敗戦と小学生の自治

何でも読まなくちゃ、現代社会は分析できない。
現代社会を知らない者に企業の先行きは読めないよ
   Qさんは、敗戦の年に小学生であった。当時小学校は国民学校と自称していた。国民学校でもGHQの肝いりで自治会づくりが行われる。Q少年は呼びかけに応じて集まった仲間と自治会づくりを始めたが、何をしたらいいかわからない。教員はもっと何も知らない。子どもたちだけで話し合ったという。こういう話し合いは、子どもだけでは無理だ言うが、そんなことはない。日常の生活と遊びにいくらでもヒントは転がっている。
 大切なのは、教師が自信を失い、子どもには混沌と希望があることだ。教師は存在するだけで、子どもに依存心を芽生えさせてしまう。彼は高学年だったので中学性になっても、自治会づくりをしたという。高校、大学でもその経験は生かされた。大学では入学早々、学費闘争が始まる。

 ここで書きたいのは、その後のQさんの生きざまである。工業化学を専攻して、あるメーカーにセールスエンジニアとして就職したが、根っからの正直者であるため顧客には歓迎されるが、売り上げは伸びない。嘘が言えないから他の会社の製品を薦めることも屡々で、僕が知り合った頃は数度目の失業中であった。

 当時僕は高校生だった。Qさんとは同じ団地に住んでいた。あるとき自治会幹部たちが自治会費を私的に流用しているのではないかとの噂を聞きつけ、さっそく調べた。案の定酒宴を繰り返していた。僕はガリ版を切り、部室の謄写版でビラを手刷りした。都内有数の巨大団地だったから、三千枚近くを運び配って歩いた。さっそくいくつかのコンタクトがあった。Qさんからは封書で、高校生を対等な大人として扱う丁寧な共闘の誘いが届いた。
 瞬く間に組織が立ち上がり広がった。機関紙を発行して自治会民主化の狼煙を上げ、臨時総会に持ち込み勝利した。その間様々な邪魔や懐柔そして脅迫も経験した。
 同じ年代の高校生や若者との連絡もつけることが出来た。周辺の零細企業の青年たちとも知り合えた。

 Qさんの書斎には、相対性原理や化学の専門書などに交じって社会科学や哲学の本がぎっしり詰まっていた。休みにはよく訪ねて話を聞いた。高校の社研で学んだことが、彼の経験を通して具体的で身近な像として見えてくるのであった。晩御飯を御馳走になって遅くなることもあった。

 一年経った頃、巨大財閥が外国大資本との合弁企業をつくることになり、Qさんは昔の同僚から「君のような変わり者を探しているらしい」と紹介されて就職した。英語が達者な彼は忽ち頭角を現し、人事課長に抜擢され小田急沿線に引っ越した。
 僕も68年からの大学闘争で暫く会えなかった。怒涛の大学生活を終えて、僕は教員になった。新しいQさんの書斎に入って僕は驚いた。その頃はすでに人事部長になっていたが、書棚は縦にも横にも広がり、図書館の一角のようであった。マルクス・エンゲルス全集もレーニン全集も並んでいた。驚いたのは、部下が時候の挨拶に訪れても、彼は書斎に案内していたことだ。 
 「いいんですか、こんな本を読んでも」と部下が驚く始末。
 「読む自由があるうちに何でも読まなくちゃ、現代社会は分析できない。現代社会を知らない者に企業の先行きは読めないよ」とあっさり言うのであった。
 人事部長として、彼が当時心掛けていたのは中間管理職の負担を軽くすることと休暇を取らせることであった。彼はこう言っていた。
 「課長になれば、みんな子どもが二人はいて其々問題を抱えている。爺さんや婆さんを抱えていたり夫婦の間にも軋轢はあったりする。そんな課長が直接面倒を見られるのは、何人だろうか・・・僕は5人でも多いと思うんだ」

