SNSの「いいね!」は、君の社会性も人間らしさも破壊している

facebookのザッカーバーグは我々を監視する
 僕が携帯を持たないわけの一つは、電源を完全に切ることが簡単では無いからだ。着信音を阻止して、観劇や音楽鑑賞の妨げにならないようには出来るが、どこにいても追跡される機能は生きている。「誰それは今誰と一緒です」と、頼みもしないのに教える機能まである。位置情報は便利そうだが、監視の手段だ。
 どこで何をしているかは、個人の尊厳にとって重要なことだ。だから監視も追跡もされたくない。facebookでは友人関係までが一目瞭然であり、それを便利・親切と思わされる。誕生日も、知り合いに自動的に知らされ「おめでとう」が強制される。

  SNSに漂う怪しげな空気を、facebook開発者の一人パリハピティヤは、言葉や映像などの発信に対する「ハート」や「いいね」の仕組みを例に挙げ、こう言っている。
 「私たちが作り上げた、スパンが短く、ドーパミンの分泌によって駆り立てられるようなフィードバックのループが、社会を壊しています・・・そこにはソーシャルな会話や協力がなく、情報の欠落と曲解された不正確な言動が存在します

 facebook社のCEOザッカーバーグは、米議会公聴会で、facebookがfacebookユーザー以外の情報も集めていることを認めている。これは、facebookの「いいね」ボタンが設置されているサイトを閲覧すると、「いいね」をクリックしなくても閲覧に使ったパソコンやスマホに残る履歴などはfacebookサーバーに自動送信されるからだ。

  「いいね」には、更にあきれた拡張機能「どうでもいいね」がGoogle Chromeによって提供されている。これは、Facebookのタイムライン上に表示された投稿を良し悪しに関係なく、まとめて「いいね」する。

 
 忠告や批判は、友情と民主主義の基礎である。それを先端を気取った便利な道具が、軽薄な「いいね」で破壊している。個人のfacebookにはたいてい、少なくとも数百人が友達として登録されている。こんなに大勢の「友達」に、各々の悩みや喜怒哀楽に応じた対応が出来るわけがない。

 ある財閥系巨大企業の人事部長を務めた友人は、一人の課長が面倒をみることが出来るのは10 人でも多いが口癖だった。部下には数人の家族がある、その一人一人にまで目を配ってこその管理職なんだ。友達も同様だ。何百人も「友達」登録すれば、結果的にすべての「友人」に無関心にならざるを得ない。すべての「友人」に同じメッセージを送るとは、誰の心配も出来ないと言うことなのだ。だから、何を見た、買った、食べた、どこに行った、などという私信だけが一方的に発せられ、機械的に「いいね」が累積される。

 「いいね」が気になるとfacebook 上は本人が自覚出来ぬほどの極軽い「嘘」で「いいね」を増やそうとする。トランプのSNSだけがfakeなのでは無い。SNSの機能上の必然なのだ。誰もが、少しづつfakeなのだ。
 ホワイトアウトした雪の平原で、気づかぬ間にワンデリングを繰り返して遭難するように、僅かな目に見えないfakeも積み重ねれば、自分自身の心積もりとは逆を向いてしまう。最早そこに「真実」は無い。
 悩みや苦しみが見えない真実は、所詮fakeに過ぎない。
 facebook社を去ったパリハピティヤは、自身がその成長に関わったFacebookについて「とてつもない罪悪感」を感じている、なぜなら「社会が機能する機構を分断させるツールを私たちは作ってしまっと発言している。

 政府がオーウェルの描いた『1984』的になるのを多くの人は懸念している。しかし今や懸念では無い。便利さに釣られて自発的にプライバシーを権力に向かって開け放しているのだ。一連の「戦争法」は人々が権力に向かって無防備になったことの結果た。
 我々は公的な役割を担う企業が便利さを餌に、プライバシーを奪うことに不用心すぎた。新聞の紙面が、通販のえげつない宣伝に汚され、国民の公共財たる電波が数多くのTVshoppingに占領されているのに、それを便利だと錯覚している。便利になったのではない。便利で身近な商店街が大型商業施設に駆逐された結果としての不便さにつけ込んだに過ぎない。そして新たな搾取体系が生まれ、貧困は更新・拡大再生産される。
『1984』的世界の貧しさは、こうして出来する。

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