受動性と能動性との均衡 / 「わからないから面白い」授業

桑原武夫の共同研究は、Actifな知性を生んだ
これはその拠点京大人文研
   つめ込み主義は誤りである。だが深く思索するためには、膨大で正しく吸収された知識を持つ必要性も同様に明らかである。
 自分の中のPassiveな面とActifとの均衡の問題である。たくさんのことを覚えて記憶しても、それが自分の中にそのまま停滞しているのが受動性であり、それを自由に使いこなして表現することができるようになった時、受動性が能動性に移ったという。英語の単語や語句をたくさん知り、ずいぶんむずかしい本を読むことが出来るのに、書くとなると一行も綴れないのは、英語が受動的なままで、能動的にならないためだと考えられる。豊富な知識で登山の話に盛り上がる生徒が、いざ山行になると消えてしまうのも同じである。
 
 「これは経験と表現と双方に欠陥がある場合が多いが、パッシフとアクティフとの間に不均衡が生じ、書けなくなったり、逆におしゃべりになったりする。書けなくなるのはまだ始末がよいが、おしゃべりになったのはまことに手がつけられないものである」 桑原武夫 

 例えば語彙が場面に応じて出てこない、お陰で書けない。その経験は当該少年に、言葉さえ見つけることが出来たらという知的藻掻きを生じさせる。だが語彙のないことが生み出すお喋りは、言葉を見つけるために必要な沈黙を消してしまうのだ。意味のない言葉の羅列で自分自身の空虚さを覆い尽くすのだ。
 桑原武夫は日本のアクティブラーニングの目玉=ディベートの欠陥を簡潔に整理している。我々が気を付けねばならぬのは、我国の学習文化においては、「アクチブラーニング」がパッシフに展開されていることだ(「アクチブラーニング」という言葉を日本語に置き換えられないことがそれを如実に表している。自分たちの言語で展開出来ない概念は決して定着しない。)教科の中で教師に設定されたディベートはパッシフにならざるをえない。テーマや時間までも制限されれば尚更だ。議員になるや否や「可及的に速やかに」や「粛々として」を使いたがるのは、人々との間に対話的関係を築く意思のないことを意味している、言葉が少しも能動的ではないのだ。同じように、横文字の概念や官庁用語を教師が乱用するのは、主権者たる生徒や保護者との間に対話的関係を展開していない証拠なのだ。

 僕が経験した最も印象的な能動性は、
授業に対する「わからないから面白い」という反応である。教室での姿勢が完全にActifになって、学習を越え研究になっている。こんな時の生徒の質問は「~を教えて」ではなく「~は何処で、何で調べられるの」となる。
 学校や教委が好きな反応は、「分かるから面白い」と「~を教えて」であり、困るのは「分からないから退屈」である。しかしこのほかに「分からないけど引き込まれる」や「分かり易いけど詰まらない」や「分からないけど面白い」などを問題にしなければならない。恋愛でも重大なのは「嫌いだけど好き」なのだから。
 「わからないから面白い」反応の時は、授業空間が静かな闇に引きずり込まれる気配がある。後ろの席から眼差しを逸らさずに前に移る者がいる。その日、授業の感想は咄嗟には出て来ない。一週間後に聞くこともある。落語の「考え落ち」にあたる。
 成績に無頓着な者が多いことが
「わからないから面白い」を歓迎する教室の条件である。成績から解放されて、自由に考えることを楽しむ。
 ある時僕が問いかけをし、先を急いで答えを言おうとすると「先生待って、考えさせて」と止める生徒があった、必至の表情でそう言う。十分以上待った、いつの間にか考える生徒が増え始める。答えを聞きたがる生徒と、考え続ける生徒のせめぎ合いが楽しかった。友達の脳を借りて考え始めたのだ。ああでもない、こうでもないと呟きながら一緒に考える。共同研究が始まったのだ。
 この過程はディベートと根本的に異なる。真理を求めての共同である点で。相手に勝つことは問題ではない。友達の思考を助け理解しようと、友達の思考を取り入れようと藻掻く。違った個体はどう考えるのか、それを知ろうとする、伝えようとする、そのもどかしい過程が理解するということである。君の考える「甲」は僕の考えていた「乙」だと気付く。親友はこうして生まれる。
 教室の中に異なった文化や言語そして広い階層の仲間がいることが、どんなに大切なことなのか。


 競争やテストは少年たちの能動性を妨げるばかりだ。だとすれば、成績の良い少年たちは、Actifな学びから遠いわけだ。だからクイズ遊びに長けてTVの娯楽番組に引っ張りだこになる。馬鹿げている。

 高校や大学の授業評価が、分かる─分からない、楽しい─楽しくないの類ばかりなのは薄ら寒い。高校生や大学生はは侮られている。つまり、甘くて柔らかければ良いだろうと子ども扱いの厄介払いなのだ。
  「わからないから面白い」という高校生の反応は、彼らがもはや「pupil=生徒」ではなく既に「student=学生」であることを示している。フランスやドイツでは高校生を現す単語もÉtudiantやStudentである。日本の文科省は、頑なに「生徒」の用語を強制し続けている。

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