「高校生であることと市民であることは矛盾しない」 /  苦悩する底辺校教師の孤立

生活を見つめる教育が弾圧の対象になった
 「遅れた知的難民」を前に苦悩する教師は、どれほどいるのだろうか。少なくない数が心を痛めている筈である。
そのうちの諦めない教師はどうしているのだろうか。戦前戦中の農山村、戦前戦後の被差別部落、筑豊など炭鉱地域、朝鮮・中国からの帰国難民、都市の水上生活者、スラム住民、ハンセン病者・・・これらの地域で教育棄民を目の当たりにした教師たちと現在の「底辺校」教師の違いは、今の底辺校教師の方が遙かに孤立していることだ。教師だけではなく父母も孤立している。それが選別教育のあらかじめ仕組まれた「成果」なのだ。
 
 トマス・サンカラ、毛沢東、カストロ、ゲバラ、ホーチミン、ガンジー・・・彼らの共通点は徹底的な地域調査である。幕末の志士たちは空想的に国を憂えはしたが、地域調査に考えは及ばない。それが、後の爵位乱発に繋がっている。教員にとって地域と父母の生活の調査対話の手本は、ホーチミンの地域調査である。我が国の教師も戦前期には、綴り方教師たちが精力的に地域調査に汗を流した。その影響には、目覚ましいものがあったからこそ特高の大弾圧を受けたのである。
 H高で残留孤児たちの社会科を受け持ったときは、その前年、偶然にも731部隊跡地や開拓団が展開した地域を10日ほど回った直後であり、彼らの生まれた地域名の正確な発音や実情の把握は、一学年初日から彼らの警戒心を解いてしまった。 
 僕は学校に来られない父母と話すために、夜間や休日を使って少人数の地域懇談会を方々で頻繁におこなった。学校では小さくなる人も、地元では元気である。忽ち賑やかに話し出す、僕は始めからほとんど喋らないですんだ。MH高での授業の基礎には、これがあったことに最近気がついた。生活綴り方教師の成功の鍵も、地域との繋がりだと思う。 
  「頭脳賤民」「遅れた知的難民」を前に苦悩する教師たちの授業の困難と悩みは、到底一人の工夫で克服できるものではない。努力不足という量の問題ではなく質の問題である。にもかかわらず、取り組みを個人の工夫のレベルにとどめて「頑張れ」「お気の毒」「大変ですね」を繰り返す教委、組合、民間教育団体、学者・・・に僕は怒りを覚え、彼らの中に差別意識が生まれつつあることを感じる。僕はいつの間にか地域の力を借りていた。教委の強制移動は、それまでも解体したのだ。彼らは教育がうまく組織されるのを妨害するためには何でもやる。

 南米やフランスの若者たちと日本の高校生たちの違いは何か。それは連帯性、明らかにそうである。2010年フランスの高校生は「高校生であることと市民であることは矛盾しない」と宣言、政府の年金改革に反対して闘いは継続中である。それでもフランスでは階層横断性の危機が叫ばれている。階層横断性とは、同じ教室の中にあらゆる階層の子どもが机を並べるということである。
 階層横断性は地域活動の中で培われる。青年としての高校生は地域の要たり得る特性を持っている。日本では選別体制がそれをバラバラに解体し尽くして地域性を奪い去ったのだ。だから我が国の教員組合は、若者の正規労働のために闘うことすらない。「能力」や格差は見えても、地域をみることが出来ないからだ。幕末の志士のように虚妄の危機感はあっても、ホーチミンや綴り方教師のように地域に入り調査する視点がそもそもない。僅かな手当とみみっちい名称の身分の乱発・獲得に走るのも必然。
 只ただ、学校や生徒が企業に気に入られるよう目先の対策に追われている。

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