聖職意識と奴隷根性

全生分教室の青山先生は聖職意識から自由であった

 ハンセン病をペスト並の恐ろしい病気と吹聴した光田健輔と渋沢栄一によって、ハンセン病者の絶滅隔離が施行された。同時に、国家は子どもたちを教育する責務を放擲してしまった。敗戦後、ハンセン病の子どもたちの修学免除は解除されたが、子どもたちの教育は困難を極めた。その一つが、ハンセン病療養所内学校教師への差別であった。日本の差別はどうしてこうも執念深いのか。

E 私、教育委員長から奨められて、・・・承知して来た。ところが一ト月も経たない中に家主から追出しを喰ったのです。・・・ライ療養所の職員はこんなに迄も嫌われているのです。で、・・・村長と教育委員長とで(療養所の)官舎に入れてくれないか、と所長さんの所に交渉に行って戴いたのですが、全部ふさがっていて駄目だ、と断わられました。教育委員長が困って、小学校(本校)の官舎に入れてくれました。
S ・・・PTAから(分校との)兼任を反対されたので、ここの専任になったのです。・・・・矢張り本校では嫌われるような気がしますね。とっても心苦しいのです。こんなに嫌われたこんなに犠牲を払わねばならないのかと考えたりします。本校へ行くと一応気兼ね致します。何か持って行くと、大勢の先生の中には消毒して来てくれ、風呂に入って来たか、と言われる方もありますし。
B 花を持って行ってもいやがりますよ。
   「療養所内学校教師全国会議議事録」『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊

  一般の教員もハンセン病の知識と人権感覚に欠け、「肉が腐って落ちる」と教えるなど偏見と恐怖を煽っていた。療養所内学校教師の孤立感と不安定な身分。この点では派遣教師と子ども・補助教師は苦悩を共有していた。
 であれば派遣教師と補助教師(教委が療養所内教室に赴任させた資格を持つ教師を派遣教師、無資格で教育に従事する患者を補助教師と呼んだ)は、共感し手を携える良き同僚たりえたはずだが、療養所内学校教師全国会議では派遣教師と補助教師のどちらが主体かに議論が流れ、補助教師の存在自体に否定的であった。「何れ、患者教師は消えるべき存在ですな」との発言も肯定的に受け止められている。しかし、補助教師は本質的に重要な役割を果す。
療養所内教育の困難を担った患者教師を、この会議から除外したのは致命的失策であった。その後の療養所内分校の歴史が、それを証明する。

 この不安と孤立から
派遣教師に生じたのが「聖職者意識」であり、それを支えたのが手当であった(ハンセン病療養所関係職員には、本給の他に24%の危険手当がついた)  人の嫌がる危険な仕事に人生を捧げる「聖職」という意識で自らを鼓舞するしかなかったのである。教組や学生組織が支援に動いた気配はない。孤立を強いる刑があった。中世のヨーロッパで、城砦外に追放する。皮肉にも「自由」刑と言った。いかな剛の者でも涙を流して泣いたという。療養所内学校教師の孤立感はそれに近かった。
 過労死と隣り合わせの今の教師たちを支えているのも、「聖職」意識と言っていいのだろうか。給特法による4%の手当がそれを支えているとしたら噴飯ものである。

 仕事に中毒して、自らの命や家族を顧みなくなっても芸術家や探検家や学者なら、賞賛される。一切が仕事の担い手に任せられているからだ。何に如何にして挑戦するか、何時に起きて休むか、一切が本人に任されているからだ。しかし 一体、今教師は何を自由に決められるのか。良心の自由さえ奪われ、会議での採決や発言の機会さえ奪われている。そこで人々を奮起させるものは断じて「聖職意識」と言えるものではない。奴隷根性である。
 賃金奴隷としての絶望がそこにはある。絶望出来るという倒錯した意識。サムライが死刑を宣告されても「死を賜る」などと言う心理である。サムライJapanが声高に叫ばれる所以でもある。

 公立学校の教員に適用される「給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)」は私立校には適用されない。従って労働基準法が適用される。しかし、残業代が出るとは限らない。就業規則で始業・終業時間も定めず、残業代を一切支払わない私立学校は少なくない。
 ある私立学校教員が、学校に対し過去2年分の残業代を請求した(教師が申し立てたのは、(1)日曜日の勤務 (2)宿泊業務中の8時間を超える超過勤務と深夜労働 (3)日々の8時間を超える超過勤務の残業代支払いである)が話しはまとまらず、2018年労働基準監督署に申告した。その結果労働基準監督署は、残業代の未払いが労働基準法37条違反に当たると是正勧告を出しただけでなく、勤務時刻の規定や労働時間の記録や賃金台帳についても、勧告を出した。
 しかし学校側は是正勧告を無視。当該教員は、労働審判(2006年に運用が開始された制度)に持ち込んだ。和解が成立したが学校側は非を認めず、「支払ったのは残業代ではなく解決金」と主張を続けている。

 問題はこの先にある。法律を守るように学校側に求めた教師が、同僚の冷たい視線に曝され組合役員も辞任せざるを得なくなったのである。それだけではない、「自由に」働かせろと要求しているという。「自由に」とは、授業内容や研修に介入するなということではない。残業代を請求するな、労働時間に制限を加えるな、好きなだけ働かせろというのである。管理職の意識を内面化してしまっている。ここに奴隷根性が蔓延る ことの詳細は、「弁護士ドットコム」←クリック  

 「私たち自身も聖職者意識を改めないと働き方は変わらないのではないか」と当該教師は発言している。ここに問題が潜んでいる。今や教師以外は教師を聖職だとは思ってはいない、特に行政は。
 自分の扱われ方を正しく把握できずに、何時までもありもしない「聖職」観念に埋没しながら「聖職者意識を改めないと」と言うことの滑稽さを考えねばならない。

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