王様に貰ったミカン

 深酒して終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは一瞬呆然の後生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を超した勤労青少年達だった。彼らは笑いながら仲居さんに「ねえちゃん、ビールと刺身」と注文していた。


  学校教育とは何か・・・

 転校してきた生徒から電話があった。
 「先生、夜分大変失礼いたします。しばらくよろしいでしょうか。実は先日相談申し上げた受験の件で又御指導をお願いしたいのです。・・・〇〇大学の△△教授を先生は御存知ですか。大変な評判だそうですね。・・・やはり考古学
を専攻するには〇〇大学だと思うのですがどうでしょうか。・・・そのためには日本史は山川の・・・数学は大学への数学を毎月とって・・・もちろん朝日の天声人語は・・・永々とおじゃましました。では明日又お目に掛ります。おやすみなさい。失礼します」
 受験と大学そして事件と人物についての彼の知識に僕は舌を巻くばかりだった。余りの敬語の正しさに、寝そべって電話の相手をしていた僕はいつの間にか正座をしていた。

 だが彼は、学校では誰とも話さなかった。三菱のユニをケースごと並べ、その一本を手に握り、ノートをにらんだまま終了のチャイムを待つ。それが彼にとっての授業であった。
 重たいズックのカバン、中には古語辞典や英和辞典がいつも入っていた。それを右手にぶら下げ、小股でセカセカと背中を丸めて歩く。追いついて「一緒に行こう」と言っても、
「はぁ・・・失礼します」と先に行ってしまう。
 いつも同じ道の同じ場所を同じ姿勢で歩く。横断する場所、歩道から車道へおりる場所すべてが決っている。歩道に車が乗り上げて駐車していると、車の前でしばらく足踏みを続け汗ビッショリになる。やがて観念したように迂回するのだった。自転車は「危いので絶対いけない」と決っしてうけつけなかった。
 校内ですれ違う時は必ず立ち止まり、直立不動の姿勢をとってから、深々と頑を下げた。滅多になかったが、遅刻すると、まるで面接試験でも受けるかのように、静かに戸を開け、一礼してから両手で閉め、教卓の前まで来て深々とお辞儀をし、十人に満たない生徒には広すぎる教室の隅の彼が決めた指定席に陣取るのだった。
 ノートは受験に良いと分厚い大学ノートを使い、科目ごとにサブノート、問題集を毎日揃えて持って来ていた。だがそれが開かれるのを僕は見た事がない。「受験に良い」と彼が言ったのは電話を通してである。
 給食の食堂でも彼はいつも一人だけ離れた指定席、表情を変えず黙々と食べた。僕は彼の前や横に座った。
 「一緒に食べよう」「いいだろう」「慣れたかい」と話しかけるが、「ハァ」というだけ。食べ終るや立ち上がり一礼、教室の指定席に戻り、いつまでも同じ姿勢ですわり続けた。

 「俺たちあいつに嫌われてるのかね、先生」とその場に残された勤労青少年は呟いた。
 夏の暑苦しい夜には、僕は授業を潰してソフトボールをした。青少年は仕事の疲れを忘れて走り回った。
 小太りの「王様」は走る姿勢はとるが、足が動かない。球をグラブで掴めない、球の飛ぶコースにグラブを持って来る前に、球は「王様」の胸や顔面にあたった。バレーボールを使ってのドッジボールをすれば、ボールはつかむ前に「王様」の体を直撃するのだった。茫然、しかし誰も笑わなかった。下校時刻も正確に決めていて、文化祭の準備があろうと、掃除があろうと、「失礼します」のお辞儀とともに風の如く去った。誰も怒らなかった。

 二十をこえた青年や零細工場労働者・白髪の定年退職者の混じる教室で、僕は「指導」という概念を疑い始めていた。だが、「王様」を見るにつけ、対策・研究・理解、という言葉を思わずにはおれなかった。当時、鍼黙児という文字が現れ始めた。多くは幼児に関するものであったが、様々の実践を読み、役所や研究機関に足を運んだが、図書館や資料室の貸し出しカードがたまるばかり。

