ぶれなければ、落下する

  電線の鳥、自転車、二足歩行の人は、何故落ちたり倒れたりしないのか。一見安定して静止しているように見えてはいるが、絶えず重心を動かしたり、倒れる方向にハンドルを回したり足を踏み出しているからである。絶えず平衡を崩しては修正を図っている。完全に静止した状態がどんなに危ないか、電線に鳥の形をした薄焼きの陶器を乗せる苦労をしてみればわかる。陶器は美しくても「死」んでいる。「正常」に生きている証が、動く事である。それは、時には大胆な動きにもなる。
 「「正常」というのは、平凡かつ起伏のない感情の寄せ集めでできているものではない。それぞれの感情を一つ一つとりあげれば「異常」にうつるかもしれないが、それらの感情(+の狂気、-の狂気)をまとめると、全体としてみれば、プラスマイナス零となる。そういった状態が「正常」というのであろう」『ラッセル短篇集』中央公論社                  
  単に「ぶれない」事を、善しとする傾向がある。宗派や党派や個人にも抜きがたく潜在して、折に触れて噴出する。学生運動セクトの僅かな路線の違いが、殺しあいにまでなる。ソビエトの核を巡る原水爆禁止運動の分裂は、人々をウンザリさせ、市民活動家が次第に距離を置くようになった。意見の違いには寛容な姿勢で臨み、互いに学び合う事で成長しているのが国民に実感出来ないのであれば、誰がそんな政党に政権を任す気になるだろうか。仲間内の小さな違いに目くじらをたてていがみ合うのなら、仲間内でない大衆の異論・反論にどんな態度を取るのかと、怪しんで離反するのは当然だろう。
 例えばフランスの共産党大会には、トロツキストや第四インター系の党派や脱党したかつての仲間も招かれていた。大分昔からである。僕は、森 有正の『パリだより』(「世界」岩波書店)で読んで、嘆息した。70年代だったと思う。 お終いには互いに肩を組んで、インターナショナルを歌う。ここまであって、初めて言論の自由・結社の自由それ自体が社会化していると言えるのである。日本では、袂を分かったかつての友を口を極めて罵ることが、己のぶれない正しさを証明するが如き惨状である。社民党大会に共産党書記長が顔を出したのは、漸く去年のことだった。余りにも遅い。この不毛な啀み合いが、どんなにか政権党を利した事か。

 この忌むべき体質が、あらゆる党派、あらゆる組織に潜むのは何故だろうか。そのことと、左翼党派の「転向」体質、ハンセン病の絶滅隔離政策、偏差値に依拠した選別体制、疑似血縁関係をを拡大する血統信仰、・・・は密に絡んでいる。更に我々の日常に抜きがたく染みついているものがあって、不毛な啀み合いの培養器になっている。例えば、メダルや勲章を有り難がり、あらゆる事をランキングせずには措かない性癖、勝っても負けても泣きじゃくる不思議な感性。
 僕は何度か学級担任をした。その度ごとに閉口したのは、通信簿に学級内席次や学年席次を入れて欲しいという圧力だ。生徒がそう言うのだから困る。東京にある何百という学校のランキングさえ辟易しているのに、学校内の、学級内の順位を知りたがる。人格・人権の概念が根付かないわけだ。先ず、ここを抉らない限り「憲法感覚」はこの国に広まらない。
 我々は、何かを持つが故に尊いのではない。同時に何も持たないが故に卑しめられてはならない。権利という概念は「何かが出来る」というだけではなく、同時に「何かをした事を理由に、不利益を被らない」ことなのだ。
 ある時期、むやみにやる気を失い全てに落ち込んだとしても、反対に信じられないほどの頑張りをみせ誇りに満ちあふれたとしても、やってプラス・マイナスにぶれていることが「正常」なのである。あるときは輝くばかりに美しく、誰からもチヤホヤされて得意の絶頂だったのに、自殺したいほど自分の風貌が醜く想えみんなから無視されても心配はいらない。それが成長している証なのだ。党派の判断がぶれる、画家の作風がぶれる、作家の文章がぶれる・・・。それらは全て、彼らが生きた社会に生きて、活動している証である。存分に相互批判・批評の機会だと楽しむべきである。ぶれない党派・組織に成長はない。ぶれているのに、その事実を頑固に否定する個人を信頼する者はない。

 高校生の頃、フェリーニの『8・1/2』を僕は立て続けにみた。何もかもわからない。わからなさが僕を鷲づかみにして離さない。映画雑誌もパンフレットも読んだが、わからない。『甘い生活』も何度も見返した。わからない。イタリア語を知ればわかるのかもしれない。シネチッタに留学したいと思った。教員になっても『8・1/2』は見続けた。いつの間にか気づけば、当時のフェリーニと同じ年配になっていた。そして突然全てを了解した。理解したのではなく、了解した。『8・1/2』の主人公は、フェリーニ自身をモデルにしたグイド。グイドの愛人、友人、制作関係者との関係が膠着して、映画の構想が全く浮かばない、膠着しているのは現関係ばかりではない、イタリア社会の精神状況も混乱している。しかし次作を期待され追い詰められ、グイドの精神は千々に乱れ、「ぶれる」。全てが面倒になり、放り出してしまう。全てを放り出してみると、全ては変わらないまま、グイドを受け入れている。「これでいいのだ」と。散々ぶれて、天才監督は次作の構想に取りかかろうとする。
  その永い思索の過程で読んだ何かに、マルチェロ・マストロヤンニは自分の顔を嫌っていた、というような文を見つけた。どこで読んだのが思い出せないが、多くの俳優・女優が自分の顔に違和感を持っている事も知った。容貌の根幹は表情である。表情は自分と対象の相互関係である。その変化に気付きもせず、絶対不変の自信を持っている者があれば、見る気にはならない。そんな役者に演技の進歩など期待できない。


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