横浜市の職員バッチは「ハマ」を図案化したもの。あるヤクザの代紋によく似ている。 「ハマ」市職員が盛り場で一杯やっていた時、いかにも暴力団構成員らしい男数人が、職員バッチを見て最敬礼したという。
ある年の正月、旧財閥系企業人事部長が苦り切っていた。
「「若い社員たちが団交で、社員バッチをつくれ」と言うんだ」。彼は、組合に賃上げの要求が低すぎると交渉の秘訣を伝授する変わり者だった。
「「通勤で、三井や三井の連中が社員バッチを付けているのが羨ましい」と言うから「それは奴隷根性じゃないか、会社ではなく自分自身に誇りを持て」と言い返したが彼らは、「愛社精神だ、仕事への誇りだ」と食い下がるんだ」
1964東京オリンピックが終わった頃である、学生達が会社の偏差値が欲しいと言い始めた。次第に就職偏差値は「精緻」を極め、今や結婚偏差値まである。
通勤地獄に腹を立てる事もなく、満員電車の中で他人からの視線に痺れる愚かさ。自ら進んで格差を要求する。階級意識が育たないわけだ。同様に学生意識も存在しない。あるのは裏に偏差値の高さを露骨に匂わせた愛校精神だけだ。不安定雇用を世代共通の課題として意識出来ない程、分断されてしまっている。共闘を回避して、互いに嘲弄する日々だ。
『大いなる西部』は、「体面」を賭けて撃ち殺し合う文化の愚かしさを描いた異色の西部劇。水場を巡る二つの牧場に連綿と続いた殺し合い。東部からやってきた主人公は、水場を双方に解放することで円満に解決する事を願っている。
メンツに拘り命を捨てたがるのは、アメリカも日本もよく似ている。意気地なしと世間から見なされる事を恥じ、他者の評価に翻弄される愚かさ。~であることと~と見做されることには、天地の差がある。
グレゴリ-・ペック演じる主人公は、女性を巡る鞘当ての挑発にも
「争っても何も証明できないぞ。挑発には乗らん。馬でも銃でもこぶしでもだ」と言い捨てる。
主人公が荒馬で手酷く失敗する様を嘲弄しようとカウボーイたちが待ち構えるが、その手にものらない。しかし荒馬を乗りこなす事に興味はある、カウボーイに殴り勝つ自信もある。見せびらかすのを好まないのだ。
メキシコ人の牧童に荒馬を引き出させてじっくり観察するが、牧童は乗るのを強く止める。鞍を載せるのにも苦労して、漸く乗るが馬は頑として動かない。動いたかと思えば振り落とす。それでも長い格闘の末に荒馬を乗り熟し牧童を感嘆させるが、誰にも言うなと堅く口止めする。
そんな主人公に婚約者は愛想を尽かして言う。
「・・・気にならないの?」
「どう思うと勝手だ。問題は自分さ」
「あたしのことは? 世間があなたを…」
「臆病者と思うだろうがそれは違う。だが勇敢さを証明する気もない」
「その逆を十分に証明したわ」
ある時敬愛する女性が侮辱されたのにたまりかねて、主人公は真夜中無人の野原で「挨拶がわり」の決闘をする。長時間の殴り合いの果て、ついにチャールストン・ヘストン演じる牧童頭が弱音を吐く。
「お前の挨拶は長いなあ」
「これで、終わりだ。君さえよければ」
「俺はいいぜ」
「これが何の証明になる?」
主人公はこの殴り合いについても一切口にしない。
結局意地の張り合いは、双方の牧場主が互いの弾丸で死ぬことで終わる。主人公の意図する水源地の開放の問題は、これでたぶん決着はする。しかしこれは中断又は先送りかもしれない。
十字軍とイスララム教徒の体面を巡る惨劇は、如何なる政治的国際的調定も受け付けない。千年を経てなお拗れるばかりだ。
「どう思うと勝手だ。問題は自分さ」という台詞のつぼは、ここにある。社員バッチや高校の垂れ幕に改善の余地は無い、廃止だけが残る。対話の不能性・・・。
「どう思うと勝手だ。問題は自分さ」を遙かな昔から、何度も聞いた。そうでなければ、合点の行かぬ事が多すぎる。
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