人格陶冶 / 「みんなで」から「たとえ一人でも」へ

  埼玉のM先生からmailがあった。要点だけを引用させてもらう。

 今日、テストがあり、その解答用紙の裏に、次の文を書いてくれた生徒がいました。

<<たくさん勉強しても点が取れないけど、がんばりを認めてくれたのは先生が初めてです。うれしかったです。・・・。どんなにボロクソな点をとっても勉強をがんばったって認めてくれて本当に本当にうれしかったです。・・・。>>

 <<1学期の件 素直に認められずすみませんでした。自分の非を認められなかった幼稚な考えを改めます。本当にすみませんでした。>>

 同じことを繰り返して書いてあって、そんなにうれしかったのか・・・  (後半の部分は)授業で彼の行動を私が注意したことです。書かなくても、謝らなくてもすむのに。

  M先生はmailで高校の状況をこう書いている。

  <<今、教員は、生徒との「共感」が、授業でも授業以外でも少ない感じました。>>


   教室に授業に共感の空気が流れていれば、褒められても叱られても嬉しいに違いない。そこで生徒も教師も、自己を再発見するからである。自分の本当の姿になかなか人は気付かない、それが欠点であればなおさらのことだ。

 M先生は来年教壇を降りる。彼は日々の授業を、生徒たちとの対話を中心に構成してきた。だからいつも笑いやお喋りに満ちている。ところが去年、何時までもお喋りが止まない。堪りかねた知り合いは、苦言を呈した。

 すると、以外にも「叱ってくれた」ことに嬉しさの感情を見せたのである。ただ甘っちょろくで生徒に迎合するだけの教師ではないときづいたのだ。

 更にこの生徒の場合は、集団として𠮟責されたことを、個人の問題としてとらえ直している。   

 ここにみられるのは、少年から青年への成長である。
 中学生的「みんな」意識に心身ともに拘束される段階から、「みんな」や他人がどうであれ「僕個人」は・・・と自立した価値観を形成する段階への移行という重要な成長の課題がここにはある。高校の前半がこの時期に当たる。静かで深い思索を伴う、しかも個別的で一斉ではない。

 この時期を、日本の少年は軍国主義や集団主義的思考と行動で明治以来奪われてきた。だから官僚も経営者も軍人も「みんな」がしている式の「無責任」が標準となる。国家自体までが歴代の侵略行為に対して「無責任」を貫いてしまっている。


   M先生は、少年の倫理的成長という課題に的確に対応しておられる。高校と中学が互いに独立している意味を教師は深く静かに考えねばならない。受験や部活の便宜のために、人格の陶冶を軽んじてはならない。

 今学校には共感の居所はない、競争による傲慢と絶望が蔓延して学園物のドラマも消えた。tvドラマで描かれるのは犯罪と警察だけになった。

 画像は白バラ抵抗団の一人、医学生だったがナチによって二人の友とともに処刑。彼らはナチス少年団という巨大な「みんな」から知的に自立し、命を賭して闘った。最後に彼らの一人・ゾフィは、命だけは助けようというナチスに向かってこう言った。 

「私は自分が何をしたかを理解しています。機会があるならばもう一度同じことをします。私は間違ったことをしていません。間違ったことをしているのは、あなたたちです」

  この時もなお人々は、ヒトラーの言葉に酔い痴れていた。経済が回っていたからである。


 


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