南京大虐殺 / 殺される側に身を置いて、怒れ! |
私にとって、三島氏たちはこの話のなかでの「武士」だった。あるいは「武士」の側に身をおこうとしている人たちだった。同じことは、彼らの死によって衝撃を受け、「自分たちの側に三島氏を出さなかったことは自分の敗北だ」と彼らの行為をとらえた「全共闘」運動の指導者にも言えた。あるいは「三島事件はこのどうしようもなくくさりきった時代に対する警鐘だ」という投書に端的に見られるような当時の一種の三島氏らの行動への暗黙の支持の風潮にも、それは言えた。・・・「たとえ、それが精神的な意味あいにおいてであろうと、たとえば、武士たちがどのように美しさにみち、けだかい狂気にみちたものであろうと、そうした生き方を示していようとも、私はそこに身をおきたくない。それは私のひとつの決意であり、その決意を、私の生き方、考え方の基本にすえようと思う」・・・
(船頭の)「その死に、自分の生き方、考え方、感じ方の根本をすえることだった。私がそうするのには、一つには、私自身が私なりに体験した過去の戦争体験があるにちがいない。」「船頭」の死は、まさに私が体験したなかでおびただしく見た「難死」だった。・・・「私の戦争体験が私に強いた認識は、私があわれな船頭以外の何物でもないという事実だった。その事実を認識することから、私は、自分の反戦運動への参加の原理、そして参加そのものへの基盤をつくり上げて行った」 小田実『「ベ兵連」回顧録でない回顧』p581
都立S高校では、体育祭が名物であった。応援団が縦割りで組織される。三年生が一年生二年生をしごく。彼らはバインダーを必ず小脇に抱えた。中の書類に何が書かれているかは、分からない。何も入っていないかもしれない。練習の最中、それを開ける者はないのだから。マッカーシー議員の内ポケットに隠され、全米が戦いた国務省内共産党員のリストのように真っ白かもしれなかった。 それでいいのだ、それは権威の象徴であったから。何しろこの国では、権威はいつも空虚なものであった。
そのバインダーを片手に応援団リーダーは、下級生しごきを謳歌した。夕闇が迫り学校を追い出されても、近所の公園や空き地でダミ声を張り上げた。一年生は暗闇の中を、しごきへの反感を抱えてヘトヘトになって帰宅した。
僕はこの応援団が、嫌いである。体育祭も嫌いだった。体育祭や応援団の振る舞いは、全体主義そのものだったからだ。しかし中学生は、S高校伝統の体育祭応援合戦に憧れて入学する。数週間のしごきは、体育祭当日の本番に続く後夜祭で興奮の坩堝と化す。団ごとに円陣を作り感想を言い合い、いつまでも泣くのである。
集団の涙には、妙な浄化作用があって、しごいた三年生に対する反感や恨みを洗い流して声を挙げて泣くのである。そして翌日から、先輩後輩関係が強化更新される。理不尽な暴力に対する怒りは、こうして体制内化する。
昔、侍はよく泣いた。坂本龍馬も西郷隆盛もよく泣いたらしい。新撰組も吉田松陰も泣いた。全共闘もよく泣いていた。泣くことで、論理は置き忘れられ、情緒が幅をきかすのである。
革命家は、泣かない。泣くのを止め、怒るところから革命は始まる。泣きながら武器を振り回してはならない。
応援団のバインダーは、侍の刀に相当していたと思う。行動の上からは邪魔ではあるが、応援団リーダーとしての価値付けに欠かせない。白衣を着たがる教師や、医者でもないのに白衣に執着する臨床心理士に似て滑稽だ。だが、本人は胸を張るから余計可笑しい。
市ヶ谷で三島由紀夫たちは、特注の制服を着用し日本刀を帯びて絶叫した。応援団リーダーは、揃いのバインダー片手のダミ声に自己陶酔したのである。
僕は、高校生の応援団や「侍ジャパン」にいやなものを感じる。彼らは常に『葉隠』に於ける武士に、自己を同一化している。決して、切られる船頭の側の立場に立ってみることはない。侍であることを信じて疑わないのである。雇い主や「くに」のために命を賭けて闘う自分の姿に「武士道とは死ぬことと見付けたり」と得意がり、斬られ殺される側に身を置くことはないのだ。
南京大虐殺や慰安婦問題でも、殺され虐待される側に身を置いて想像することがない。せいぜい「小心な善意」の傍観者なのだ。
だから敗北した途端、皇居前に土下座して泣き、占領軍として敵が上陸する前に、「特殊慰安施設」を整えた歴史的恥辱を感じることも無い。
自らを戦場に駆り立てた者への怒りを抑圧して、自らが為した虐殺や虐待を告発する者達を憎悪するのだ。それ故、未だに占領行為を暴力的に継続する米軍への従属・へつらいを止められないのである。
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