自身よりはるかに大きくなった郭公の雛に給餌するヨシキリ |
予防法闘争の拠点としての全生園では、大人も子どももデモや抗議活動に向かう入所者を頻繁に見送り、毎夕の園内放送は闘争の有り様を伝えて、闘争そのものを全患協本部と共有していた。
もはや、虚構と抑圧によって支配を貫徹することは出来ない。 入所者の無菌率も急速に高まって80%に近づき、厚生省の方針は変わり始めるのである。
島比呂志はこの時期の厚生省の変化を分析、入所者の慢心を戒めている。
「松丘保養園園長荒川厳氏は次のように述べている。 「昭和三十(1955)年には、らい研究協議会が誕生し、らい療養所の医務課長、事務長、入所者などの各研究会が発足し、厚生省は、これらの研究成果より予防法を一八〇度逆方向に空洞化する運営を実施して今日に至ったことは周知の通りである」
現在、患者運動のリーダーたちは、予防法はもう完全に空洞化したとして、これを問題視しょうとはしない。しかし、空洞化したとはいえ、廃止されない限り法は効力を有しているのである。・・・空洞化による自由は、黙認の自由であり、公認の自由ではない」 島比呂志
「逆方向に空洞化」とは、先ず予防法隔離条項を根拠に予算請求する。次いでその予算で処遇改善、入所者を予防法に依存させ、「業界」とらい予防法を守ろうとするものであった。1948年代5階国際らい会議では、患者隔離を無条件で否定、日本のハンセン病政策は、らい会議のたびに世界の批判の的となっていた。欧米の眼差しを極度に意識して始まった隔離政策が、世界の批難の眼差しに晒され続けるいうパラドクスが突きつける問題を、根底的に受け止めるのではなく、逸らせばいいのだという、批判する側が気抜けするような軽薄さがここにはある」 『患者教師・子どもたち・絶対隔離』国土社刊
島比呂志の指摘は正鵠を得ていた。そのことは国家賠償訴訟闘争の困難が証明している。最初のそして最も大きな困難は、予防法に依存せざるを得ないと考える入所者たちの根強い抵抗であった。
そもそも、絶対隔離政策が違憲であるように、子どもの政治活動を禁じた文部省見解が違憲かつ子どもの権利条約違反である。なぜそこに大胆に踏み込めないのか。実は高校紛争の総括に大きな問題がある。それは全共闘系高校生の運動を「民主的」教師が「教師敵論」として退けたことにある。全共闘系高校生の「教師敵論」を正当に要求として取り扱い、場合によっては対等に対話討論批判し協力を模索する。そういう政治性を「民主的」教師は持てなかった。「そんな雰囲気じゃなかった」と関係者は言う。しかしそんな言葉を言う者が、どうして九条擁護を言えるのだ。つまりここで教師たちは一度「政治的」の意味を見失った。
「裏返った、あるいは逆方向の」のという表現を「18歳選挙権」教育や模擬投票に当てはめてみたい。島比呂志の言い回しを借りれば、高校生の政治活動に関する文部省見解が「廃止されない限り18歳のさらには高校生の子どもの自由は、黙認の自由であり、公認の自由ではない」のだ。いやもっと悪い、黙認さえせず公然と否認弾圧処分を仄めかすのだから。主権者あるいは選挙権という言葉が、権力を生み出すものから、権力に従属奉仕するものへとひっくり返る。
権力との関係が全て悪いわけではないという訳知り顔はこの際やめたい。様々な前提の中で初めて成立するものでありその大部分は公開しないという条件付きでなければならない。曾て民間教育団体のいくつかは、政府自民党から蛇蝎のごとく嫌われた。そして嫌われていることを誇った。
危惧すべきことがまだある。模擬投票教育=選挙ごっこにうつつを抜かしている間に、我々が世代を超えた問題として高校生に伝えなければならないことが捨てられたこと。政権はこちらを狙っていた。
模擬投票に気を削がれ、何を捨ててしまったのか。既に開発教育や投資教育など目新しい分野にTuckleしている間にも多くを忘れ捨てて来た。そもそも社会科は時間を奪われ続けてきた。捨てなければ新しいものは入らない。
郭公の「托卵」を思う。模擬投票=18歳選挙権教育は我々の社会科教育という巣箱に仕掛けられた「托卵」ではないか。気が付かぬ間に我々の巣に仕掛けられ育った雛が、我々の卵=社会科を外に追い出し殺している。そればかりか、親鳥=社会科教員は政権が仕掛けた雛を自分の子として育てるのである。Tuckleして。
捨てられた卵こそが主人公である。
捨てられ忘れられたもの。それは、授業の前提としての生徒や若者たちの実態把握である。彼らが何を読み、何を食べ、何に取り憑かれ、何に絶望し、何を語っているのか。どんなところにどんな若者が誰と住み、どんな職業歴、学校歴に苛まれているのか。それらを知らず、一体どんな教育が成り立つのか。
1980年代、教研例会や合宿のレポートに教科実践が減少した。代わって生活指導の実践レポートが増え続けたことがある。中には教室の掃除の分厚い手引きを作ったとか、行事の出席率を高める工夫などもあってウンザリした。この傾向は、70年代から始まっている。教頭法制化は1974年、主任制が始まったのは1975 年。戸山高校の田代三良が「教師の質の低下」を指摘したのも1975 年であった。行政による教師の管理が進むに平行して、制服化や頭髪管理など管理主義が爆発、「教育技術法則化」や「プロ教師の会」に若い教師が「荒れる教室」対策の特効薬を求めて殺到。遂に1990年神戸高塚高校校門圧殺事件を引き起こすに至る。
この時期、一方で教研に集う教師たちは、「楽しい学校、分かる授業」を目指していた。高校がどこでも荒れていた訳ではない。この頃僕の勤務していた王子工高は、制服はなく生徒たちは私服であった。教師たちは定期的に校内で研究会を開き、授業と自治活動の改善に取り組んで、自由な「秩序」も保たれていた。それ故普通高校のベテラン教師までが、リベラルな職員集団と自由な生徒たちを実際に見て、自ら希望して転任してきていた。荒れている学校でもすべての生徒たちが荒れていたわけではない。が、←クリック 全体としては著しく停滞した。教研も例会が成り立たなくなり始め、教師の図書購入額も激減していた。一方管理職試験受験者は増えた。
偏差値が進学に応用されたときも、忘れられたものがる。このことは稿をを改める。
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