コロナ禍は「小学区制」=新制高校の理想に戻る機会ではないか。残念なことに、我が民族は、自ら革命的決意をしたことが無いから、こんな機会を利用するしかない。
政府にはコロナウイルスから国民の命を守る姿勢はない。一旦は「PCR検査体制の1日2万件への倍増」を表明したが、厚労省の補正予算案では僅か 49億円。これが如何に少ないか、アベのマスクに 466億円計上ことに比べれば分かる。つまり政府は、偽りのコロナ関係統計を作りながら、国民を殺す。
「PCR関係には49億円の費用が着いている。厚労省にどういう算定なんだと聞いたら、55万件分のPCR検査のお金だと。一日あたりに直すと1500件なんですよ」NHK「日曜討論」(26日放送)で国民民主党の泉健太政調会長発言。宗教政党が予算に口を挟めばこのざまだ。命を軽んじるにもほどがある。
九月入学制度への移行が喧しくなっている。夏までにはコロナ禍も収束すると観て、この際日本も国際社会と歩調を合わせて秋入学にしたらどうだと言う。夏までに都合良く収まるだろうか。しかしコロナ禍は長引く。万が一収まれば、さっさと秋入学にすれば良い。最初の年度は、四月から九月生まれの若者が増えることを覚悟する必要がある。過密になる。教室は足りなくなる。金も足りなくなる、工事は間に合わない。
そんなことより、僕は偏差値による選別制度こそが世界標準からズレていると思う。選別が遠距離通学を子どもにも教師にも強いている。通勤ラッシュもそれが加速している。
高校入試の廃止に向けての千載一遇の機会でもあると思う。平等から逃走し格差を有り難がる風潮からも、解放される。
例えコロナ禍が収まらなくとも、授業は学年別に午前・昼間・夕方に分け。一斉に登校しないから、一教室の密度は普段の1/3程度。
「違った偏差値の生徒たち」が混じり合うことの、困難より可能性に期待しなければならない。フィンランドでも一つの教室に様々の「学力」の生徒が混じり合うが、別段フィンランドのノーベル賞が少なかったり、企業の競争力が低いわけではない。逆に日本だけが取り残されている。その元凶は、世にも希な偏差値による選別にある。九月入学が阻んでいるわけではない。
(大学世界ランキング(タイムズ・ハイヤー・エデュケーション・ランキング)で日本は上位にない。トップ20には、中国6校、韓国5校、香港5校と比べて日本は2校だけ。 経営大学院(MBA)で、トップ100に日本はゼロ。様々な階層の生徒たちが混じり合うことで、文化的政治的多様性と豊かさも生まれる。
科学技術振興財団の調査では、先端151分野の有力論文ランキングの各分野1位は全て米国と中国。最重要分野AIでは、世界10位に過ぎない。 英語力の欠如が世界で競争できない理由の一つにあげたがるが、調査(EF EPI英語能力指数)対象100カ国中、日本は53位。アジア25カ国中でも11位。韓国6位、ベトナム7位、中国9位。 ノーベル賞学者の数も所詮過去への評価に過ぎない。)
m先生の生徒が呟いた「私、ソシュールかも」も、こんな教室で大きく生きる。ai機器を駆使した「最新式」の授業より発展の可能性は高い。
様々な学校からの生徒が集まるのだから、ウイルス塗れで洗濯のきかない制服も廃止したらいい。ジャブジャブ洗えるTシャツのほうが清々しい。
一体どれほどの時間と費用が節約されることだろうか。暇こそは学芸の源なのだ。
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