若者を貧困と無知から解放すべし

  「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」

 


黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。                            全く同じ事を教育にも言わねばならぬ。

 「教室の困難は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   教室を取り巻く諸困難ー非行・低学力・苛め・暴力・卑屈・傲慢・・・は悉く「社会の貧困と無知」が生み出した者ものだ。おかげで教師たちは、教育それ自体から逃げ出し始めて久しい。若者たちを主権者たるにふさわしく賢く逞しく育てる任務に戻せ。若者たちが平等で自由な権利を求め、仲間と共に街に繰り出す日は来るだろうか。

最近、渋沢栄一の妻妾同居のスキャンダルが注目を浴びている。彼は一万円札の肖像に最も相応しくない。嘗て朝鮮が日本の植民地であった時、渋沢栄一こそは植民地主義的収奪と干渉の象徴であった。

    例えば教育行政は、教師の教育に干渉して止むことがない。決して手助けはしない。教材や資料の用い方はおろか、教師の思想や振舞いにまで口を出し、文書の形式提出に拘る。だが世界で群を抜いて長い労働時間に苦悶す教師たちに手助けの「振り」はするが、何年経っても実行はしない。これは教育に限らない。 巨大企業や警察は家族の思想や市民活動にまで介入する。

 戦中のハンセン病療養所沖縄愛楽園に県警本部長一行がやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。戦場で兵士が命を投げ出して皇国に尽くしている時、ハンセン病者も死ぬことがご奉公である、つまり絶滅して経費を節約せよと説いた。

 その時、強制隔離され自由を剥奪された元教師の患者が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者がここにも沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」と大胆極まりない批判をした。忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎになった。

渋沢栄一が朝鮮で発行した紙幣が如何に朝鮮人の怒りをかったことか


 感染の恐れのないハンセン病を渋沢栄一と光田健輔は「ペスト並みの恐い病気」と人々の恐怖を煽り、死ぬまでの絶体隔離体制を作り上げる。実際ハンセン病患者は併発した病気で死ぬことはあっても、「らい」で死ぬことはなかった。

 病院が医者が患者を助けず、一家はおろか一族の生活を壊滅させたのである。その筆頭「戦犯」たる渋沢栄一を近代資本主義の立役者と祭り上げ、一万円札の肖像にするという。確かに渋沢は近代日本の犯罪的体制を象徴する人間ではある。しかし一万円札の肖像として支払いのたびに見せつけられるのは真っ平御免だ。

 野球部の顧問教師は生徒を坊主にしたがる。「大会の開会式で、球児全員が丸刈りで整列したら感動するよなあ」とは以前、大会関係者教師が気持ちよさげに頷いた台詞だ。中学生や高校生を「球児」と呼ぶ神経も気持ち悪いが、そんなに丸坊主に感動するなら、自分たちがそうすればいい。他人の髪型に干渉しておいて、表現を手助けしないで、何の教師か。彼らはgameとしての野球が好きなのではない。統制と干渉が好きなのだ。だから日本の野球やサッカーは、自らを「サムライ ジャパン」と呼びたがる。日本の近代化は部活やスポーツ界に残る封建制の徹底的克服なしには始まりはしない。先ずは、渋沢栄一の一万円札を葬り去ることだ。

 李氏朝鮮時代から渋沢栄一の第一銀行は、関税の取り扱い業務などを代行して朝鮮政府に深く食い込んで日本貨幣を朝鮮半島でも流通させた。だが日清戦争後、ロシアの朝鮮半島進出とともに日本貨幣の流通が激減。そこで第一銀行頭取渋沢は、李氏朝鮮を引き継いだ大韓帝国に無断で「無記名式一覧払い約束手形」を発行。この手形が実質的な紙幣として朝鮮半島で流通、大韓帝国は1905年に正式な紙幣として承認するはめに陥った。その手形=偽紙幣に、渋沢栄一の肖像画がある。渋沢は京城電気(韓国電力の前身)社長や京釜鉄道会長を努めるなど、植民地収奪の象徴だった。その強奪と鍛圧支配の詫びも誤魔化し続けて80年になる。わが恥ずべき政府はこの大犯罪者の肖像を最高額の紙幣の肖像にする。

 この「干渉したがるが、手助けはしない」悍ましい文化が生んだ習慣が「自分へのご褒美」の侘しい光景である。誰も手助けしてくれないのだ。自分でやるしかない。しかし「褒美」は、他者に向けられてこそ価値がある。  

