父の深い闇

 懐かしい、この1年何度同じ趣旨の手紙を書いただろうか。書いては捨て、捨てては書いた。僕にとって故郷は全てが好ましく懐かしい。だが父には全てが疎ましかった。何故か。

 ことの始まりは、ふたつの偶然。一つは鹿児島県作成(1929年)の無癩県運動ガリ版刷り一覧を、全生園図書館で発見したこと。当時の鹿児島県南諸県郡S村大字帖は広いこともあって癩患者と判断された人も少なくなかった。僕の本籍もここにあった。府県は競うように「警察」権力を用い「患者狩り」を強行。癩は治療すべき病気であり、犯罪ではない。

 当時癩病院(療養所)は患者絶滅収容を掲げ、十年で日本全土から「癩」を一掃すると豪語した。絶滅隔離政策立案扇動者(「救癩」の父と呼ばれた光田健輔と渋沢栄一)は、伝染性の極めて弱い癩病をペスト並みの伝染病と偽り国民の恐怖を煽った。癩病そのもので死ぬことは滅多になく、怖いのは警察権力を使った患者取り締まりと絶滅隔離であった。日本政府が新一万円札の肖像に使おうと画策しているのがこの渋沢であり、相棒の光田には文化勲章が授与された。

 もう一つは熊本菊池恵楓園(ハンセン病療養所)患者自治会機関誌「菊池野」に「松原トメ」という筆名を発見した事だ。癩患者は収容時に戸籍や名前を捨てる事が多かった。世間の身内との縁を断ち切る為だ。恵楓園には患者による和歌のサークルがありアララギ派の土屋文明が、遠方より自費で指導に駆けつけ患者歌人を大いに励ましていたと言う。 松原はトメ婆さんが住んでいた集落の俗称。


 祖母は癩者狩りの犠牲者だったかも知れない。そう仮定することで漸く解ける謎が、父・直の周囲に幾つもある。

 「謎」=微かな疑惑は母の遺品整理で確信へ近づく。『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)はその解明の途上で生まれた研究。人はこの本を、「ハンセン病」の授業の実践記録考えるが、授業実践記録の類いは書いてない。書いたのは、日本の最も暗い闇と野間宏が言ったハンセン病療養所に収容された人々の生き様、抵抗、思想、歴史である。 

 母の書棚の奥は手紙や日記の束で埋まり、板や畳とともに虫に喰われていた。女子師範生徒の母と高等工業学生の父が交わした恋文も。


 この謎には苦難の色が付きまとう。それはドストエフスキー作品に劣らない。ドストエフスキー自身は、銃殺刑寸前で恩赦、シベリア流刑に苦しむ。だが作品群には宗教的愛が拡がり世界中が共感し涙する。父には共感・同情する世界が無い。残忍な視線と底知れぬ暗い闇だけがある。

 トメ婆さんは、絶滅隔離政策立案者=光田健輔の思惑の「十年」を超えて生きた。僕も父に連れられて何度か逢っている。その度父は、睡眠剤を飲ませ。僕は翌朝まで目が覚めなかった。

 「癩」の顔貌を孫に見せたくないトメ婆さんの願いは「せめて孫を見せて」だった。しかし5才の妹は一度も同行しなかった。妙な写真がある。表紙付きの立派な台紙に張られた入学記念写真。それに五才の妹も着飾って写っている。失業続きで貧乏のどん底にあった父がそんな費用を捻出する余裕はない。ともあれ婆さんは写真でしか妹を見ていない。癩=ハンセン病は学齢前までは感染確率が高いと信じられていた。

