旧来の歌舞伎では、一人が科白をいい切るまでは、他の役者は演技をしない。どんな場合にも間がある。一人の科白によって他の人間の表情がかわって行くというような事も考えられない。つまりアンサンブルがないとは板東三津五郎の言である。
個性をもった人間どうしの心理的な相互作用と、異った音の間の和声関係との間には共通した「文化型」があると考えることが出来る。ある意味では、日本の実体的で自足的「個人主義」を、社会をなさない個人主義と呼ぶことが出来る。安藤昌益や関孝和など世界的研究者の業績さえもがschoolとして受け継がれ発展するのではなく、流儀として閉ざされる事になる。地位でさえコネや血筋の中に秘められるのだ。
対話的討論、学びあう討論が成り立たない。会議でものを言うのは論理や真実ではない、彼がどの「流派」討に属しているかである。正しさ公正さなどではなく、自分たちが他を言いくるめて「勝つ」ことだけを求める。その結果、全体が不利益を被ることなどほとんど考慮されない。討議の授業が、勝ち負けを競うdebateに流れる訳だ。
1968年に始まった大学紛争の時期、あらゆる集会でけたたましく飛び交った「ナンセンス」「異議なし」「帰れ」の声は何だったのか。何故、大会を開いたのか、討議して妥協点を探したり、真実に近づいたりする為ではなかったのだろうか。自らの立場を強調し、対立する党派を威圧するものでしかなかった。
これは大学構内だけの文化・風習ではなかった。教師に成り立ての頃、職員会議でも発言に対して「黙れ若造」「ナンセンス」などのの罵声と共に灰皿までが飛んできた。「表へ出ろ」と喧嘩を売られる事もあった。とても個人同士の「アンサンブル」や「対話」とは言えない。
犯罪を巡って「真実」に接近する事を目指すはずの公務員である検事さえ、被告側に有利な証拠を隠し、真実の発見より、権力としての勝利を目指すのだから目の前が暗くなる。
せめて討論やdebateで、相手側の有利な論証や証拠などの提供を賞賛するスタイルを確立したい。
僕が「現代社会」を1年と2年で4単位持っていた時、あるグループが討論をやらせてくれと申し入れて来て、そのために授業を組み替えたことがある。このとき彼らが努力したのは、討論に勝つことではなく公正さをいかに保証するかであった。
教室でさえ互いの遣り取りが、真実の発見を目指さず勝ち負けに決着するならば、企業が競争に勝利する為にデーター偽造や証拠隠滅は手段として許されはしないか。
加計・森友・自衛隊日報問題は、我々の日常に蔓延する「競争」勝利至上主義の結果に過ぎない。国際関係では、更に重大な事実の捏造さえ正義・平和と読み替えられている。
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