 干渉はしないが、困っていると何処からともなく現れ手助けする人々もある。それが良き文化として定着している国もある。しかし未だに日本政府は、韓国朝鮮へのヘイト言説を放置扇動するのだ。


  参照  以下のblog記事はすべて渋沢栄一と光田健輔の前代未聞の悪事についての論考だ。追って再掲する。

            https://zheibon.blogspot.com/2021/07/blog-post_22.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/06/blog-post_18.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/blog-post_29.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/2.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/blog-post_18.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

  夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられて親も子も将来の稼ぎ高に目の色を変えて学校や企業をランク付けする。平等や公平と言う言葉は辞書の中で死んだようだ。それだけではない、歴史上の人物までがその稼ぎ高や地位に焦点を合わせて評価する番組が目白押し。その結果、賞を得た者が排他的に社会総体の実りを思いのままにする。

 学校や企業では、そんな我が儘勝手が横行し易い。偏差値に中毒する日本社会だ、「悔しければ、ひもじければ這い上がれ。」と新聞もtvも止むことなく煽り立てる。    

 根っからの自由人、辻 潤は餓死を選んだ。彼の墓は染井の西福寺にある。我々は貴金属だけの世界に住めっこないのだ。目が眩むような貴金属の眩しさと栄光に「悧巧」な君たちが酔いしれている時、対極には糞まみれの土にまみれながら種を蒔き、水を断崖を運び上げ害虫害獣収奪と日夜闘う者が「造られる」。君は呟くのだ「金さえ払えば文句はないだろう」

 これが太古の昔であれば、中央権力から遠ければ過酷な収奪からは少しは自由。中央の眩しさも伝わらない。たが今全ては暴力的に忽ち伝わる。それが便利で進歩だと。もっと早く、手軽に。

   辻 潤が餓死を選んだ1944年、大日本帝国は裏声で「大東亜共栄圏」愛に酔った。しかし愛は計画出来ない。恋愛を出会い頭の事故に例えたり天使のいたずらのせいにするのも、それがなぜ起こったか合理的な説明が出来ないからである。好きになったばかりに、祖父母や子どもの病状が急変して、慌てて駆けつけ大儲け出来なくなったり全財産を失ったりもする。好きになったばかりに、相手を殺す羽目に陥ったりもする。一途に思い詰め、周りも相手も自分自身さえ見えなくなるからだ。都合のいい時だけに、愛を設定することはできない。

  「五族協和」や「八紘一宇」も、当時の日本の思い上がった東洋支配への「愛」であった。いや明治維新の「四民平等」さえ傲慢な差別社会への「愛」でしかなかった。植民地主義のお先棒を担いだ教会も「愛」を掲げずにはおれなかった。まさに「夢想の中では愛は器用である。どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない」

 愛は計画できないと同時に、計画出来るものは愛ではなく夢想に過ぎない。だから「夢想は屡々崩れずに現実の中へ流れ込むが、その時愛は突然ぎこちないものになる」。「五族協和」や「八紘一宇」が、現実の政治過程に転化するや否や「愛」は支配や搾取の暴力性をむき出しにする。満州開拓の「理想」は中国農民の土地略奪であり、抵抗する者への弾圧殺戮であった。それでも「五族協和」や「八紘一宇」を信じる者は、ただの愚か者である。「夢想の中で横柄に育った愛は、退くことを知らず」一億総玉砕を叫んで死んだ。

  

「人類は結局愚かであった。・・・人類は悧巧ぶることは出来たが、そのために悧巧になれなかった」串田孫一「断想集」


  今また日本は金さえ出せば何でも買えるはずと奢っている。どんなに足掻いても、ダイヤの畑に種は根を張れないのに。

 プロになりいくら稼げるようになったとしても、どんなに賞賛され祭り上げられても、君はもう二度と「楽しみ」の為にplayに興じることは出来ないのだ。

国家テロに、覇権国家が依存するわけ

   白起は紀元前257年生まれ、中国戦国時代末期の秦の武将。司馬遷は『史記』で「料敵合変、出奇無窮、声震天下)」と評した。長平の戦いでは降伏した40万の趙兵を尽く生き埋めにしたと伝えられるが、主君の昭襄王は自害を命じる。

    2024年2月植民国家イスラエルは、ガザ全域の市街を破壊しパレスチナの存在を消そうとしている。ジェノサイドが止まらない。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によれば゛昨年10月以来ガザ地区でイスラエル軍が殺害した子どもたちの数1万2300人は、2019年から2022年までの4年間に世界中の紛争で殺された子どもの合計よりも多い。


