「自由」な思考が膠着する時

  1羽ずつ仕切られた籠が並ぶ養鶏場、そこから2羽を選んで、突然自由にする。放たれるや喧嘩を始め、片方が息絶えるまでそれは続くという。
 卵を産まなくなった養鶏場の鶏を百羽、みかん園に放し飼いにした話がある。半数はじっと餌も食べずそのまま死んだという。残りが餌を探して歩きまわるようになるのには、ひと月を要したと言う。
 解放直後の元奴隷 強制収容所の看守たちがすべて逃亡したあとの囚人たちの行動を思う。或いは、敗戦の劇的瞬間を迎えたにもかかわらず、政治思想犯の解放に向かわなかった我が日本。
 一体何歳になる迄であれば、あるいはどれぐらいの期間以下であれば、我々は与えられた環境から自らを自由にできるのか。体罰を受けた高校生たちが、あれはいい先生だったと頑なに暴力を肯定する。暴力を受けた屈辱を、批判精神に転換出来なくなる取り返しの効かなくなる時点がある、可塑性が消滅するのはいつなのか。
 大阪桜宮、浜松日体・・・体罰暴力教員は生徒父母から擁護され、批判告発者がヤリ玉に挙げられる。ストックホルム症候群。抑圧状態に置かれた者が、抑圧者やその状況を肯定する。ハイジャックなどの凶暴なものから格差を前提とした学校、「会社」、教団・・・に至るまで。
 抑圧が過酷であればあるほど短期間のうちに抑圧者に対する肯定が始まる。抑圧と気づかずむしろ自発的に。    

追記 学びの共同体的実践を選別体制下の高校で実施して、仮に成果があったする。しかし同時に選別体制を高校生が肯定したのでは何にもならない。賢い奴隷・家畜人の誕生にすぎない。混乱と無知の奴隷制より秩序と賢さの奴隷制なのか。小中学校で学びの共同体的学習を経験した子どもたちもやがて、選別されてゆく。必ず。そこで培った賢さや友愛精神はどうなるのだろうか。進学先の選別された環境の中に賢さも友愛精神も封印されて、選別を肯定し始めるのではないか。仕切られた籠の養鶏場は、選別体制下の学校そのものである。 

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