《所有》=(own)と《債務を負う・恩恵を被る》=(owe)、《当為》=(ought)との間には語源的つながりがある。 身体・能力の所有(own)を社会への責務関係(owe)から切断したところで、近代に特異な「自己所有権」の主張がかろうじて成り立っている。僕の高校の校長は隣の大学の農業経済学者で、月に一度やってきて中庭で話をした。哲学者然とした風貌と、学ぶ者・知識ある者の社会的責務を淡々と説く姿に見せられて、多くの生徒が大学の研究室を訪ねた。いつも若者で賑わっていた。 彼は、社会への責務=当為を我々に説いて、我々の目と耳を広く社会に世界に向けさせたのだった。そのせいばかりではないだろうが、様々な集会やデモには上級生と同級生たちの姿があった。
人々が競って所有したがり見せびらかしたがる能力や財がある。他方隠し捨てたくなるマイナスの財や能力もある。この誰もが捨てたくなる財や能力など、厄介なものは自然消滅するだろうか、廃棄出来るのだろうか。嫌がるものは捨てて、みんなが欲しがるものだけ増やすわけにはいかない。この相反するものは同時に生まれる。同時に存在する。一方が大きく輝けば、他方は暗く沈む、仕組みがそうなっている。爵位と特権を欲すれば、同時に貧民と窮乏はつくられ拡大する。維新で爵位はつくられたが、被差別身分がなくなる事は構造上あり得なかった。それどころか、戦争のたびに貴族は増えている。東京の貧民街が拡大するわけだ。
人々が高い偏差値の学歴を欲し実現すれば、低い偏差値の学校やその学歴保持者は、望まなくとも同時に同じだけ生まれる。
それは全く正確にそうなのである。その値は一つひとつ個人・組織に対応しているから、隠し捨てたければ人や組織そのものを捨てなければならない。さもなくば偏差値そのものを廃止しなければならない。貧民をなくすには、あらゆる特権を廃止しなければならないように。
北欧などまともな国では、例えばオリンピックのメダリストが学校で教えていても、誰も特別扱いしない。彼が尊重されるのは、記録の故ではない、その存在ゆえだからである。 本人も特別扱いを求めることはない。特定の能力が特権を生むことはない、同時にその能力の欠落が不利を生むこともないのである。
一旦特権を得たものは、それを維持増大させたがるし、それがあたかも当然の自然現象であるかの如振る舞う。特権の対極に立たされた側は、特権を持つ者に憧れて我が身の不運と諦めてしまう。この構造を我々が肯定する限り、受験地獄も格差もなくなりはしない。格差の連鎖が問題なのではない、格差そのものが問題なのだ。格差の連鎖を無くすと言いながら、行政が中学での課外補習に予算を組んでも、たとえ成功しても連鎖そのものは移動するだけで消えはしない。塾産業の利権を太らせ、格差は新たに広がるに過ぎない。
イタリアブランドの高価な制服を決めて、悦に入る公立小学校校長がでるのも、新たな格差を求めての無能者の愚かな「見果てぬ夢」に過ぎない。彼は公立学校校長の「社会的責務」から自らを切断して「所有権」だけを声高に言えるほど知性を欠いている。まともな大人なら、恥ずかしくて穴に入る。
追記 僕らの校長が、月に一度昼休みの僅か2・30分語りかけた事が、我々を身近な差別や貧困そして遠い沖縄問題やベトナム戦争に関心を向けさせ、積極的な「社会参加」に誘った事は、考察に値する。参加型学習に僕は、胡散臭さを感じている。
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