    ジョナサン・パーカーの著書『テロリズム その論理と実態』は 、一八世紀から一九世紀にかけてアジア、アフリカで展開されたイギリスによる「虐殺」の数々を、「国家テロ」として挙げている。一部を引用する。

  大英帝国支配下のベンガル(印度東部からバングラデシュに跨がる地域)総督の副官であったジョージ・フィッツクラレンス大佐は、ビンダーリー族について 「盗賊として有名だった彼ら戦う権利を持つ敵として彼らを支配するのではなく、彼らを根絶することが目的だった」と語っている。

 「いったいどうやってマオリ族を文明化できるというのか」と、1834年にニュージーランド北沖で船が難破した・・・英帝国軍人船長は問いかけた。「確実にやつらを射殺すること。一人残らずニュージーランド人にマスケット弾丸を打ち込むより他に、あの国を文明化する方法などない。」

  オーストラリアの裕福な牧場主でもあったウィリアム・コックス将軍は、1825年に開かれたボーフォートでの公開集会で演説した。「我々がなしうる最善のことは、すべての黒人を射殺してその死体を土地の肥やしにすることだ。・・・黒人を根絶するために、女と子どもは特に確実に殺さなければならない。」


 これら「大英帝国」植民地支配を担う軍人の歪んだ世界観は枚挙に暇がない。アムリットサル事件はその頂点の一つ。

  非武装の集会の参加大衆に対してレジナルド・ダイヤー准将率いるイギリス領インド帝国軍一個小隊は発砲、さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。

  今尚イスラエルがパレスチナでやっていることは、

 フランスがアルジェリアやアフリカ各地で、イギリスがインドが世界各地で、ベルギー人がコンゴやアフリカ各地で、アメリカ人がベトナムや世界各地で、スペイン人が南米で、イタリア人がアフリカで、ドイツ人がナミビア等のアフリカ各地で、日本が朝鮮や東アジアでやった国家犯罪=国家テロの一部にすぎない。

  これら嘗ての植民地帝国諸国が、挙ってイスラエルのジェノサイドを「国家の権利としての防衛」と見做すのは嘗ての国家犯罪=国家ロを合理化するからであり、反省や謝罪の意識は何処にもない。

大きな声が必要なのは誰か

  ある都立高校のgooglemaphttps://www.google.co.jp/maps/ 口コミ欄にこんな感想が寄せられている。

 「毎週末、グラウンドでの部活動がチンピラまがいの騒がしさです。野球部とサッカー部もかな。わざわざ、校舎側でなく民家側に寄って無駄な大声を出し放題。ペアガラスなんて意味なく、音楽も聴けません。

 例えば試合で、誰かが良いパフォーマンスした時などに盛り上がる位は全く構わないのですよ。楽しんで欲しい。ですが、練習などでワンアクションする度に無駄な掛け声など必要か?大声出せばパフォーマンス上がるのか?上がらねえよ。子供達が悪いのではなく、指導者が問題。大声出させたいなら校舎側でやって。」


 この学校も嘗てはnhk tvの番組で度々取り上げられる程の所謂「名門」だった。敷地の民家寄りには古い学校らしく大きな桜並木があり、絶好の日陰を造る、そこに複数の部活数百名が集まり騒ぐから喧しい。

 「名門」なら何でも許されると言わんばかりに部活顧問教師は無神経に大声を煽る。近隣住民の堪忍袋も切れる。

 大きな声が必要なのは「住民」の方ではないか、「うるさいぞ、迷惑だ」と注意を喚起する為に。しかし彼らは窓を閉め切って怯える。

権力は飾り立てたがる

 関東大震災の時も大きな声を挙げ威圧したのは武装した自警団。朝鮮人や中国人・社会主義者たちは為す術無く惨殺された。「武装した自警団」とは言わば公権力の規制から逸脱した「自由主義」者=「新保守主義即ちネオコン」に他ならない。近代民主主義社会が成立すれば、公権力は「自由主義」とは相容れない。

 公権力は声がやたらに大きく勲章や地位の好きな「お上」とは本質的に違う。特に学校では自覚する必要がある。教委も学校管理職も安易に自らを「お上」に擬えたがるからだ。勘違いも甚だしい。彼らは公僕であり、公権力=市民による議会に忠実でなければならない。それは多数決とは次元が違う。常に小さな声に敏感でなければ、平和と教育は直ちに崩壊する。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...