 ランドセル・学帽・学童服姿で恵楓園付近に遊んだ日の朝、父は妙なことを言った。「今日は小学校入学の練習だ、同じ格好で行くぞ」


 貧乏士族父方祖父の家計も逼迫していた。子沢山の祖父には旧制中学と女学校の学費負担はとてつもなく大きかった。父には学費の要らない高等師範を経て文理大学に進むしかない。学費の嵩む旧制高等工業に進学したのは、「癩病院」入りを頑強に拒む婆さんのためであったとしか考えられない。婆さんが父の同行を言い張って泣いたのかも知れない。トメ婆さんは大層な別嬪だったらしく、二人の娘も美しかった。父も美しい母が自慢で、祖母に課せられた力仕事は悉く父が引き受けた。

 h叔母も事情を承知の上で、高女卒後の銀行勤めの給金全額を父に送金している。

 高等工業学校卒は、当時勃興しつつあった中産階級としての技師を約束していた。父は、朝鮮総督府鉄道局勤めの軍属となる。留守中の見舞いは、母と大叔母に託された。都城から熊本までは肥薩線経由の夜行列車があった。

 トメ婆さんは戦争も生き永らえた。父は朝鮮からの引き上げ後も婆さんの見舞いは約束だ、鉄研や自治体課長職の誘いも断り、貧乏暮らしが続く。

 やがて婆さんの死期が近づくと熊本に移るが、赤貧洗うが如しの生活。おかげで母は師範学校在校時以来の結核を再発、吐血を繰り返す。当時も結核は、癩より遙かに伝染性の強い「不治の病」であったが入院も出来ない。結核病床はどこも満杯。 

 窮乏は限界を超え、差し押さえのたびに母は泣いた。父はやむを得ず、北九州若松の洞海湾を跨ぐ「東洋一」の若戸大橋プロジェクトに出稼ぎ。父はトラス構造の応力計算の近似式特許を持っていた。それで出稼ぎに誘われている。


 トメ婆さんの遺骨は僕が胸に抱え膝にのせて夜行列車で故郷に運んだ。「大事な人の骨」と父に言われたことを覚えている。この時の父は肥薩線矢岳越えの直線区間で、列車の最後部に佇み、遠ざかる線路に今にも飛び込みそうだった。僕は父の手を必死に引っ張った。

 その後の父は、友人と設計事務所を東京・四谷に開く。土木学会理事として、東洋一、日本一の土木事業に文字通り狂ったようにのめり込む。狂えば唯我独尊、周りが歪む。

 熊本から一時帰郷する寸前、『七分の四』という不思議なタイトルの映画を見た。父は頻りにタイトルの含意を僕に問うた。しばらく考えて「半分より少しいい」と言うと「そうか、判るか」と何度も何度も頷いた。

 父は「恵楓園」に通った若き日々を、人生の「七分の三」として闇に封じ込める決意を固めたのだと思う。何度も僕の頭を撫でた。小学三年になる寸前だった。父の人生は暗い闇の「七分の三」と死に物狂いの「七分の四」に歪んで裂けた。

 長い話だ。父とトメ婆さんは、爺さんにも故郷にも見捨てられる。長男であるにも関わらず父は家督相続から外され、トメ婆さんの後妻の長男の叔父に付け替えられていた歳は一回りも離れている、届け出を忘れたとは言い難い。祖父も自死を考える程苦悩したはずだ。しかし残される子どもの行く末を考えると、ほかの選択肢はない。

 絶滅隔離は残虐。光田健輔と渋沢栄一の極悪非道は、いくら非難してもし切れない。誰も罰を受けていない。 

 数学者でもあった父が、技術士・土木学会理事として成功後も決して故郷に帰ることはなかったのはそのためであった。数々の栄誉や地位と高収入転職の類いも全て断り続けた。 

 父は苦悩を誰にも語れない、悪酔いするほど呑んで周囲に迷惑を顧みない。毎晩泥酔。しかし叔父たちが東京に来たときには一滴も呑まなかった、酔えば苦難を語るおそれは自覚していた。

