高校生の「祭り」と酒

 体育祭や文化祭のあとの酒宴もまた、担任の悩みである。盛り場に繰り出して祝杯をあげる。高校生も一旦帰宅して着替えれば大学生と区別はつけにくい。奥多摩のバンガローに泊まり、夜通し騒ぐグルーブもある。
 文化祭に感動と涙を演出しようとするのを僕は好まない。好まないのだが、学校も生徒も涙を求めて、これでもかとばかりに仕掛けをこらす。それは閉会式の表彰で頂点に達する。
 盛りあげるだけ盛りあげておいて、さあこれまですぐ解散して帰れ、コンパ禁止、とは少なくとも生徒には聞こえない。とくに表彰でもされようものなら、興奮は互いに増幅しあう。教師も興奮する。普段の授業で生徒たちの興味・関心を掻き立てられない者にとっては、感動の一日なのである。優勝した学級の担任は、「打ち上げ」の宴席でスピーチを求められ、どんなに生徒を統制管理したのかを得意満面に語らずには居られない

 「飲まずにすむような文化祭ならやらないほうがいいよ、そんなものどうせたいしたものにはならない。教師だってそうだよな、終ってすぐ解散できるような代物は、ろくなものじゃない」そう言ったのは退職したM先生だ。組合でも教研でも信望厚かった。
 でもM先生、僕は集団で飲むのは避けたい。

 「僕が大学生だった頃、毎年合宿をやった。信じないだろうが勉強のためだ。だが、大学生だから夜になれば酒を飲む。奈良漬で酔うという真面目な三年生がいた。僕らはおもしろがってむりやりビールを強要した。彼は長い抵抗のあと、少しだけだぞと言いながらコップに一センチくらいを目をつぶって飲み込み、僕らは拍手喝采した。彼はたちまちフウと息をつき、酔いつぶれてしまった。いくらゆすっても起きない。僕たちはさらに飲み続けて寝た。
 翌朝、二日酔のまま朝ごはんを食べたが、その三年生がいない。悪い予感がして部屋へ行くと死んだようになっている。おそるおそる息を確かめると死んではいなかった。救急車を呼んだ。僕らの二日酔は一ペんに覚めた。
 もう少し飲ませていたら、彼は急性アル中で死んでいた。生徒たちが一年生の時には、こう話して牽制した。無駄だろうが死ぬような愚だけはしてほしくない。

 文化祭が終わって、生徒たちは、立川のシェーキーズに集まろう、先生も行くでしょ、そう言う。
 僕はこんな時、教師はノコノコついて行ってはいけないと思っている、生徒は教師を誘ってはいけないと考えている。生徒という存在は、教師と学校を批判するから際立つのだぞ、高校生!
 だから僕は誘われても行かない。飲んだだろうな、そう思っていた。
 だが、翌朝生徒たちはこう言う。
 「先生、シェーキーズは満員だった、だからマクドナルドに行っちゃったの」
 「俺なんかマックシェイク三杯も欽んじゃった」
 「Yさんなんかビッグマック四つも食べたよ」
 高校生がハンバーガー屋で盛り上がっている様子は、いかにも郊外の学校らしく牧歌的だと思う。それでもやっぱり飲んだだろうと僕は疑っていた。

 「初めは飲みに行く予定だったんですよ。先生ご存知でしたか、娘たちが電話で連絡とりあっていたのをちょっと聞いちゃいました。『でもね』と娘が言いますには、『あの先生だけは裏切れないからね』って、それで会場が変わったんですよ」お母さんの一人からこう聞いたのは三学期になってからだ。

 だったら目を瞑ろう。二学期末に奥多摩の山荘で吐くほど飲み、友だちのゲロに頭を突っ込んで寝て、風邪をひいてしまったことは。 
 だが高校生が、盛り上がるのにアルコールの助けを必要とするとは、どこか感性が鈍化しているのだと思えてならない。事実と友情だけで、いくらでも熱く語り合うことが出来る筈ではないか。
 酒も煙草と同様、禁じられた事やものへの止みがたい好奇心に依るもの。平和運動や政治活動も、世間が高校生には強く禁じたがる事柄である。少しはこちらにも関心を持って貰いたい。

  鹿児島では、一日の仕事を終えての焼酎を「だいやめ」という。疲れをとるという意味の方言である。「疲れた」を「だれたぁ」という、「やめ」は「止め」である。
 健康な労働と家族の労りが偲ばれる言葉である。その日の仕事の様子を聞きながら、「だいやめ」の肴を準備する祖母たちの顔は嬉しそうだった。
 様々な仕事を持つ者が、互いの労働を目にし、異なる労働をする者への感謝が伝わる関係があっての「祭り」である。一年の長い労働への、集落を挙げての 「だいやめ」が祭りである。最期の日には、裏方を務めた「おなごんし」女性たちの「だいやめ」が、男たちの手で執り行われる。

  今、労働が互いに見えない。働く者としての関係より消費者としての側面が前面に出てしまった。互いの労働の場が、地理的にも意識的にも遠く離れて理解しにくい。酒を飲むとしても同じ職場の同じ職種に限られる。町も国も、互いの労働が目に見える規模でなければならない。
 僕が沖縄独立に賛成するのは、琉球列島ではそれを可能にする働き方と文化があるからだ。例えば新聞社やテレビ局でも、事件や問題が起きればその場所と人々の顔が咄嗟に思い浮かぶ。小さな集落の村民も、、問題があればどのメディアの誰に話せば良いかを知っている、誰に談判すれば良いかも直ぐ分かるし、足で駆けつける事も不可能ではない。
 一億人を越した国家、一千万人を突破して広がった都市では、担当大臣すら地域名の漢字を読むことが出来ない有様だ。まして固有名詞で普通の個人がマスメディアに登場することはない。芸能人やスポーツマンだけがTVを占領する事になる。

 固有名詞に基づいた関係だけが、外国の軍事基地を追い出す力になると思う。そして、そんな小国がこの国と適切な距離にあることが、我々が我が国を見る鏡になる筈である。

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