 平日の午後、家庭訪問した。彼は茶の間のコタツに足を突っ込み大きな座椅子にもたれていた。TVを前に、一言も発せずミカンを頬張る姿は、童話の王のようであった。人の好さそうな母親が、申し訳なさげに小さくなっていた。彼は突然ミカンの山から一つをつかみ僕につき出した。僕は「ありがとう」と王様に言ったが、彼の表情が変わることはなかった。

 映画『レインマン』が封切られたのは、あれから十年近く経ってからだ。ダスティン・ホフマン扮するサバンはまさにミカンをくれた王様そのものであった。突然、霧が晴れる。僕は三度も映画館に出かけ、原作も読んだ。全て合点がいったように思えた。
 トボトボと小股で決ったコースしか歩かないのも、障害物があれば足踏みして立ち止まるのも、たった10分の通学を不安がったのも。何もかもが、あまりにも似ている。受験情報と事件と人物について驚くべき記憶力がありながら、学校のあちこちに散らばる実習室や実験室を覚えるにはとてつもない時間を要したのも、いつも慇懃に「○×室はどこですか」と足踏みしながら聞いたのも、一度覚えたコースはどんなに近道があっても変えなかったことも。堰を切ったようにサバンに関する論文が現れ、出版もされた。しかし、遅すぎた。
 彼は一年以上在籍したが、どんな生徒であっても出席さえしていれば、補習に補習を重ねて進級させていた僕の学校でも現級留置となった。試験ではユニを握りしめ名前を書いた後、じっと問題を睨んだまま汗をかき、白紙の答案が残された。採点後の答案を受け取るときは、必ず深々とお辞儀をした。
 「ここは受験には向かない学校ですね。Z
高校は数学と英語と国語の時間が多いのです。転校して頑張ります・・・大変お世話になりました。ではこれで失礼します」
 いつものように電話では流暢な言葉遣いの優等生だった。僕は彼のメインマンにはなれなかった。ただ漫然と現象を追うだけ、何一つ役に立てなかった。
 踏切際に建つ「王様」の住まいを、吊革に凭れて通り過ぎるたび、時が苦く巻き戻される。

追記 どうして僕は、電話での授業を試みなかったのか。テストを自宅に持ち帰らせ電話での回答は出来たかもしれない。僕自身の中の狭く鈍い、立ち枯れた「教育」観がこわばっていた。
 障害物を前に立ち止まり足踏みしたのは、僕の方ではないか。ただ厄介事
が去るのを待ち、敬遠していただけはないか。・・・慚愧にたえない。

「今知りたいんや、待てんわ」

 かつて旋盤実習棟の屋根裏は木造トラス構造が美しかった。動力は天井の長い鉄軸と滑車とベルトで中央動力源から伝えられ、工場らしい錯綜する陰影とリズミカルな音が満ちていた。それが機械ごとの小型モーターに切り替わったのは1970年代半ば過ぎ。高校進学率は90%を超え、夜間高校では働く青少年も地方出身者も急減して生徒の活気も消え始めた。みんなが揃うまでの間、教室のダルマストーブ囲んで、それぞれの職場の春闘方針を巡って騒がしくなることもなくなった。


 僕のクラスに京都からの転校生があったのはその頃である。小柄でひどく痩せた、目の大きな少年であった。どうも元気がない、職場訪問をした。焼き釜を備えた比較的規模の大きな洒落たパン屋で、店長は実直そうだった

