何も選べない「主権者」/ 「彼ら」は投票に行かない

小学校給食でさえ、いろいろに選べる国は少なくない
 「彼ら」は投票に行かない。低い投票率で笑うのは、政権を握っている輩である。何の意思も示さないのは現状満足していると嘯ける。選挙とは「選び、挙げる」行為である。「彼ら」は一体何を選べただろうか。
 大正時代、小学生が「先生を返せ、担任を変えろ」と郡役所にデモをかけたことがある(官憲による思想弾圧で追放された担任を取り戻すべく子どもたちは田舎道を延々と歩いた)。児童会のない時代こそ子どもは、自覚的であったのではないか。路地が保育園代わりで放課後の遊び場だった頃、「~してはいけません」という丁寧な「指導」はあろう筈もなく、子どもたちが話し合い調整せねばならなかった。大人は生活に忙しかったからだ。
 児童会や生徒会がある今、子どもは何を選び調整できるのか。生徒会選挙で「入試を廃止運動をやろう」や「体罰を止めさせよう」や「給食が不味い」が掲げられた験しがあるか。いつも「頑張ります」「もっと頑張ります」「いつも頑張ります」などとしか言えない。そんな候補の何を選べるのだ。

 選択肢を示さずに当選した生徒会役員は、公約通り頑張るしかない。それはどう足掻いても現状維持かその拡大・強化に他ならない。
せいぜい今週の目標作りに張り切って「掃除コンテスト」をやる。遅刻絶滅キャンペーンをたすき掛けで呼びかける。「頑張りメダル」を画用紙とクレヨンで作り配るのが関の山だ。僅かな予算の文化際も、ポスターの大きさや数と掲示場所の制限と取り締まりに奔走し、会計の手続きや書式が役所並に細かくなるのも、生徒会行事の開会式が大げさになり挨拶が長くなるのも「頑張る」以外にすることがないからだ。「偏差値教育を止めろ」とか「入試廃止運動を始めよう」などとは想像すらしない。

 給食もお仕着せで、好みや体調に合わせて選択・調整出来ない。服装さえ選べない。冬服から夏服へ変えるのも日付に従う。子どもに必要な物を、最もよい方法で提供するのが大人の仕事との言い方が好まれる。騙されてはならない、それはパターナリズム、体罰とパワハラとDVの温床である。


 学校選択の自由があるのは、最も偏差値の高い者だけ。下に行くほど自由度はなくなる。一番低ければ選択の余地はない。しかし実際は成績が良くても選択はしない。偏差値が僅かに低いだけで魅力的な学校があったとしても、僅か「1」の差が勿体なくて偏差値通りに進学してしまう。適性や好みの入る余地は殆どない。むしろ偏差値に合わせた適性に自らはまりこむ。
 
 「彼ら」は就職でも選択の余地はない。時給の低い不安定労働を割り当てられる。

 食事や宿泊さえ殆ど選べない、金がないからだ。定食を頼んでも、スープや主菜やデザートや飲み物をいちいち選ぶ必要がある。弁当屋でも沢山の惣菜の中から好みのものを選ぶ、主食の種類や量も。日本では店が予め組み合わせたものの中から見つけるしかない。hotelや旅館に泊まっても、二食付きが原則で素泊まりは嫌われる。選択調整の余地は狭い。むしろ選択出来ない完璧さが親切とさえ考えている。

 結婚さえ、自由な恋愛によるものは絶無に近い。家柄や収入・学歴・容姿を組み合わせ、疑似偏差値化して幻の「最適」を期待する。

 宗教も選ぶことからは隔絶している。布施も出来ない弱者者を歓迎する宗教はないからだ、弱者を庇護する活動を見せて富める者からの寄進を募ることはあっても。
 政党も自由に選べない、近付くのも避ける。せっかく得た仕事や仲間を失う危険性を臆病に懸念する。

 日常の絶えざる選択の経験が、個人の決意を形成する。子ども時分から大人になるまで、何も選べない境遇にあった者が、与えられたお仕着せに流され続けた者が、現状維持以外の選択に踏み切るだろうか。そんなに簡単なことなら「主権者」教育は要らない。

 入学や就職面接でも要求などせず、面接「官」の顔色を窺いながらただ「迷惑をかけずに頑張ります」と言う。それ以外にどんな手があるのだ。雇い主から「この人をよろしく頼むよ」と紹介された候補に票を入れることが、仕事を守ることになると考えるのを愚かと言えるだろうか。

 小さくとも「現実」を変える経験を、子どもの頃から積み重ねる必要がある。小さいが「模擬」ではない現実を変えて初めて「主権者」としての自覚は生まれる。大正の子どもに出来たことが、「主権者」と位置づけられた時代の子どもに出来ない筈はない。1972年の内申書裁判は大きな問題提起をした。その経験が、学ぶ機会を剥奪された若者を闘う国会議員・自治体首長にした。


 「分からない」授業を続ける教師の試験をボイコットする、抗議書を代表を立てて読み上げる。制服を強制する修学旅行には参加しないと結束、学年で授業を放棄して座り込む。体罰教師を友達と何処までも追い詰める。文化際の準備で泊まり込みを認めろと、教頭を吊し上げる。これらを快挙と賞賛する神経を教師は持ちたい。・・・(これはみな、僕が受け持った生徒たちが自ら行動してみせたことだ。いずれも平凡な謂わば「中間層」の生徒たちの行動であった。そこが大事なことだと僕は考えている。各種の大会で勝ち進みメダルをもたらすより、幾層倍も価値がある)
 こんな行動には、憲法上の根拠があることを社会科教師は伝える義務がある。

 憲法は上から目線で諭すようにするものではない。生活と権利を守るために、ともに使いともに学ぶものである。ブルデューがネクタイを捨てて闘争の現場に出かけ、例えば無人ビルの占拠をつつける人々に「あなた方の行為には根拠がある」と励まし続けたように。
  その経験が積み重ねられて、投票に決意を以て臨む人々が増える。
 
時間がかかるだろう。なぜなら、日本では国家自体が、「主権」を知らず国民のための政策を自ら選択調整出来ないからである。例えば金利政策をこの国は、もう長く自主判断してない。それ故銀行は金利さえ任意には決められず、国情に相応しい事業を展開出来ない。だから、スルガ銀行のようにヤクザ並みの事業に活路を見出すしかなくなる。膨大な被害者を生み出す仕組みを「新しい事業モデル」と強弁してきた。日銀までが国民の資産に手を付けて株価操作に狂奔する。あらゆる判断・選択を封じられた少年たちの一部は僅かな隙間に「希望」を見て、暴走やヘイト言説を繰り返すのだ。議員中にさえその種の言動をして、マスコミに売り込む。自主的な外交政策を展開出来ないから、金をばらまき、武器を蓄え周囲の国々をあしざまに罵る。こうした愚策には大戦で懲りて痛切に学ばなければならなかった。
 あるとき、クラスの生徒がやって来て面白いことを言った。一人は「高校に入ったらぐれちゃおうと思った」←クリック    もう一人は「突っ張るのって疲れるのよ」←クリック と。
 
 自由な主張や個性と自分らしい判断や選択を封じられた若者がどのように感じ行動するのかを、二人は見事に語っている。

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