 たくさんの逸話を省いたが、もう一つ。熊本の夏は耐えがたく蒸し暑い。父はどんなに暑くとも、ステテコの上下を脱がなかった、たとえ胸を開けても背中は決して見せなかった。父の背中には癩の斑紋があったのかも知れない。患者狩り以来、偽り続けていたのか。父には頭痛や歯痛もなかった、だから殴られても殴っても「痛み」を理解せず、酔うと無闇に人を叩く癖があった。

 僕の膝には70年を経てなおくっきり残る傷跡がある。御代志停車場(菊池恵楓園正面の熊本電気鉄道駅)の資材置き場で遊んでいるうちに転倒、工事用の有刺鉄線で大怪我、気絶した。気付いたのは帰宅後の翌朝・・・。


  どうだ、もうこれ以上知りたくはないだろう。爺さんの立場からも苦難に満ちている筈だ。

 語れば300頁以上の本・前述の『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)を超えて一月以上を要する。  妻は興味深いと夜も読み耽り、ながく沈黙した。多分@ちゃんの住む地域の図書館にもこの本はある。

   ここでは「ハンセン病」と言わず「癩」を使った。歴史的差別性を回避した言葉では、日本で最も暗い闇は表現できないからだ。 

 追記

 日本の医学界が如何に国際標準から遅れ逸脱していたか、ここで触れておきたい。   1897年に開催された第一回国際らい会議では、癩病を伝染病と確認したが、恐ろしいとの表現はなくノルウェー方式が注目された。衛生管理を徹底したうえでの自宅隔離と、資力のない放浪患者に対しては街中(僻地では無い)の国立病院への強制隔離して患者の病状が改善すれば家に帰すという二本立てであった。生涯にわたる隔離ではない。ただノルウェーでは対策が本格化した時点で、患者数は既に自然減少に転じていた。

 日本の隔離はisolationではなくsegregation(追放)であることがわかる。何故ならisolationは患者の社会関係は維持されて、復帰を前提としているからである。 

 1909年の第二回国際らい会議では、「絶対隔離」は必要ではないことを明らかにして、1923年第三回国際らい会議では強制隔離の非人間性を指摘、隔離は伝染性患者に限ることを確認。

 東京で開かれた1958年第七回国際らい会議は、強制隔離政策をとる開催国日本にその政策を全面的に破棄するよう勧告している。

  日本らい学会が追い詰められ自己批判したのは、戦後も1995年の4月22日 ( 正式名称は「「らい予防法」についての日本らい学会の見解」) は 日本の医学会としては異例の謝罪声明。この中でこう述べている。

「 ・・・らい患者、・・・の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少・・・を示している。・・・疫学的に見たわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていたと言える。つまり、このような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」(癩予防法・1931年)も、推計学的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。・・・

 隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない」

 余りに遅い謝罪。    

 「日本らい学会」予防法検討委員会委員長としてこの「自己批判」起草に関わった国立ハンセン病資料館長の成田稔医師は、更に断言している。                                    

 はっきりといってわが国の癩対策は、予防的効果において自然減を越えたとは考えられず、癩による災いを本質的に取り除いたわけでもないから救癩でもなく、それに産業系列から生涯隔離したのでは救貧にもならない・・・・

・・・はっきりいえば、多くの患者はまさに見殺しにされていた・・・。                                                        

 お上公認の嘘で病気への偏見を煽り、患者を強制収容して強制労働を課し、絶滅を待ったのである。「見殺し」ではなく緩慢なる殺人ではないか。にもかかわらず医師免許剥奪でさえ聞いたことがない。

 隔離は死亡率の高い急性感染症だけに適用される。感染症の隔離には、相対隔離と絶対隔離がある。相対とは条件付き、絶対とは条件なしということである。前者が例えば、自宅隔離を認めたり、治癒後は退院を認めたり、家族生活や家族による看病を容認するのに対して、後者は本人の意志に係わらず例外なく終生隔離する。