 「せんせー、店まで来てくれたんやてな。こんなん初めてや、嬉しゅうて学校まで駆けてきた。・・・あのな、せんせーに言うときたいことあるんやけど聞いてくれるか」

 彼は、なぜ京都にいられなくなったか話した。

 「内緒やで。今度は頑張るでぇ、せんせー。一度家にも来てや、父ちゃんと母ちゃんにも会うてや。これ俺が焼いてん。店長がな、持たしてくれてん」

  僕の好きなクリームパンだった。

 「旨いね、有り難う。でも頑張らなくてもいいんだよ」と言っておいた。

 「せんせー変わっとるなぁ、頑張らんでもええなんて、店の人たち皆吃驚しとった」 

 「ふうん」と言うと、

 「大人は皆言うで、頑張りいゃーて。何でせんせーだけそない言うねん、知りたいわ」

 「そうか、知りたいか。憲法にもお寺のお経にもそう書いてあるんだ。そのうち僕の授業でやるよ」

 「今知りたいんや、待てんわ」・・・

 分かるためには、学ぶ側に主体性が準備されねばならない。レディネスとはこの「今知りたいんや、待てんわ」のことである。こうして突然少年たちの心それぞれに沸き起こる動き、それに我々は常に耳を澄まさなければならない。雑用に忙殺されながら、禅僧のように虚心坦懐になれたら・・・と思う。「今知りたいんや、待てんわ」が、何時、どのようなことで、誰に起きるのか分からない。授業で語ることの百倍も準備する必要があるのはそのためである。一人の生徒に対して百倍であるから、受け持ちの生徒数を考えれば無限と言って良い。かと言って焦って始まらない。

 ともかくも、こうして僕は、少年の言葉に添うて寄り道する準備にかかった。

  いつも体のどこかがが動いている落ち着かない少年だった。僕にはそれが隙あらば脱走しようと構えているようで、おかしかった。

 「逃げたいか」と聞くと                    「 俺ほんまに学校が嫌いやねん、辛抱でけんのや」と寂しそうに笑った。

 家庭訪問もした。木賃宿風アパートの一角、土間を挟んで障子で仕切られた三畳と四畳半。窓は三畳に一つ、畳はすり切れ、家具は小さな茶箪笥と食卓にテレビだけ。台所もトイレも共同。

 「センセー、八つ橋好きかー。俺大好きや」

 お喋りである。学校で見せる落ち着きのなさは、ここでは消えている。少し年配の夫婦はニコニコしながら、お茶と銘菓八つ橋を出してくれた。

 「年取ってから出来た子でしてな、そのぶん可愛いーて堪らんのです」

  「京都に来る人たちは、皆あん入りの生を買うやろ、何でやろな。焼いたんも旨いで、なー父ちゃん」

 

 「学校が嫌いで辛抱でけん」はかなりらしく、時々授業の中抜けをした。

 定時制過程の始業前は、全日制の放課後にあたる。雑務を片付けたり、授業の準備したりにはうってつけの静寂と長さがある。二日酔いの昼下がり、出勤すると事務室から手招きがあった。

 「先生・先生電話。同じ生徒から三度目」

  受付の窓口越しに受話器を受け取る。

 「・・・せんせー、堪忍してや、俺なぁ、またやってしもてん。頑張ったんやで、でも手が出てしもた」

 件の生徒からである。

 「今どこだ」  

 「捜さんといて、父ちゃんももう駄目やここにも居れん、そういうねん。・・・せんせー・・・世話になったな」

 少年はべそをかいていた。一瞬、心中という言葉がよぎる。

   「馬鹿なこと言うな、今行く」

 目まいがして舌がもつれそうになる。

   「堪忍やで、ほなもう行くでぇ。さいなら」


 一家は学校と同じ妙正寺川沿い、電話はそこからだろう。事務の自転車で川沿いを急ぐ。住まいは、綺麗に片づいて何もない。心中するなら荷物は持ってゆけない。少し安心して渇きをおぼえた。土間には打ち水がしてある。まだ遠くには行ってない。夕餉の買い物客で混み始めた駅前を何ヶ所か回った。

 少年は僅かな金を店から盗み、その日のうちに自分で店長に名乗り出て金も返したのだった。「引き止めたんですが・・・健気に頑張っていました・・・」店長も悄気ていた。僕のたった四人の学級に彼が在籍したのは、ひと月あまり。しばらくは三面記事が気になった。


 小栗康平の『泥の河』を見る度に、「またやってしもてん」「堪忍やで」が聞こえる。俳優たちの表情や言葉づかい、川沿いの寂しい光景、振り向きもせず曳航されながら去る廓舟の一家に重なる。

 少年は頑張り足りなかったのだろうか。そんなことはない。彼は自分の執着に気付いて嫌気がさしていた。だから直ちに名乗り出て自ら罰している。頑張り過ぎた。高名な作家や政財界要人までが、若い時代の「やんちゃ」を勲章のように雑誌やTVで自慢する。彼らは頑張りもせず地位を得、罰を逃れている、その特権性が勲章、だから吹聴したくなるのか。

