ユーモアを組織してはならない。

 


   黒柳徹子は70年代のニューヨークに遊学したことがある。

 ニューヨークには、馬もたくさんいます。それも、おまわりさんを乗せて、パカパカと、自動車と並んで、銀座通りのような賑やかな大通りを歩いているのです。一頭のときもありますし、二、三頭連れだっているときもあります。あっちこっちでよく見かけるのですが、何をしているのでしょう。

 そこで、この間、ブロードウェイの通りで、手帳をひろげて何やら書いている馬の上のおまわりさんに質問してみました。

 「失礼ですけど、なにか見張ってらっしゃるの?」

 答え「あなたが美しいので見張ってるんですよ」

「・・・」

 話はそれますが、こちらは、おまわりさんでもこの調子で、すぐお上手が口から出るのですから、ましてや、プレイボーイだの、世馴れている人の口から、オートメーションの機械のように、ほめ言葉とか、愉快な言葉が出てくるのはあたりまえですし、喋るのが商売のプロの司会者などにいたっては、のべつ人を笑わせて、つきることがない、というのも、驚くことではないのかもしれません。

  ・・・

  いずれにしても、世界一暴力沙汰の多いこのニューヨークで、のんびり馬にまたがって「あなたが美しいので見張ってるんですよ」なんてのんきなことをいっているおまわりさんのいるこの国も、相当に変わってて、面白い国だと思います。

 おまわりさんとお別れのとき、私は「サンキューベリマッチ!」といいました。ちょっとハンサムなそのおまわりさんは、ていねいに馬の上から頭を下げ、「ドウイタシマステ!」と日本語でいってにっこり笑いました。

 サービスもここまで行きとどけば完璧! といったふうで私は感心したのであります。 文春オンライン                                

 「相当に面白い」を学校に持ち込むのは多くの教師が肯定するかも知れない。黒柳徹子のように生徒が振舞えばいいのだ。

 昼休に校門で立ち番する教師や授業しない校長に、

 「失礼ですけど、なにか見張ってらっしゃるの?」と聞く高校生がいればいい。

 「校門に聞いていたんだ。「君は何のためにあるんだ」って」

 「あら?  何て答えたの」

となるだろうか。校門に立つ教員は、生徒を敵視しているからそうはならない。「トモエ学園」になれればいい。

 「世界一暴力沙汰の多いこと」も既に実現している。部活の体罰死は群を抜いて世界一。

   最近笑いを取るために、TV芸人たちが酷く「暴力沙汰」を好むようになっている。笑いながらの虐めやいじりは、芸を磨くことを忘れさせる。それで視聴率を取れれば電通も満足するから恐い、とても怖い。笑えて優越感が味わえるなら、周辺の国々や国民を貶め挑発さえする。こんなところに「国際化」は洪水のように押し寄せているのだ。国会議員は胸に青いバッチを付けてそれを煽る。TVやネットの日常にユーモアの片鱗もない


 体罰の現場をユーモラスに静められるなら、ユーモアやウィットもいい。だがそんなものがあれば今までいくらでも出番はあった。

  僕が感心したのは、「やめときーな」という抑揚ある関西弁で体罰教師の手を掴んで静止した例だ。拳を振り上げた教師は、突然の柔らかい方言に気勢を削がれ我に返ったのだ。肩をうなだれ現場を去った。「やめときーな」と咄嗟に言ったのは関西人ではなかった。彼にあったのは何か。これはユーモアでもウィットでもない。


 「・・・読み、聴き、見る自由が必要です。芸術家が発信するものを、大衆が受け取ることを禁じられたら、芸術家同様大衆も抑圧されます。もっとも大衆の場合、芸術家とは違った悪影響を受けます。つまり、未成熟のままに留まるのです。未成熟こそが、ナチス・ドイツの一般大衆の顕著な特徴です。敵の写真を眺めると皆さんは、有能で、勇敢で、恐ろしく、英雄的ですらある、という印象を受けるかもしれません。しかし、大人の印象を受けますまい。彼らは聴き、読み、見ることを許された経験を持たないのです。自由を実行することを許された経験を持つ者だけが、その日の中に大人の色を持つことができるのです・・・」  フォスター 『反ナチス放送講演三篇』1940年9月26日


 この演説の「芸術家」をマスメディアや教師に置き換えて読まねばなるまい。

 若者も大人も、「未成熟のままに留」められ、そして、「なんでも日本が一番」の番組に煽られてのぼせ上った幼稚な顔をしている。「聴き、読み、見ることを許され」た限りの後進国日本の有様を知ろうともしない。「自由を実行することを許された経験を持」たないことに怒りも不満も持てない。

 「未成熟こそが、ナチス・ドイツの一般大衆の顕著な特徴」であったことに、僕らは僕らの現在を重ねて、警句とする必要がある。 カッコいい幼稚さに彩られた部活や行事、硬い幼稚さに封じ込められ批判精神を禁じられた主権者教育。それらが目指すのは、操作しやすい大衆である。


 必要なのは笑いではない。未成熟を恥じる冷静な怒りだ。笑いや悲しみで全体を組織すれば、そこに暴力が芽を出す。笑いは個別的でなければならない、そもそもあらゆる感情表出は個別的だからだ。

   天皇制の惨忍さは、その冠婚葬祭に凝縮している。

 黒柳徹子の振舞いも騎馬警官の対応も、マニュアル化出来ない。

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