日本には全員加盟制学生自治会や生徒会があり、会費は学校がまとめて徴収する。こんな手厚い保護を青少年組織に保証する国はどこにもない。ソビエトさえ任意加盟を崩せなかった。フランスの高校生は、いくつかの「全学連」の機関紙を買うことで、それぞれの支持を表明する。だからこそ、フランスの全学連各派は主張を明白にしつつ、常に共同行動をとれるのである。日本の青少年は、完璧な制度に眠り転け決意する時はない。制度を困難の最中から立ち上げ、自力で工夫運営する経験が永久になさそうだ。分割隔離されたまま、監視制御され続ける。
従って、日本の学生が「生活賃金運動」を起こす気配はあり得ない。「生活賃金運動」を必要としているのは、構内の清掃などの労働者ばかりではない。日本の大学では、教員までが自立した生活を営めない非正規労働者化しているのだ。
高校生が過酷で無意味な入試制度や冷酷な雇用政策を巡って、政府と対決することも考えられない。高校生が数十万のデモを組織することもあり得ない。学生自治会や生徒会という制度は完備しているが、自立した自治がないのだ。
九条があっても米軍が駐留し空母やミサイルを持つ自衛隊がある。憲法があっても、九十九条を政府が最高裁が教師が無視する。この不可思議な現象の根底には、何があるのだろうか。
「自由には義務が・・・」と言う学生は少なくない。自由と自由権について思考することもないのか。スト権ストという不思議な闘争形態があったのか知ることもないだろう。
憲法教育の盲点である。
なぜ彼らは自由を義務で裏打ちしたがるのだろうか。自由が自由権でなく、権力者達の特権であった頃の想像から抜け出せないからではないか。それは特権者がいつまでも自由の排他的独占に酔いしれているからだ。彼らは自由は好きだが、自由権が嫌いなのだ。劣った者に人権としての自由を承認したくない。
多分、特権者や権力者に管理される二次的特権の心地よさは堪らなさを感じている。むき出しの自由は、どっちを向いても怖いから。庇護された帰属意識的感覚が、名門校の世界観にはつきまとっているという偏見が僕にはある。
「学校は出会いね」と言い切った生徒がいる。彼女は感傷的な意味を込めてそう言ったのではない。教育してやろうとする僕らを諌めるかのように。視点をずらすことをすすめるヘーゲルのように。出会いは、互いの異質性の認識と関係であり時には危険でもあることを言ったのだ。一方的指導関係ではなく、対等な対決であることを言葉によって示すのだ。
小さな違いが大きな違い。ここに、ややこしい事態を打開する手掛かりがある。「出会いとは、関係であり対決でもある、一方的指導ではなく、対等であることを言葉によって示す」必要がある。
日本の組織は予定調和を好んで、問題を直視する事を避ける。弱い側が我慢することで対立がなかったかのように、双方が振る舞う。大戦の戦争犯罪の法廷を国民の手で開けず、一億総懺悔に流れるのだ。いつまでも責任を追及すれば、非国民扱いされてしまう。同調しない者は常に敵なのだ。
人は、誰もが異質であり対立する利害があるという事実から出発しなければならない。仲の良いことではなく、憎み合う関係の中に、成長の芽を見出し尊厳の発見に至る道が開ける。恋愛が反発の中から生まれるように。
予定調和は、強者の極楽であり弱者少数者の地獄でしかない。しかし企業も学校も住宅地も互いに細かく隔離されて、互いの違いの中身と謂われを見つめ合うことすらないのだ。従ってその中に潜む矛盾を捉えることも、分析することも対策に知恵を出し合うこともない。偏差値による選別体制は、社会を停滞に追い込み、古い勢力を温存してしまう。社会の近代化を阻害する巨大な壁である。
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