 少年も両親も頑張りすぎた。彼が姿を消さなければ、制度としての学校は指導と称して退学を勧告したに違いない。


 彼のための授業は、「宝暦治水事件」から始めるつもりで下調べにかかったが、大学や都立図書館にもめぼしい資料はなく、国会図書館に幾日も通い詰めた。おかげで授業を始める前に肝腎の少年はいなくなってしまった。

 授業を聞けば喜んでくれただろうか。やっぱせんせー変っとるわ、そう言っただろうか。

 確かなのは、彼が学ぶことが苦痛で「学校が嫌いやねん、辛抱でけん」のではなかったことだ。そうでなければ  「知りたいわ」とは言わない。

 少年を思い出すのが辛かった。やらず終いの授業は、ベヴァリッジ報告と囚人組合で終わるつもりだった。頑張らねばならぬのは、社会の仕組みであり国家である。個人ではない。





『自由』は平凡の中にしかない

 

我が家ベランダから

 引退したはずのイブモンタンらしい男が、フランスの田舎でペタンクをしていた。的の杭目がけて、鉄の球を投げる大人の遊びである。たまたま日本のマスコミ人が現場に居合わせて、『イブモンタンさんですか』と声をかけた。男は不快そうな顔付きになり、その場を立ち去った。

 いかにも日本のマスコミらしい無神経さである。誰もがマイクを向けられれば喜ぶと思い込んでいる。肉親を事故で失った悲しみの底にある遺族にも、『お気持ちを、ご感想を』と傍若無人である。

 もし「日本人」がペタンクの雰囲気に引き込まれたのならば、「去りがたい光景の中の、日本人旅行者」としての自分を書けば良い。一日中眺めて、ペタンクをやらせて貰えば上出来ではないか。 

  イブモンタンは歌手としても俳優としても栄華を極めた。毎日がフラッシュとマイクを向けられる日々であった。希代の英雄や苦み走った二枚目を演じても、それは監督や制作者の造った虚像であり、イブモンタン自身ではない。世界の女を痺れされるような歌を歌っても、それは制作者の意図に合わせているだけで、彼自信を表現したものでは無い。彼は、引退して初めて、平凡な日常の中にしか自由はないことを知ったに違いない。競わない楽しみ。 

 嵐寛寿郎は生涯に300本の映画を撮った。何度も恋愛し結婚離婚を繰り返したが、そのたびに全財産を別れる相手に贈った。銀幕や舞台の嵐寛寿郎は、彼自身ではない。引退後の彼は、掃除が趣味で他人任せにせず楽しんでいた。とくに拭き掃除は念入りであった。

 戦犯筆頭を逃れ沖縄を米国に献上した自称天皇の末娘が地方公務員と結婚して、下町のマンションに住んだ。商店街での買い物が好きで、買い忘れがあれば何度でも往復した。商店街の女将が「言っていただければ、お届けしますのに」と言うと「とんでもありません、こんなに楽しいこと、何度でも自分でいたします」と、おっとりした口調で答えたと言う。イブモンタンも嵐寛も件の娘も自由が何処にあるのか、それを如何に知り知り獲得し愉しんだのか。

 

 『平凡な自由』(大月書店)を書いたとき、タイトルが過激だ、皮肉がきついなどと揶揄された。

 五輪を誘致したり博奕場や博覧会建設に浮かれる精神に自由はない。毎日の通勤や登校途中に、道ばたの草花にみとれる中にこそある。時折出会う幼児やお年寄りの姿に安堵して挨拶を交わすことにある。勲章やメダルを首にかけた自称天皇の即位パレードに「感激して涙を流す」ことにではなく、長い病みが癒えて木々の香りと暖かい空気に包まれる中にある。


 中村哲医師が、命を賭けたのは、砂漠化した土地に生きる人々の『平凡な自由』を実現するためであった。それ故彼は殺された。すべてが商品化された社会では、自由も平凡も敵と見なされる。

 中村哲医師がノーベル賞に挙がらなかったのは、所詮ノーベル財団が商品化社会の申し子だからである。

  ペタンクを五輪種目に『昇格』させる企てが持ち上がったら ペタンク愛好者は激しく抵抗するに違いない。

  マラソンの円谷氏は、国家期待の日の丸を背負ったために、「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」から始まり「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれる家族宛の遺書にしたためている。

