ノーベル文学賞川端康成と小説の神様志賀直哉

   

  1968年川端康成がノーベル賞を受けたときの顔には、言うに言われぬ寂しさが凍り付いている。その頃、
彼が「北條民雄が生存しておれば、 私より先にノーベル文学賞を受賞していただろう」と述懐した事が巷間伝えられている。

  作家伊波敏男は米軍統治下の沖縄愛楽園を脱走、密出国。愛生園に設置された県立邑久高等学校​新良田教室を卒業した。彼が愛楽園訪問した川端康成と対話した思い出を語っている。

 

「・・・川端康成さんが文化講演に沖縄に招かれたんですが、主催者側に「講演をするついでに、ハンセン病療養所にいる子どもたちにぜひ会いたい」という。・・・「ハンセン病療養所は人間が足を踏み入れるところじゃない」なんて考える人が、まだまだ多かった時代です。川端さんに届けられた療養所の子どもたちの作文を読んで、川端さんが「この子に会いたい」と、指名したのだそうです。

 ・・・いざ川端さんと対面するために入室しようとしたとき、入り口ですっかり足がすくんでしまいました。その部屋には、白い予防服を着てゴム手袋をして黒い長靴を履いた大人たちが30人近くもずらっと並んでいた。それはいつも見慣れている光景だから気にならなかったんですが、驚いたことに川端さんだけがワイシャツ姿で、袖をまくりあげた格好で、ニコニコしながらそこに置かれた椅子に座っていたんです。それを見て、すっかり怖気づいてしまった。

 校長先生に背中を押されて、しかたなく川端さんのすぐ前に置かれたパイプ椅子に座ったら、「関口君だね」と言って、いきなり手を握ろうとしました。私はとっさに両手を背中の後ろに隠してしまった。川端さんはちょっと悲しそうな顔をして、自分の椅子を引き寄せて、私の太ももを挟み込みました。川端さんが話すと、ツバが顔にかかってしまうくらいの近さでしたよ。そのままいろんな話をしました。

 ・・・「『いのちの初夜』は読みましたか」と聞かれました。読んでいたけども、正直言って中学生の私にとって難しかった。だから「よくわかりませんでした」と答えたんですが、川端さんがまた悲しそうな顔をされたので「あ、また余計なことを…」とあわてて、「でも、先生と北條さんとの往復書簡の中で覚えているところがあります」と言いました。「へー、どっどっどこ?」とせきこむように聞かれたので、「僕には何よりも生きるか死ぬか、文学するよりもそれが根本問題だったのです。人間が信じられるならば、耐えていくこともできると思います」という手紙の一部をすらすらと諳んじて見せました。・・・

 すると、川端さんの大きな目の玉から、シャボン玉みたいに涙がこぼれてきた。私の太ももをパンパンと叩いて、「進君! 関口君! 君は北條民雄の悲しさ、『いのちの初夜』が、わかってますよ」。

 そこで時間切れになりました。川端さんは私の手を握りなおして、こんなことを言ってくれたんです。「進くん。自分の中にたくさん蓄えなさい。そして書きなさい」。この言葉が私の心にいちばん響きましたね。その後もずっと残りました。・・・白い服の人たちと部屋を出て行きかけた川端さんが、最後にもう一度、私に向かって、「進くん! 何か欲しいものはありますか」と聞いてくれました。すかさず「本が欲しいです」と答えたら、大きくうなずいていました。

 それからしばらくして、療養所に木枠の箱がたくさん届いた。開けてみたらどの箱にも児童図書が詰まっていた。それを片っ端から読みました。本の中には夢がいっぱいあった。本がいろんな世界に連れて行ってくれた。そんなこともあって、もっと本を読みたい、もっといろんなことを知りたい、もっと勉強したいという思いが私のなかでどんどん大きくなっていったんですね。」  伊波 敏男(作家) vol.1   https://leprosy.jp/people/iha01/

 

  川端康成の北條民雄宛の7通目の手紙  (1935年12月10日)にこんな記述がある。

  「些細のことが貴兄を力づけ、こんな嬉しい思いをしたことはありません。貴兄の手紙は立派です。そうあろうと推察し、文壇小説はよむな、文藝雑誌は見るなと予あらかじめ申上げたのです。今度の小説は改造か中央公論のようなものに、必ず出して差し上げましょう。しかし、悪ければ返しますよ。原稿の注文は一切小生という番頭を通してのことにしなさい。でないとジャアナリズムは君を滅ぼす。文学者になど会いたいと思ってはいけません。孤独に心を高くしていることです。原稿紙ヤへ見本送る催促出しました。横光(横光利一)曰ク、おれ達と苦労がちがう、ドストエフスキイの死の家(『死の家の記録』)以上だ。肺療院の生活など甘いものだと。・・・」

 七條晃司に筆名北条民雄を与え、『命の初夜』の作品名を考えたのも、訃報を受け真っ先に全生園霊安室に駆け付けたのも川端康成であった。『北条民雄全集』の編纂にあたって川端康成は

「無慙な運命に夭折の天才の文章を出来るだけ多く世に遺すのは、私のつとめであり、全集編纂者の習はしである」

と記している。

 対して志賀直哉は、北条民雄の『命の初夜』の掲載された雑誌にすら手を触れなかったと伝えられる。。戦中に特高警察の探索を笑い飛ばして終戦工作に励んだり、戦後発足したばかりの『世界』の編集に、敢えて中野重治や宮本百合子を入れる提案をした頃の志賀直哉とは、大きな落差を感じる。

 
1955年 土門拳撮影
   写真は川端康成が沖縄愛楽園を訪れる二年前、左端が川端康成。この時二人の間に交わされた会話はどのようなものであったのか。 彼らが夫々贔屓した若い作家・小林多喜二と北条民雄にはその天才性などいくつかの共通点があった。この撮影はその瞬間をとらえていたかも知れない。


 北条民雄の本名が遺族の了解を得て公表されたのは2014年、死後77年経っていた。北条民雄の死因は腸結核。「らい」で絶命することは殆どない、併発した病で死亡している。ハンセン病療養所の使命は解剖ではなかった。

 1972年川端康成は、ガス管をくわえて自殺。ノーベル賞から僅か四年後であった。志賀直哉はその前年1971年、老衰で亡くなっている。

    


 

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