感想がつくる「よい子」は、批判や対話を生まない

権利としての子どものデモが批判精神を育てる
 殺害された中村哲医師の非武装アフガン緑化の授業が繰り広げられ、生徒たちの「いい」感想が集まっている。
 曰く「なぜこのような人が殺されるのかと、理解に苦しむ」「中村さんに、国際社会はなぜノーベル平和賞をと叫ばないのか」「日本のマスコミはこんな尊い行為を取り上げない。なぜ芸能人の馬鹿騒ぎばかりをとりあげるのか」
 これらの「なぜ」が気になる。なぜか、それは僕がひねくれているからか。
 そうではない。ヨーロッパや中南米の高校生たちなら、町に繰り出して怒りの声をあげて政府や社会に迫るに違いない。
 作文に現れる「なぜ」は、探求や行動に向かう「なぜ」ではないからだ。疑問を打ち切る「なぜ」だからだ。昔からそうだったわけではない。60年代の高校生は、ベトナムの現実を知れば、大学生の隊列に続いてデモに参加し、真実を求め集会を組織して教師を苛立たせた。50年代は世の中の不条理と小学生も闘った。「なぜ」を求められた感想の形で書き表すのではなく、社会の秩序に抗して体を使って表現した。歩き、声をあげながら、時には機動隊と揉み合いながら。

  授業で感想を書かせることに実存的意義はない。評価権を持つ者に正直な「感想」が届くわけはない。ここに生まれるのは諂いと迎合であり、対話や批判ではない。

 21世紀になって間もなくのことだった。

  Oさんは、進路指導部の面接指導を受けた。指定校推薦を受ける者は、日時を指定されて「指導」を受ける。担当教師は、予想される大学側の質問を作り答えさせて、彼女の回答の中身に介入した。それではいけないと、意見や見解の修正変更を迫るのだ。それが親切な指導であると担当者は得意だったに違いない。だがOさんは、お辞儀の角度まで指摘されて、これでは私らしい部分が何処にも残らないと喧嘩して飛び出してしまった。
 話を聞いた僕は、この模擬面接の次第をそのまま小論文にまとめて大学に送ることを勧めた。入試面接当日、三人の教員が相手だった。うち二人は、終始声をあげて笑いながらOさんと遣り取りしたが、一人は不機嫌であったという。勿論合格した。賛否半ばしてメリハリある反応を引き出す若者が、混迷停滞する学校を切り開くのである。迎合する者ばかりを集めたのでは、創造的な緊張感は決して生まれない。 先生、私たちのこと好きでしょう』2 

   面接や「小論文」は何のために入試に組み入れられたのだったか。○×や単語穴埋めの筆記テストでは引き出せない生徒たちの知性と本音を読み取る狙いがあったからではないか。
 しかし忽ち、受験産業は小論文や面接までを、対策可能な科目にしてしまった。嘘を平然と言ったり書いたりする訓練を施したのである。
 だから入試に教育的意義はない。どんな工夫も、必ず営利業者の餌食になる。

 「こう書けば、こう喋れば点数がよくなる」といいながら、生徒の表現の自由に介入することの恐ろしさを教師は知らねばならない。
 
 奢る政権や不正企業のtopの常套句『真摯に結果を受け止める』や『丁寧に説明する』が、決して対話に繋がらないように、これらの「なぜ」も、感想として書かれた途端忘れられるのである。行動を伴わないからである。
 2011年春9.11事件の半年前、アメリカHavardの学生たちの 21日間にわたる大学本部占拠闘争は、この国にも生まれるだろうか。彼らは、学内の非正規労働者の待遇改善を求めて立ち上がり、学内を組織し世間に訴え勝利しただけでなく、戦いそのものが全米の大学に広がったのである。
 彼らは大学理事会との対話をもとめて、「違法な占拠」から始めた。行儀のいい紙の上の「なぜ」では事態は変わらない。

 追記 他の国の青年や少年たちのように、自らを組織することにこの国の若者は臆病なのか。それは追って考察する。

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