 1897年には23.660人を数えた患者数は、2011年には2275人、平均年齢は約82才。そのほとんどはハンセン病そのものは治癒したいわば元患者で療養所に入所している人である。結核の治療を終えた人を元結核患者とは呼ばない。ハンセン病に限ってこうした呼び方がされる事にハンセン病の複雑な悲劇性が見える。

    らい予防法は医師に対して患者の届出を義務付け、届出を受けた知事は療養所への入所を勧奨し、従わなければ入所を命ずる事になっていた。病人が入るのだから入院と言う筈だが、多くがそれを収容と呼んだ。

 収容は剥き出しの暴力を伴った、1922年集落を警察が焼き討ちした別府的ヶ浜事件、1940年警官や療養所の職員220名が患者157人を襲撃し一斉強制収容した熊本本妙寺事件 注 が知られている。何れもハンセン病者・貧しい農民などが混住する集落での出来事であった。的ヶ浜事件の放火犯は警察官であったが不起訴処分。 

 患者収容後の家屋は、全身白ずくめの男たちがあたり一面真っ白になるほど徹底的に消毒、打ち壊し焼き払うこともあった。愛用の衣服・日用品・学用品にも近隣の人びとが見守る中で火をかけ、移動中は白ずくめの男が患者の歩いた後を消毒して回った。 消毒と収容さえも、絶好の「啓発」の機会として利用したのである。

 医師・看護師は白衣の装束に帽子、目だけ出した大きなマスクをし、履物は雨降り用の高下駄にはきかえて、その通路から患者地区に入り・・・高下駄のまま病室に入った。もし病舎に急患が出たときは、医師は看護師に注射箱をもたせて応診に来るが、玄関から中にはけっして入らない。患者が玄関まで運び出され、そこで診察し注射を打つのだ。患者を病室に入れる場合は、同じ舎の者たちが担架で病室に運ぶのである。病棟の担当者は患者付添夫で、医師・看護婦はけっして病室に関わることはない。見学者も土足のまま病棟や不自由者棟を見学するのである。・・・そして、一度収容所を見学した者は、らいがいかに恐ろしい伝染病であるかを体験するのである。                    松木 信   

 こうして出来上がった世界は、まさに筆舌に尽くせない地獄である。収容者の証言を引用する。

 「・・・保健所の人が来て検査し菌が出ていないからと言われたが保健所員は白衣を着て来た。町内の人が見ている。つらかった。母が一緒に死のうかと言ったことがあった。「海に入って死のうか」と。「こわい」を通り越していた。(1947 年入所 女性)」                              

 「小学校卒業して 3月23日、日赤で調べてもらい、わかったとたん病院中を消毒した。母親から裏の木で首を吊ってくれないかと言われた。親には、保健所から「ハンセン病の子どもは大和民族でも優秀でもない、殺しなさい、自殺させなさい、療養所に行くと都合わるいでしょ」とはっきり言われた。(1953 年 註 入所 男性) 」

  どちらも戦後の証言である。後者は新憲法下公務員の発言。「こわい」を通り越した向こう側にあるのは、世間の残虐な眼差し。言いようのない「恐怖」に襲われる。

  だが、「死のうか」と言った女性が若かった頃の農山魚村の窮乏を知らなければ、「死のうか」の背景を共感的に理解した事にはならないだろう。ハンセン病発症は貧困と強い繋がりがある。小作料の金納化、農産物価の変動、農業労働の機械化、「文明国化」「一等国化」のことある毎に、貧者はその日の食い代に窮して生死の境にあった。「死のうか」は日常だった。不幸も悲惨も偏在してありふれた光景となる。それが怖いのである。 二つの証言はいずれも『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 (別冊) ハンセン病問題に関する被害実態調査報告』から抜粋した。  山ほどの証言があるが、ここでは多くを引用しない。

 これが、トメ婆さんが執拗に癩病院収容を拒み続けた背景だ。収容が如何に膨大な犯罪群であるか、誰一人として刑事罰を受けていない。断っておくが、癩病に関する政策に起因する犯罪は、これだけではない。 

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