昆虫は脱皮するとき、快感を味わっている

蜘蛛も脱皮する
 昆虫は脱皮するとき、快感を味わっているのではないか、と言ったのは小田実である。
 古く窮屈な装いを捨て新しい枠を獲得する。無防備で危険なときだが、真っ新な自由がある。この時を全ての昆虫は逃れることは出来ない。

 NHKBSプレミアム土曜日『刑事フォイル』(原題
『Foyle's war』)主人公警視正フォイルが、念願かなって辞職する場面が先週あった。新しい警視正を部屋に迎えて、引き継ぎの書類を渡すや「あとは係の者に」と言い残して振り返りもせず、アッと言う間もなく退出してしまう。花束贈呈も、職員一同の見送りどころか誰の見送りもない。別れの宴もない。やりたいこと目指して実に嬉しそうに、真っ新な自由目指して飛び出す。特権も拳銃もなくなるが、しがらみもなくなる。
 
これからフォイルは組織に拘束されず、指示されず「正義」だけを貫くはずである。
 『刑事フォイル』は、警察や軍部と英国に基地を置いた米軍の腐敗や不正を見逃すことはなかった。BBCらしさのにじみ出る作品である。それ故彼は軍部や警察上層部からの圧力介入は執拗なものがある。だが迷宮入りを許さない捜査が彼の名声を高める。

   人間にとって、卒業も退職も結婚も脱皮である。しかし人間の脱皮は、昆虫のそれに比べると実に詰まらない。真っ新な自由をさない、よってたかって邪魔をする。親が、仲間が、血縁者が「式」にかこつけて、しがらみから自由になることを許さないのだ。「しがらみ」を維持することが、古くさく窮屈な縁を繋ぐ「祝い」であるかのように思い込んでいる。危険や不安から守ると言う口実に、自由の位置する場はない。不安や危険の伴わない自由は、あたかも哲学者から思想を、文学者から批判精神を、科学者から懐疑心を奪い、椿三十郎を士官させるようなものだ。
  『椿三十郎』のラストで、
室戸半兵衛を倒した椿三十郎に若侍が「お見事!」と言うシーンがある。椿三十郎は「ばかもん!利いた風な口を聞くな!」と一喝、倒れた室戸を見ながら「こいつは俺といっしょで抜き身だ。でもな、本当にいい刀は鞘に入ってるもんだ。お前らもおとなしく鞘に入ってろよ!」そして「あばよ」と言って去る。誰もが椿三十郎には危険とともに自由が、若侍には安定とともにしがらみだらけの退屈と腐敗が待っていることを読み取るのである。しかしサラリーマンたちは、「本当にいい刀は鞘に入ってる」を聞いて胸に輝く企業バッジを撫でるに違いない。椿三十郎が言いたかったのは「お前たちのような盆暗は、せめて鞘に納まって出世を待つしか手はないのだ」である。そしていずれ腐敗する、だから「あばよ」が重く響くのである。『椿三十郎』の20年後つまり『椿五十郎』を作る方が、remake版の何倍も価値がある。

 フォイルが警視正の肩書きと特権を捨て警察署の玄関を出たときの気持ちも、古く窮屈な仕組みに向かって言う「あばよ」である、いずれ組織は腐敗するだろう。
 肩書きを捨てたFoylは、以前にも増して権力悪を徹底的に糾弾するはずである。英国や米国企業のナチスとの癒着した過去にも遠慮はしないだろう。


 しがらみをコネや縁としか読めないところに、我々の情けなさがある。「自由は放縦ではない」と言いたがるのである、それが大人だと。椿三十郎の豪胆な自由は、放縦と切っても切れない。「腹がへった、金をくれ」と若侍に無心したりするのである。『用心棒』でも浪人桑畑三十郎は、一膳飯屋の親父に「喰うものはないか」とねだる。「武士は食わねど高楊枝」は格好いいが、いざという時自由に振る舞えない。まさに鞘に入った刀である。脱皮する快感を思い出せ。
 
 1968年田尻宗昭は海上保安庁の警備救難課長として、零細な密漁船を取り締まっていた。「鞘に入った刀」であった。それが一転して、公害企業の刑事責任を追及する側に立つ。彼は密漁を繰り返す漁師たちが、その理由を「俺らの漁区に魚がおらんからや!工場が俺たちの魚を殺したんや!」と言うのを聞き、憤然と脱皮し鞘を捨てたのである。
 豊穣な四日市の海を汚していたのは、石原産業であった。石原宏一郎は二・二六事件黒幕で戦犯。四日市では「石原天皇」と呼ばれ、工場二十万坪・従業員三千人。
石原は海だけではなく空も汚していた、四日市喘息である。1967年には死者を出して住民の怒りは爆発した。
 しかし捜査は、権力を刺激して難航を極めた。公害企業の刑事責任を問う判決が出たのは1980年であった。石原産業の犯罪を直接問うものではなかったが、日本初の公害企業の刑事責任認定の意義は大きかった。その後も、米海軍航空母艦ミッドウエイによるアスベスト廃棄物投棄などを摘発して、権力と対峙した。田尻宗昭を『Foyle's war』のようなスタイルでNHKがドラマ化する日は来るだろうか。

記 映画監督黒澤明は、「鞘」に「あばよ」を言っただろうか。『赤髭』のラストは、
保本登が御殿医の職を投げ打って養生所に残るという設定で終わっている。僕は釈然としない。本来は良い鞘に収まるべき名門の家柄という設定が気に入らない。日本人はこれが好きなのだ。天皇制と小型天皇制がだらだら続くわけだ。半ば百姓する貧乏医師の小倅が主人公という設定にならないのが歯痒い。主人公が終いには蛮社の獄に繋がれる展開の方が面白い。そのとき赤髭はどうするだろうか。
  「本当にいい刀は鞘に入ってる」に囚われたのは、黒澤明自身ではないか。『影武者』や『乱』の主人公は、鞘の細工に取り憑かれて憐れである。黒澤明に浦山桐郎の生き方は出来まい。
 1968の学生反乱で日本の学生たちは、見てくれの鞘にしがみついた、それで権力と対峙出来る訳がない。脱皮出来る道理はない。小田実は時に応じて脱皮を欠かさなかった。脱皮は孤独な行為でなければならない。

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