さぼる義務・断る義務・やめる義務

 元気であっても、暇があっても、「さぼる・断る・やめる」。どんなにあてにされても、泣きつかれても、おだてられても「さぼる・断る・やめる」。
  部活・仕事・付き合いはもちろん、市民運動・慶弔事・・・・あっさり停滞し後退する。それで、大学への推薦や就職がフイになっても「さぼる・断る・やめる」。たとえ勲章や博士号をやる、何とか賞をあげると言われても死んだふりする。敢て義理を欠く。
 みんなが頑張っているときに、ひとりだけさぼれない。そうだろうか。そうやって誰もが我慢しているのではないか。誰かが最初の一人になる必要がある。中学生も長時間部活で、体を精神を痛めている。教師のの残業時間は過労死ラインを突破している。  
  「もしも労働者階級が、彼らを支配し、その本性を堕落させている悪疫を心の中から根絶し、資本主義開発の権利にほかならぬ人間の権利を要求するためではなく、悲惨になる権利にほかならぬ働く権利を要求するためではなく、すべての人間が一日三時間以上労働することを禁じる賃金鉄則を築くために、すさまじい力を揮って立ち上がるなら、大地は、老いたる大地は歓喜にふるえ、新しい世界が胎内で躍動するのを感じるだろう」 ポール・ラファルグ『怠ける権利』人文書院
  教師はその優しい献身性までが、評価の対象であり、デパートの店員や旅館の従業員は腰の低さと笑顔が売り物になっている。我々自身のものとして残されているのは、不機嫌と怠惰だけ。「さぼる・断る・やめる」ことは、もはや権利ではなく義務である。

  ある福祉施設に、家族にも見放された不満たらたらの老人が入ってきた。「誰が俺の面倒を見るのか」「一体俺をどうしようというのか」を職員にぶつけるが、誰も取り合わない。・・・数日して瀕死の重傷で意識不明の少年が運び込まれてきた。家族で事故にあい、少年だけが助かったが、目も見えず話すことも体を動かすこともできない。回復の見込みはなかった。「まだ小さいのになんてことだ、かわいそうに」「誰が世話をしてやるんだ」と職員に言うと「あなたがやったら」と返ってくる。「なんてことだ」と呟いて部屋に戻る。夜になっても落ち着かず廊下をうろうろする。
  意を決して少年のベッドに近づき、「やぁ、坊や」と言って頭を撫でるが反応はない。ベッドの傍に椅子を置いて座って、手を握って「こんにちは、私は年寄りの○×だよ、坊やどうだい」と話しかけると、手を握り返してきた。それから毎晩、老人は手を握って絵本を少年に読んだ。
  一週間後、老人は息を引き取っていた。穏やかに微笑んでいたという。
 
 僕はこの話を、雑誌で読んだのだが、探し出すことが出来ない。カナダか米国の話だったと思う。機嫌を損ねた老人が、少年に係わって安らかに息を引き取れたのは、すべての活動から手を引いていたからである。

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