「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。・・・市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」 フランツ・ファノン
携帯電話という手段を得て我々は、何を得たのか。電話のないところにいる時の緊急の連絡だろうか。電話のない頃、我々は、どれほど不便であったのだろうか。例えば教師と生徒の場合、どんな利便があるのか。僕には、生活指導に関する問題は、時間をおくことが重要な場合が多い。時間が解決するという言葉を忘れてはいないだろうか。
仲違いして絶交すると息まきたい時、電話その物が無ければ手紙を書くだろう、書いている間に興奮が冷めて何がいけなかったのかわかることもある、投函するまでの間に自分が間違っていたと反省することもあるだろう、詰まらないことで熱くなっていたことが恥ずかしいと気が付くには時間が必要である。
帰宅途中、携帯で高笑いする自転車の高校生とすれ違った。危ないなと胸騒ぎがした。暫くして自転車と車が激しく衝突する音がして急いで引き返すと人だかりが出来て、むやがて血の匂いが立ち込めてきた。救急車やパトカーも駆けつけて大騒ぎになったが、どうだったのだろうか。
長年の知り合いが癌で急死して、奥さんが緊急の連絡先が判らない。やむを得ず携帯を開くと、おびただしい量の不倫関係データーが出て来た。奥さんは二重のショックで自殺寸前。20年もバレなかったのは携帯のお陰であった。電話や手紙なら感付く。互いの異変に気付いてこその家族である。
今年1月1日、衝撃的だが至極当たり前の外信がフランスから飛び込んできた。「労働者が勤務時間外に仕事メールを見ない権利獲得」これは法律として、2016年5月に成立して今年1月1日から施行された。既にフランスでは2000年以降、週35時間労働制が法律にもとづき実施されている。
フランスでは、便利な道具・携帯の機能を制御している。それだけではない、同時に政府や法律を、わが物としてコントロールするのである。日本では、便利な道具が学校でも家庭でも職場でも、人間関係と健康や命を脅かしている。
国民のため、子どもの夢だと御託を並べて、議員が約束する、体育館・劇場・博物館・ショッピングセンター・・・これらは市民や学生の意識を豊かにするどころか、意識の目覚めを妨げ、意識を解体する。
「学びたい」「働きたい」の根幹である、何のために、誰のためにという自立した思考欲求、それをファノンは「市民の筋肉と頭脳」と力強く表現した。必至になって知恵を絞り試行錯誤を続ける。その経験が主体を形成する。
止まらぬ更新拡大を繰り返す日本の学校施設からオリンピック施設まで。それらは降って湧いたのか。その見かけの経済効果に一喜一憂する。様々な競技的クラブや自治・学習の内容まで、予め早手回しに用意する、それが経営体としての学校の売り。構想し運営する主体としての少年青年は、知的に後退し消滅して、それらを制御できない。
我々教員は救いの神の代理人になった気でいる。お陰で青年たちは、イデオロギーを綺麗さっぱり収奪されてすっかり腑抜けてしまった。奇妙な光景だ。OECD諸国で日本だけが賃金が実質的に下がっているのに目をつむり、自分の持ち物ではない株の値上がりに期待する。世界に類例のない通勤ラッシュが一生続くというのに、一生のうちに乗る費用も機会もありそうにないリニア新幹線を作りたがる議員に票を入れる。
遊び場にも道具にも事欠く少年や零細企業工場商店の若者が、先ず自らの要求に目覚め自らを組織し、空き地を見つける。不足があれば、連合する。構想し大人や雇い主、行政と交渉決定運営する。政治活動とはそういうことだ。お膳立てされた投票ではない。主権者であるとは、先ず自分を組織することである。
任せて安心の進路、頑張るだけのクラブ、見栄えのいい設備、可愛い制服、華々しい行事、厳粛な式、それらが「救いの神」によって、並べられる。至れり尽くせりに見せて、依存させる。依存させ奴隷化する。安全便利な駅、テロのない街。しかし少年や青年の「筋肉と頭脳」を経はしない。学校も自治体も国家も若者のものとなることはない。
ファノンはアルジェリア独立戦争に参加、フランス植民地主義を批判して闘争を理論的に指導した精神科医。対独レジスタンスを闘ったはずのフランス知識人は、アルジェリアにフランス共同体に止まることを求めた。
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