NHK、『尋ね人』は1946年(昭和21年)7月1日から1962年(昭和37年)3月31日 迄続いた。 1960年(昭和35年)の放送時間は、ラジオ第1放送で月曜日から土曜日の午後4時25分から29分。「セレナーデ」はそのテーマ音楽だった。
当初NHKの『尋ね人』『復員だより』『引揚者の時間』の3番組があって、聴取者から送られた太平洋戦争で連絡不能になった人の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読し、消息を知る人や、本人からの連絡を番組内で待つ内容であった。やがて『尋ね人』一本に集約。
放送期間中に読み上げられた依頼の総数は19,515件、その約1/3にあたる6,797件が尋ね人探しに成功した。集落全体が静まり聴き入った訳である。
アナウンサーが淡々と読み上げた手紙の内容がここにある、←クリック
昭和20年春、○○部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
シベリア抑留中に○○収容所で一緒だった○山○夫と名乗った方をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
旧満州国竜江省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれていた方。上の名前(あるいは、苗字)は判りません。
ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、××県の△△さんがお捜しです。
昭和○○年○月に舞鶴港に入港した引揚船「雲仙丸」で「△△県の出身」とおっしゃり、お世話になった丸顔の○○さん。
これらの方々をご存じの方は、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都千代田区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です。
番組が終わるとどの家からも深い溜息が聞こえ、やがて子供たちの歓声が再び露地を駆け巡った。このひと時を戦中を耐え生き延びてきた大人たちは深い悲しみとともに、戦争放棄の憲法を持った喜びをかみしめた。
祖母たちが、庭で遊びに明け暮れる子どもたちを見ながら「もう、こん子たちゃ、戦争に取られんでん済んとやなー」と繰り返す光景を思い出す。衣食住すべて不自由な明るい貧乏が、平和憲法を握りしめていた。
しかし朝鮮戦争特需は、貧しい平和にとって中毒性の「毒饅頭」となった。握り締めたはずの貧しい平和は脆く崩れ去った。貧しさの中に平和を生きる思想が欠けていた。
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