問題を解く過程は楽しめても、答案作成には興味が湧かない者がある。四谷二中の親友Z君がそうだった。 朝早く登校して前日の宿題を片付けていると「俺にも教えてくれよ」と寄ってくる。・・・「これでいいのか、わかった」と満面の笑顔。だがテストでは零点。彼は成績にも順位にも関心が無かった。
もし選抜がなければ、学校間に格差がなければ。仮にsafty net が政治の最重点課題であれば・・・おそらくかなりの少年少女たちが、Z君のように、分かる楽しみや喜びを満喫し、点数や順位にこだわらないだろう。たとえ点数や順位好きであっても、2科目か3科目にとどめてもいい。あとは多くの仲間と分かちあえば。
一介の教員に出来ることは限られる。 授業を出来るだけ興味深く役立つものにすること、テストの時間制限をなくすことぐらい。
僕はある時期から必要な生徒に、追加の答案用紙を配るようにした。3枚も4枚も追加する者も現れる。答案の形式が豊富になった、漫画にする者、図にする者、色を加えて抽象画風にする者(彼女は抽象画の解釈や鑑賞を挑んで来た)、・・・。同じ答案、似た答案は無かった。僕は批評と感想を全員に書いた。答案は返却後、回し読みされ「もっと書かせて」と時間延長要求が出る。
中に答案が捗っていないのに「時間が足りない」と言う者も数人。理解が遅い、構想するのに時間が掛かる、学ぶのがゆっくりしている。これは理解が素早い等と同じ「個性」であり欠点では無い、人権として尊重されねばならない。
こうして試験の時間制限は、成績一覧表の締め切りまで伸びた。期末試験では自宅学習期間にもかかわらず、朝から夕方まで書き続ける者が続出した。
頭に汗びっしょりかいて「脳みそが裏返ったみたい」と言いながら十枚以上に膨らんだ答案を出す生徒には、「作品」を仕上げた満足感が溢れていた。
この生徒たちが鉛筆を握りしめた切掛を僕は鮮明に覚えている。
3年4組 23人のクラス。(おそらく東京で最も不人気な学校の大幅定員割れ学級。英語教育を看板にしたクラスなのに生徒は皆英語が出来ない、何という「選択の自由」そこしか入れない、それを自由と言い募る神経を教育行政が持つ不幸)落書きもなくゴミ一つ落ちていない。上唇にピアスを3つ付けた生徒が一番前に陣取って後ろの生徒と喋っている。デンと飲み物とお菓子をおいて前後ろ横と喋っている。ここは3-4かいと言うが反応がない。やがて間延びした声で「キリーツ」の声が掛かる。なかなか立たない。胡散臭いものを見るような目つきで僕を見ながら、ダラーッと力無く立ち上がり始める。全員が立つまで長い時間が流れたような気がする。
「立たなくてもよろしい。耳だけをこっちに」
「君たちを初めて見たのは4日前の始業式だ。なかなかいいセンスだと思いながら見ていた。ナガーイ校長の話、何の話だったっけ?」
「もう忘れた?・・・・聴いてなかった。ざわざわしてたからね」
そのあと、ある先生に
『オメェーラ何度言えばわかんだよ、だからオメーたちには自由がないんだよ、自由・自由がないと言うんだったらやることやってからにしろ』と言われて、シーンとした。ガッカリしたよ。
いいか、君たちは口汚く怒鳴られて静かにしてしまうことで、教員にあることを学習させているんだ。『こいつらは怒鳴らなきゃ駄目なんだ』と『話の中身じゃない、そもそも聞く態度がなっていないのだ』と。君たちがわざわざ教えているんだ」
叱られれば中身に関係なく静まうこと。自由と集会の態度をバーターすることのナンセンスとそこに含まれる論理の違法性。怒りが籠もって僕の話は少しも易しくはなかったと思う。
僕は王子工高での体験を話した。 (王工の生徒たちもうるさかった。スピーカーが役立たないほどやかましかった。怖そうな教師が怒鳴っても静まらない。職員会議で議論した結果、聞きたくなる話をしよう、それもなるべく短くという事になった。その最初の話し手がたまたま交通事故の怪我で包帯と松葉杖姿で登壇したため、静まりかえった)
そして、憲法99条の2箇所を空欄にして板書した。
「ここに何という言葉が入るか考えてもらおう。」
「ハイハイ、国会議員」教員でさえ間違えてしまう問題を、正しく答えて、僕は一瞬驚いた。こうした〃予想外〃はよくある。
「それでいいかな」と念を押す。
「えーじゃーナニナニ」と周りに相談し始める。
「他には・・・&#¢さん」指名して行くと
「国民?」
「国民」と次から次に言う。最初の生徒まで
「私もそれをほんとは言いたかったの」と言う。
「憲法九九条を教科書の後ろの条文で確かめてみようか」
「だよね、だよね」国会議員と言った生徒が叫ぶ。あらためて九九条を音読すると
「セッショウって殺すことだよね」とニッコリする生徒がいて、みんな笑った。その他の公務員には公立学校の教員はもちろん含まれている。
なぜ国民ととはどこにも、書いてないのかについて講義を始めた。学校でいえば、校則には教師の義務と生徒の権利が書いてあるのが憲法なんだと。例えば教師は良い授業をしなければならない、生徒を侮辱してはならないと。
終わって教室を出ると「せんせー名前はなんて言うの」と追っかけて来た。
この高校に転勤が決まって何人かの教師に会ったが、「授業は十分と保ちません」と誰もが念を押す。教室を廊下から覗いて、僕は辛くなった。職員室の風景も気に掛かる。見本の教科書資料集が十数年分、古い使いようのないパソコン・・・。HOW TOもの以外の本が教員の机上に殆ど無い。知的退廃。逃亡。
授業して生徒から返ってくる反応が少なければ教師はつらい。教室の様子も職員室の雰囲気も、「辛いぞ」と予め釘を刺すようであった。
教育は本来的に教師の思惑を超えて授業したことが教師本人に返ってくる仕事である。つまり二倍三倍時には十倍にもなって返ってくるのが常態である。
もし一割しか返ってこなければ発狂するだろうとは、佐藤学の言である。一割以下で発狂しないためには、様々に現場から逃亡を図らねばならない。その逃亡の姿が、職員室の知的退廃であった。
0 件のコメント:
コメントを投稿