サムライもどきや「文武両道」ごっこに潜む差別

佐野碩は孤立を恐れぬ自由な越境者であった
 「切腹する、見てくれ」と 侍が、人を集めることは考えられない。侍の美学に反するからである。サムライを自称するsport teamや企業開発集団は、記者会見して「どうだ凄いだろう、賞を呉れ」と衆目を集めずにはおれない。元来侍は、自己抑制的である筈だった。(戦国時代までは、侍は少しも事故抑制的ではなかった。見苦しいほどの兜と旗物差を身につけて、大音声で名乗りを上げねば手柄を認めて貰えなかった。皮肉なことだが、その点では現代のサムライの方が、侍の原点に戻っている。だがsport teamや企業開発集団の念頭にあるのは、封建的身分秩序が固定して後の虚構の士なのだ。)
 自己抑制出来ない現代の「サムライ」に残るのは、批判精神を忘れた忠誠心である。つまりご奉公=対話の不可能性という観念であって、充実した労働生活や地域生活からは遊離する。お上に隷属することを誇りにさえしている。

  部活の枕詞になった文武両道にも、その色彩がある。(元々文武両道とは、武士身分が公の事務を独占兼務していたことに由来する。部活する者が「文武両道」と言うとき、俺たちは大学受験を本務としない百姓や職人ではないという驕りを含んでいる)
 もし「武」にも励むのなら、自己抑制の美徳を発揮して学校要覧やhomepageに大会出場歴や大学合格実績を出すべきではない。泰然と構えて動じないのがいい。それでこそ、他者が、「さすが文武両道」と言うかもしれない。しかし大概は、教師も生徒も「文」=日常の学習に打ち込めない実態の隠蔽でしかない。

 現代の文武両道もどきは、新聞社がらみの興行資本が捏造する美辞麗句溢れる秩序を疑わず、一途に序列を駆け上る。そのために、付け文もデートの誘いも寄せ付けず、文学や演劇を毛嫌いすることを「自分に克つ」ことだとかたく信じている。
 青春は、蹉跌しなければ意味はない。「自分に克っ」て、勝ち点を貯めて守銭奴よろしく悦に入ることではないだろう。勝ち点とは、隷属の証に与えられる食えない褒美。友情や恋愛に優劣も勝ち点があるはずはない。
 授業や試合をサボる最初の一歩の不安。人目を避けて土手でデートすれば、夕陽の落ちるのまで止めたくなる。社会科学や哲学の探究と議論に文字通り寝食を忘れる。成績も落ち、遅刻と欠席が増え両親や担任の説教さえ耳に入らない生の充実。少年たちの内側から押し寄せる、青春の意気。これらは大人や組織がコントロール出来ないが故に、何時も不良行為として名高い。
 
  小津安二郎『麦秋』(1951年)に、主人公の男女が晩春の眩しい日差しの中で交わす会話がある。

 「面白いですね 『チボー家の人々』」
 「どこまでお読みになって」
 「まだ4巻目の半分です」
 「そお」
 全部で5巻だから4巻目の半分ならもう読了も近い。それを「まだ」と言う自己抑制がこの場面には隠されている。                    
 『チボー家の人々』を高校生も大学生も読まない、教師も。『ライ麦畑でつかまえて』さえ手にしない。歴史に生きる個人としての決断を物語の中で味わうことさえしないのだ。臆病なのだ、年若くして精神は老いている。臆病者は群れる。

 サムライ意識から我々がこうも自由になれないのは、村落共同体=ムラ解体に代わる仕組みを見いだせないからである。臆病者は不安から逃れるために、群れを渡り歩くことを厭わない。コミューンを形成するための個人の自由を確立出来なかった近代日本は、特権を死守して華族ムラ、高等官ムラ、原子力ムラ、・・・を形成し、崩壊した村落共同体代わりにしてきた。サムライ意識で結束した集団は、特権にすがりつく臆病者に過ぎない。

  「インターナショナル」の歌詞を訳した佐野碩のごとき、あらゆる係累の柵み、党派中枢の裏切りや転向をものともせず自由に生き抜く越境者が少しも珍しくなくなるまで、この国に擬制のムラに群れる者は跡を絶たない。

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