僅か6年前僕が考えていたこと Ⅰ

  ミンドロ島はフィリピン・ルソン島西南方にある。米軍は圧倒的装備でここに上陸、日本軍は絶望的な状況に置かれていた。飢餓とマラリアに苦しみながら、大岡昇平は敵が現れても撃つまいと決意する。

 林の中をがさがさと音を立てて一人の米兵が現れた。

 「私」は果たして撃つ気がしなかった。それは二十歳ぐらいの丈の高い米兵で、銃を斜め上に構えていた。彼は前方に一人の日本兵のひそむ可能性にいささかの懸念も持っていないように見えた。彼は近づいてきた。「私」は射撃には自信があった。右手が自然に動いて銃の安全装置をはずしていた。撃てば確実に相手を倒すことができる。その時、不意に右手山上の陣地で機銃の音が起こった。彼は立ち止り、しばらく音のする方を見ていたが、ゆっくり向きを変えてその方へ歩きだし、視野から消えていった。

 ・・・私がこの時すでに兵士でなかったことを示す。それは私がこの時独りだったからである。戦争とは集団をもってする暴力行為であり、各人の行為は集団の意識によって制約ないし鼓舞される。もしこの時、僚友が一人でも隣にいたら、私は私自身の生命のいかんにかかわらず、猶予なく撃っていただろう。・・・

  私は溜息し苦笑して「さて俺はこれでどっかのアメリカの母親に感謝されてもいいわけだ」と呟いた。  『俘虜記』 

 彼は撃たなかったわけを、捕虜収容所で帰国後とずっと考え続ける。中学生の時新約聖書を読んだ彼は、神の声についても執拗に追求している。

 しかし、ここで重要なのは「私(大岡昇平)がこの時独りだった」事実であると僕は思う。この時大岡昇平は、仲間から物理的に孤立していた。それ故、他者に介入されず依存せず自立して判断した、だから撃たないという選択が可能だった。人は、度々一人にならねばならぬ。一人になって、辛い判断を下さねばならぬ場面に直面することはある。それを神と向かい合うと考える人もある。

 例えば学級が一致してある生徒を虐めている場合、企業が一丸となって不正取引に走っている場合、孤立を畏れぬ自立の意思が広い共感をやがて生む。

 先ず多数を目指して結束しても真の連帯にはならない。連帯は互いの違いと共通性の深い理解から生まれるからである。違いを棚上げしたり共通性を偽装してしての結束は脆く、外的な締め付けをどうしてももたらす。

  教員の思考を集団の団結と言う概念は、鳥もちのように捕らえて粘り着く。もう40年も前のことだ、集団や一致が自己目的化する傾向が気になって、僕はある研究会の会合で孤立することの意義について考えたいと言った。そこには哲学界の重鎮もいたのだが、ことごとく人間の連帯こそ強調しなければならないと一蹴された。僕は例えば、ファシズムが急速に勢いを増しつつある時、孤立に頑固に耐えることについて言ったのだが理解されなかった。


  カストロはハバナ大学では多数派ではなかった。グランマ号で上陸したとき多数派ではなかった。革命がなったとき多数派ではなかった。それ故常に様々な潮流を引き寄せることが出来た。それぞれの立場から自立して判断して形成された連帯であったから強かった。始め南北米州でCubaは文字通り孤立していだがだがソビエトが崩壊し、経済規模が30%にまで落ち込んでも潰れなかった。そして今や孤立しているのは合衆国である。小さな国々が、それぞれの歴史と風土にあわせて独自の政治経済体制をつくりあげ、合州国から自立して判断できるようになるまで永かった。 小さな貧しい国の何処にも従属しない判断、多数決によって少数派を排除して出来上がる秩序ではない。判断の単位は小さくなくてはならない。


  中学生や高校生が、朝から晩まで日曜も夏休みも一人になれない状況の危うさについて考えねばならない。政府が部活の制限に二の足を踏むのは、自立を畏れているからである。たまには集団から離れることが必要だ。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...