何の特技も資格もない者の幸福、それを現憲法は保証している

栄誉の拒否から疎外の克服は始まる
 「今の世の中、特別な資格や特技がない者は、ひたすら長時間労働するしかないんだ」。ある零細企業元経営者の言葉だ。 
 

 長時間労働して死ぬ、そうなってからでは遅い・・・だから、何かに打ち込め。そして特技、学歴、資格、成果・・・を積めと親と教員が青少年を叱咤する。おかげで「特技がない」者は一時的に減る。その分、特技のない者は一層焦る。しかし誰も彼らをその「打ち込める何か、学歴、・・・」故に雇うことを約束も実行もしない。「その方が良いかもしれない」程度に過ぎないのだ。
 藁にもすがる思いで定員割れの大学や専門学校に籍を置けば、学費稼ぎのアルバイトと就職目当ての部活に追われる。それでどうして特技が身につくのか。「特技がない」者は本当に減ったのか、そんなことがあろう筈がない。ただ「特技がない」者のレベルが切り上げられたにすぎない。かつては高卒で十分だった。今や博士課程を終えても相応しい職はない。ちょっと前までは、体操競技の最高難易度は「C」であった。それがウルトラ「C」によって乗り越えられたのが1964年のことで、世間は沸いた。しかし今はそれを軽く越えて「D」でもなく「E」でもなく「スーパーE」でなければ注目されない。ウルトラ「C」が出来たと褒められ煽てられ、それだけに専心して体も心も壊したときには、他の分野に応用が利かなくなる。
 不安に駆られて、中学生でも季節外れには海外遠征して大枚をはたく。それでも不安は募る、同類が余りにも多いからだ。大学を出て更に専門学校に入ってみる、留学する。就活塾に入る。結局はそうして、アドバイザーと用品メーカーを喜ばせ、底辺大学や専門学校の経営を下支えし、不安定収入を悲しむ教員に仮の安らぎを与えるのが関の山。これは蟻地獄でしかない。青少年は蟻ではない。
 大学教師や高校教師そして親のすべきことは、何の特技も無い凡々たる人間が豊に働き生きる社会の実現に向けて、果敢に政府・産業界と渡り合うことである。誰もが特技もなく平凡なまま活躍することを強いられず豊かな生活を享受する社会を、現憲法は約束している。だから教師と親は闘わねばならない。その実現の後に、スポーツや芸術や学問を楽しむのでなければならない。それが学ぶ「権利」である。オリンピック・パラリンピック騒ぎはこれに逆行している。

 冒頭の言葉の元経営者は、実は特技のない人ではない、プレスの優れた技術を持つ職人でもあった。日本の高度成長を担った立役者の一人である。我々が目指すべきは、特殊技能・資格・経歴競争に若者をを追い込み疲弊させることではない筈だ。 やらねばならぬのは、平々凡々たる市民の厳粛な価値を、政財界に認めさせる事である。若い同胞、弱い仲間の困難をともに引き受け闘うという意味での集団性を我々は持てないのだろうか。いつだって、我先に抜け駆けで問題に対処しようとはかる。醜い、美しくない。学問も芸術もスポーツも人と人の連帯=協働によつて生まれるものであって、抜け駆けして実を結ぶものではない。

 この国には、生きた「象徴」がいる。かつては「生きた神」として振る舞っていた。しかし考えてみれば彼らには何ら特技はないのだ。「生きた神」として戦争の先頭に立って神風を吹かせたりはしなかった。弾よけにもならなかった。だから象徴一族に戦死者はいない。「象徴」の身内に凡人のレベルを超える者は一人としていない。象徴一族が特技のない凡人なら、その実体である国民は、極めつけの凡人であって威張れる筈だ。この一族は神でないことがバレても平然としていられる凡人に過ぎない。しかし特権だけは凄まじく保有し続けている。特権の廃止は民主主義の前提である。その「象徴」が退職した。都議会が彼に感謝する決議をした。象徴を大事にするのなら、その実体である国民に対しては幾層倍も感謝すべきではないか。文化的最低限度の生活を皇族並みに切り上げるのが、公僕の議会の使命だ。
 僕は付近の都営霊園を駆け抜ける度、暗澹たる思いに駆られる。真ん中の木々の茂った静かな一角は、小さな家ほどの大きな墓が並ぶ。街道沿いの喧噪で木々のない狭いあたりは、座布団の広さにも満たない小さな墓が犇めいている。死後の永遠に格差は持ち越されるのだ。何故「象徴」が陵と呼ばれる広大な墓を持ち、実体の国民は粗末な片隅に追いやられるのか。どの宗教も如何なる政党もこの醜聞に向き合おうとしない。


  「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大とぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。(・・・)さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。国民経済的状態(資本主義)の中では、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、(対象の)獲得が疎外として、外化として現われる。(・・・)すなわち、労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。(・・・)彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる。(・・・)彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる」         『経済学・哲学草稿』(岩波文庫 P.86-90)

  若者が学力や学歴を上昇させ、大会優勝のメダルを量産するほど彼ら自身は「それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる
 学歴やメダルを期待され、それを約束して地位を得ることは、自由な人間であることを放棄して「商品」になったことを意味するのである。)「彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる」。・・・

 「彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる
  コンビニ本部の労働者がコンビニの機能を文明化すればするほど、本部の労働者はコンビニ加盟店経営者に対して野蛮になり過労死に涙を流そうともしない。扱う商品が増えそれをこなせばこなすだけ働く者は無力になる。
 その予行演習を学校や教室が、行事や授業でやって見せて教委の歓心を買う程の堕落はない。

  僕の妻は中学生の頃オリンピック強化選手の末席に選ばれていたから、「金色」や「銀色」のメダルを沢山もっていた。(大会の度に痩せる程の緊張をして、好きなことも諦めた。彼女はそれを「自分に克つ」ことだと思っていた。そうやって量産したメダルの山であった)。ある時にふと気が付いて、親戚の子どもや友達の子どもが来る度にあげてしまって今は一つもない。それで何の不都合もない。メダルがあったところには、彼女の描いた絵がかけてある。
  子どもたちがお土産に喜んで持ち帰ったメダルは、いつの間にかゴミになって捨てられたかも知れない、それでいいのだ。メダルは、彼女を隷属させた組織と思想への屈服を表すものでしかない。こうして「勝利至上主義」という疎外を乗り越えたのだ。
 彼女がスポーツを通して獲得した健康な体と弱者に対する優しい心は、何時までも彼女とともにある。

  「労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである

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