偏差値導入が消したこと

 僕が中1の一学期に見た生徒会中央委員会。3年生(団塊の世代最初の学年)は、学校や教師を斜に見ていた。少なくとも「指導」を仰ぐ対象とは見ていなかった。←クリック
 秋には廊下の天井下蟻壁に掲示された模擬試験結果一覧(見やすい書体で墨書されていた。僕は同じ形式の掲示を、後年予備校で見た。全く同じ書体であった)を、剥ぎ取り破り捨てる3年生を知った。一覧にはクラス・名前・受験希望校名が書かれてあった。僕の記憶にあるのは、希望校名に、人気の無い学校や全く知られていない学校名前が幾つもあったことだ。
 「あれは嫌がらせらしいよ、一番入りやすい学校名を書いて先生を困らせてるんだって」と教えてくれたのは、PTA役員の子どもだった。なるほど、模擬試験で集めたデーターで「業者」は高校をランク付けし、受験結果と照らし合わせて売りにしていたのだ。だから受験先にデタラメを書けば、データーの信頼性は台無しになるのだった。

 成績のいい坊ちゃんたちも、怒りと悲しみをない交ぜにして、迫り来る偏差値受験体制に反抗していたのだ(1968年からの大学闘争は、
僅か6年後であった。このときの経験と気持ちが下敷きになったと考えている。)「ぼやぼや見てないで、お前たちも剥がせ」と言いながら、3年生は助走してはジャンプを繰り返し全部剥がしてしまった。上品で成績の良い連中と貧しく成績のさえない者たちと歌舞伎町の子どもたちは、共通の感情と言葉を辛うじて持ち合わせていた。それ故朝日や毎日も、貧困や差別の問題を読み込み紙面を構成することが出来た。政治家も広い視野と深い感性を選挙で表明出来たのだ。従って投票率は低くならなかった。
 不思議だったのは、誰もが先生たちの雷を予想していたのに、何もなかったことだ。多分教師や保護者の間でも、模擬テストとその結果の掲示には意見の対立があったのだと思う。模擬試験はそれを限りに、希望者だけが学校外で受けることになった。
 僕ら(団塊の世代三年目)は既に小学生高学年から、受験体制に飲み込まれ始めていたせいだろう、
3年生より行儀が良く、受験体制に違和感を持たなくなり始めていた。中学生になると成績に異常に神経質になり、試験が迫るたびに下痢をする者や寝不足のせいで顔が青白くなる者が増えた。
 しかし、通信簿が殆ど「1」の連中は、全く動じなかった。点数を取ることに興味がないのだ。出来ないから「1」だったのではない、天真爛漫に零点を取った。そして就職先はきちんとあった。新路指導は余程まともだった。成績が振るわなくとも、成績に悩まされずに済んだ。
 だから「荒れ」も、「いじめ」も自殺に結びつくほど深刻ではなかった。まだ僕らは、互いに平等を基本に繋がることが出来ていた。巨大企業社長の孫からスラムの子まで同じ学校に通い、一緒に遊ぶことが出来た。
 いまや少年たちの関係は「格差」が基本になった。豊かな大人が貧乏人と飲む機会を持て無いように、もはや階層を超えて友達は出来ない。だって住むところも言葉も違ってしまったのだから、平等な仲間としての遊びからは遠ざかり、「荒れ」や「いじめ」を自力で調整する能力も機会も失っている。偏差値は、少年のそして社会の自治能力を破壊したのである。
 四谷二中が「越境入学」禁止の通達で、急激に凋落すると、この中学の名は暴走族の間で有名になった。 越境通学生が消えると同時に、学区内の優等生たちも私立に流れ、多様な二中は忽ち瓦解したのである。
 軽薄で便利な数値=偏差値は、ひとり一人の質的な違いをせせら笑いながら「ひと」を無神経に序列化したのだ。序列されれば、少年たちは進路を自由に選択出来ない。工業科も農業科も建前上の役割(例えば~社会の「中核」技術者養成)をとうの昔から担っていない。「中核」技術者は大卒や修士課程修了者が担っている。工業高校の役割は、格差を少年たちに分かりやすく受け容れさせる為だけに存在している。

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