授業がなければ成績は下がるか

  
mさんからのmailが印象的。
 『・・・先週、期末考査がありました。で、私は来たばかりで、中間考査もなかったので正確な比較はできないのですが、けっこう点数が良いのです。もしかすると、「休校」が続いて、プリントやネットの授業よりは、ナマの授業の方が何倍も楽しい(あるいは点数がとりやすい)と思ったからではないかとも思いました。
 ただ、生徒のノートを見ると、黒板に書いたことをただ写しているだけで、一人も「おー」という生徒がいませんでした。それは、誤算でした。
 授業や学校に対する姿勢の向上と、勉強する技能?の低下を感じました。・・・
                                              
  僕はコロナ禍による休講が、学力低下ではなくその反対の事態をもたらすと考えていた。

  スポーツでも、芸術でも、語学でも、長い休みの後に、思いがけず能力が飛躍する。例えば激しく筋肉を使う運動では、骨を強化成長させる必要がある。骨が成長するのは、肉体が動きを止めて十分な休みを取っている時である。これはリハビリも同じで、張り切り続けていては成果は現れない。「休み」は不可欠である。のべつ幕なしに張り切っている時、血液は細胞の隅々や神経の末端にまで養分や酸素を供給できない。
  脳神経も例外ではない。複雑に絡み合っているから、その構成の為に長い時が必要。
 日本の教師は「休めばその分、力は低下する」と頑なに信じて、休むことを敵視している。だから怪我や体罰が異様に多い。
 企業や職場は更に『休み』を誤解し、飲み会を盛んにやる。二次会にまで及び、断ればいい目には合わない。これは休みにならない。ストレスを内向させるに過ぎない。

  たかが一年や二年の休みで低下する能力は、単なる短期記憶。忘れて差し支えない、むしろ忘れたことを自覚することに意味がある。
  mさんの「生徒のノートを見ると、黒板に書いたことをただ写しているだけで、一人も「おー」という生徒がいません。それは、誤算でした。」は誤算ではない。休みが十分でなかったことを表していると思う。黒板に教師が書いたことを一旦忘れて後、生徒一人一人が書きたいことを記憶の中から「見つけ」て再構成する。それこそがノート。
                                                                   
  「勉強する技能?の低下」は、教室という環境を構成する人間関係や制度が「劇画的」な人工性に彩られ、謂わば動物的自然を失ったからのような気がする。インターネットやTVが、教育的時間と空間を非「カイロス」化してしまった。思いがけない長い休みは、それを回復する微かな手立てでもあった。

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