて苦闘した。しかし、食うや食わずからの貧しさからほんの少し抜け出して見れば、助け合いや平等への熱情は冷めるばかり。競争とは無縁の高校生のクラブ活動分野にまで、無理矢理競争が持ち込まれている。連帯と友情の影はきれいさっぱり消えている。

 映画「若者たち」に、気に入りの場面がある。兄弟唯一の大学生サブが、破綻せんばかりの悩みに打ち萎れる友達に、工面したなけなしの金を貸し、笑いかけながらこう言うのだ。「いっちょう揉んでやるか」、そして、二人して
大学の森を駆け抜けてグラウンドに向かう。サブはラグビー好きだったが、学費のためのアルバイトと学生運動で、クラブに属する贅沢は出来ない。しかしどこからかボールを調達して来て、芝を駆け回る。スポーツは、こんな働く青年たちのものである。たまの偶然に出来た僅かの時間に楽しめる、そんな開放的仕組みがあっての「人間の尊厳」だろう。
 
 資金と時間を持つ者だけが特権的にグラウンドを占領し、当局の補助とマスメディアの称賛をあてにメダルを目指す。貧しい者たちは、見るだけ、憧れるだけ。ここに個人の尊厳は無い。メダルを稼ぐ奴隷と、賃金奴隷だけだ。

 尊厳が組織や集団のものとなれば、個人は組織に属することを誇るようになる。組織が尊厳の単位になれば、外部を排除する意識は生まれやすい。それが民族単位になれば、排外主義となる。
 
 日本国憲法では、権利の対象をわざと「国民」に限定している。戦中は強制同化して「日本人」
としての死を強要した諸民族を、都合よく「尊厳」ある人間から排除して恥じない。日本を見苦しくアジアから隔離する意識が、13 条にはある。
 戦犯としてのけじめもつけぬ「天皇」を、
憲法本文の冒頭に置いたのでは、「人間の尊厳は不可侵」を掲げた憲法とは言い切れまい。だから日本国憲法第十三条は歯切れが悪い。
 第一条と第十三条とでは、覚悟が違うのだ。「公共の福祉に反しない限り」を挿入して、権利そのものの範囲を恣意的に限定することも可能にしてしまったのである。
 ドイツ憲法第1条と日本国憲法第十三条は似てはいる。しかし状況によって逆方向を向いてしまう。
 
 例えば、我々は公立学校の選別体制が、「人間の尊厳」に関わる桎梏と捉え闘ってきただろうか。それを憲法を守ることとして覚悟してきたか。
 制服や持ち物から個人情報が即座に読み取られてしまうのだ。創立100周年偏差値72 のA高校という情報を体の表面に貼り付けた少年と、定員割れで閉校寸前の偏差値38のZ高校という袋を被せられた少年の、3年または6年、場合によっては死ぬまでの生涯が、どんな格差を孕んでいるか分からない奴らにひとを指導する資格はない。高校生にとっては、偏差値が僅か「1」違うことが蔑視や劣等感の根拠となって、映画「若者たち」的青春を遠いものとしているのだ。その悔しさ悲しみを想像出来ないか。

 すべての青少年が「尊厳」ある存在であるためには、選別は許されない。生徒の尊厳を守るために選別体制廃止を主張し闘う覚悟を、日本の教師や学生は持ったことがあるだろうか。生徒には、学校や教師の尊厳を強要して「起立・礼」を強制したでは無いか。
東大闘争は、選別体制に一瞬でも立ち向かったか。尊厳を我々は分かっていない。
 「公共の福祉」を盾に一人一人の尊厳を押しつぶす行政の理不尽を、若者の意識に初めて植え付けるのは学校なんだ。

 人としての尊厳は不可侵であることを前提として、public =「公」の概念は形成される。そこに「公共の福祉に反しない限り」を被せれば、公=「おおやけ」は集団を覆う何重もの大きな屋根としての「大家」に過ぎなくなる。だから世界のどこでも許されていない米軍の理不尽や無法が、広義の「公共の福祉」としてまかり通るのである。(未完)

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