2002年6月5日
お喋りに余念の無かった三人が、教室の一番前で身構えている。「聞いてやる、かかってこい」と言わんばかり。
2002年6月12日
「先生の授業逆らいたくなるの、だって筋が通っているんだもん」
教員たちから「うるさい」と嫌われている生徒が、ニャッとしながらそう言う。
面白い言い方をする。もし教師の言うことに筋が通っていなければ、この生徒は彼を「詰まらない奴」と無視する。彼女にとって教師はそんな奴ばかりに見えていたのかもしれない。逆らう必要もないわけだ。彼女の中には世界観が既に形成されていて、授業する教師の世界観と自らのそれを闘わせずには置かない。授業は「○か×か」の確認や「括弧への単語記入」の退屈な時間ではない。中等教育とはこんな青少年のために用意されたシステムであることを、僕らは心得なければならない。恐ろしいのだ、生意気な高校生。「うるさい」とは、単に騒がしいことを言うのではない。
分かり方のラジカルさ。現象からいきなり本質に跳ぶ、鋭い目つきと悪戯っぽさ。少女と青年が同居する瑞々しい時期だ。
「起立・礼」から始まる「いい先生」の「いい授業」では、中等教育の授業は成立しない事を、この生徒たちは言い当てている。
グッと睨んだ眼差しの奥で、自分自身の思考と教師の授業
を対比して「逆らいたくなる」。自分の思想が揺るぎ始める口惜しさと、新しい思想にめぐり合う嬉しさが鬩ぎ合うのだ。「出来る」生徒たちは○と×の断片的世界に留まり、即座に暗記する。いわば初等教育のまま、体だけが育つ。この「逆らいたくなる」過程を経ずに青年になる。なんと勿体ない事だ。敬意や友情も恋愛もそれが熱烈であればあるほど、反感を含んで始まる。時にはそれが前面に出る。
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