  合弁相手の重役と協議していた時、向こうから
 「Qさん、単身赴任どう思いますか」と唐突に聞かれた。
 「実は悩んでいます」と正直に言うと
 「単身赴任はいけません、あれは人権侵害です。やってはいけません」と明確に言い切ったという。

 労働組合との交渉でも、Qさんにはじれったいことがあった。それは春闘の要求が低すぎること。巨大企業の重役の多くは、労組幹部出身である。だから若い労組幹部も、いずれ重役にと考えてしまう。だから働く者としての要求を、前面に押し出さない。賃金要求も低いが、そのほかの労働条件などの要求は個々の要求を羅列しただけ、やる気の無さが丸見えである。一計を案じて、労組の若者を飲みに誘った。Qさん自身は全く飲めない。会社が公表している書類から、会社がどれだけ儲けているのかの読み取り方から講義しなければならなかった。そして諸要求をまとめるとはどういうことなのかについても、一から教えた。にも拘らず、出てきた要求の低さに呆れた。

 また、社員から制服とバッジの要求が出てきたときは
 「君たちは自分自身ではなく、バッジで判断されたいのか。そんなに奴隷になりたいのか」と怒って、断乎として拒否したという。採用時の面接で書類から出身大学名を削除する試みもした。
  Qさんにはこうした挿話が沢山ある。環境保護活動など地域の問題にも力を注いでいた。小学校から大学まで一貫して自治にこだわった人らしい生き方である。


 僕にとって最も忘れられないのは、公安警察が作成するブラックリストのことである。僕はその存在を高校生の時知り、この国に愛着を持てなくなった。学ぼうとしても全く意欲がわかないのである、まるで脳が硬質の陶器のように何も受け付けないのだ。これは生まれて初めての経験で、閉口した。馬鹿になったかと悩むばかりの虚しい数年が過ぎた。

 例えば高校生の政治的活動家のリストが、データーとして存在する。もちろん大学生、外国人・・・。ぼくはそれを企業の人事部は、使っているのではないかと彼に聞いた。即座にそんなものはないよと否定した。しかしその質問から二十数年、取締役として退職間際、体調の衰えがめだってきたQさんは僕を呼び出して
 「あれは、君の言った通りある。使いたくなかったが、使ったよ。リストに載っている学生は、みんな採用したくなるような突出した能力、魅力的人格の持ち主だった」としみじみ語った。ずっと彼の心に引っ掛っていたのだ、嘘の言えないQさんらしい。
 僕の高校の同期で、このリストに載ったことが明白な者の中に、大企業に採用された者や官僚になった者はだれ一人いない。それは僕の誇りである。


追記 巨大企業に就職した友人で、会社の独身寮に暫く居た者がある。大学時代に使った書籍を持ってゆくのだが、出勤中して戻ると書棚の様子がおかしい、いくつかの本が逆さまになっている。翌日きちんと並べなおしたことを確認して出たが、又逆さまになっている。誰が何の為にと思い、古手の寮生に聞くと
 「それは管理人だ、逆さの本は、思想的に左だろう」という。その通りだとこたえると
 「管理人は、親切のつもりさ。早めに反省して棄てれば良し、そうでなければ報告が人事課にゆく仕掛けだ」彼は憮然として、寮に戻るなり管理人に抗議したが、気になって押入れの箱に入れて出勤。帰ると今度は、それが畳の上に出してある。
  彼は我慢がならず、人事課に直接抗議した。人事課長は知らないと言い、管理人には注意すると約束して一応ことはおさまった。人事課長はとぼけたのか、管理人が功を焦ったのかわからない。昇進に影響はなかったと後から聞いた。
 ある都市銀行の社員寮ではもっと露骨で、入寮に際して心得として禁書の類が言い渡されたという。朝日新聞と世界がダメで、あとはそこから推測しろという。ある宗教団体の新聞とその政党機関紙は、逆に奨励された。これは1970年代のことである。

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