「自分の意志を主張するには、説得術に長けていなければならない。説得術は、いわゆる雄弁術とは違う。いわゆる雄弁術では聴衆を感動させなければならず、そのためには発音が明瞭で、抑揚や問の取り方等、話術が巧みでなければならない。しかし説得術では、そういうことはどうでもよい。話が理詰めに運ばれて、ちょうど将棋で敵の王将を詰めてしまうように、相手をして結論を受け入れざるを得ないと観念させるだけの、論理力がなければならない。こういう論理力がないのに首相が「積極外交」をうそぶいたなら、それは「こけおどし」以外の何物でもない。
ところで日本人の論理力は極めて弱い・・・ 日本では、古代はもちろん中世でも、論理的に思考することはほとんどなかった。徳川時代に和算が発達したが、それが刺戟になって社会問題や宗教問題が論理的に考えられることにはならなかった。論理的思考が多少とも一般国民のレベルに入って来るのは、明治時代に近代科学が輸入されてからである。そのような時代にも学問以外で論理を振るうことは歓迎されなかった。「理屈を言うな」の一声が、日常政治や政治生活から論理を追放したのである。
人間の論理力は、10歳代の後半に高速度で発達する。したがってこの年頃に自由に勉強できるなら、20歳になった時には相当高水準の思考ができる。日本でも旧制高校は、そのような青年を育成するのに貢献した。しかし新制教育の時代になると、大学入学試験が激化したから、生徒は高校時代に考えなくなり、必要な知識は記憶力で頭に詰めこむようになった。私はかねがね塾や予備校育ちの人が首相になるようになれば大変なことになると思っていたが、まさにそういう時代が来たのである」 森嶋通夫『政治家の条件』
フランスの高校生たちは、例えばサルコジ政権の「年金改悪」政策を追い詰め、カナダや南米でも世論を喚起して共感を巻き起こし要求を実現し、政権を打倒することもたびたびある。"子供のために投票しよう"運動を繰り広げる「ペルー働く子ども・若者全国運動」(MNNATSOP)の子どもたちは、働く子どもの権利を提起広く世界に活動を広げている。←クリック
日本の高校生や大学生が、大きな運動を組織出来なくなったのは「論理力」に欠け「相手をして結論を受け入れざるを得ないと観念させ」られない弱さ所以だと、僕も思う。受験で青少年が知的精神的消耗しきって「考えなくなり、必要な知識は記憶力で頭に詰めこむようになった」事もある。 がそれだけではない。例えば、慶応や早稲田はかなりの人数を付属高校から無試験で入学させている。彼らが、受験地獄をくぐり抜けた連中より、鋭い分析と展望で学生運動をリードしていたとは、少なくとも1968年の「紛争」時代の経験からは言えない。
たとえ受験競争がなくとも、高校生から「論理力」を根こそぎ奪うものがある。部活である。部活の論理は、部活の指導者を教員が兼ねているから、「理屈を言うな」の声が中学時代から学園生活を席捲、日常から論理を説得を追放している。教師の生活自体が、上から「理屈を言うな」の声に押しつぶされて、身動きならず過労死に至っている。受験圧力だけなら、つまり高校生を締め付けるものが一つだけなら「反乱」の可能性はある。いくらか「考え」る力・論理力が弱くとも、困難が一つなら誤魔化されはしない。自殺も、原因が一つだけなら避けられる可能性は高い。だが原因が複合しているときの絶望感は、対数関数的に高まって手に負えなくなる。
高校生諸君! 偶には部活をサボり、考えてみようではないか。世界では君たちと同世代が、直接社会的発言や行動を繰り広げ、若者や国民の要求を政府に認めさせている。学校の運営にも、教師や親たちと対等な立場で発言、評決もしているのだ。 「模擬」ではない、「本物」の社会参加が君たちには出来る、肉体も精神もそういう年齢に達しているのだ。
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