「一人でやれよ」は誰が誰に向かって何を言うことか

“天皇メッセージ” – 沖縄県公文書館
 川崎市多摩区の私立小学校生ら2人を殺害し、18人に重軽傷を負わせた51歳の容疑者について、「子どもを巻き込まずに、1人で死ねばいい」といった趣旨の発言が相次いだ。ある番組では司会進行役の女性が
 「社会に不満を持つ犯人像であれば・・・すべてを敵に回して死んでいくわけですよね。自分1人で自分の命を絶てばすむことじゃないですか」  と言い。意見番の弁護士も
 「・・・死にたいなら1人で死ねよ、と言いたくなりますよね」と発言した。社会的弱者を叩くのは楽だからだ。しかしこの時は、こうした発言への批判が相次いだ。珍しい事だった。

 五輪招致である女性タレントが「東京は皆様をユニークにお迎えします。日本語ではそれを「おもてなし」という一語で表現できます。 それは見返りを求めないホスピタリティの精神、それは先祖代々受け継がれながら、日本の超現代的な文化にも深く根付いています。「おもてなし」という言葉は、なぜ日本人が互いに助け合い、お迎えするお客さまのことを大切にするかを示しています
 

 「東京は・・・」ではなく「私は・・・」だろう。他人の財布に勝手に手を突っ込んで、おもてなしとは盗人猛々しい
 社会的弱者に向かっては、tv番組などが「1人で死ねよ」とは言う。しかし、売れっ子に向かって、おもてなしは「自前で、一人でやれよ」と言う者はメディアにはいない。おかげでコンパクトな筈の大会予算は膨大に膨れ上がった。メイン会場の建設費は、過去五回分の五輪大会メイン会場建設費を上回ってしまった。

 東南アジアからの技能実習生への、冷酷極まりない仕打ちが頻発している。これは一体何処の国の誰の仕業なのか。

 「見返りを求めないホスピタリティの精神、それは先祖代々受け継がれながら、日本の超現代的な文化にも深く根付いています」が嘘っぱちであることを白状しているのだ。  弱い立場にある者には冷酷残忍で、名も地位もある者には他人の金を充てて追従する、それが「先祖代々受け継がれながら、・・・深く根付いてい」る。

 ある新興宗教の二代目がこう発言したことがある。「天皇陛下を大事に思うし、願わくば、天皇陛下に、私一生涯のうちにりっぱな宮殿を日本じゅうの総意で、ご普請して差し上げようかしいう心ももっております」戸田城聖『全集第二巻』
 宮殿を建ててやりたいと思っているなら、個人と仲間で勝手にやればいい。他人を巻き込んでいい顔をしたがる。

 他人の懐に手を突っ込む事を、「公」の権能と考えているのだとすれば、これらはすべてファシズムである。

 昭和天皇は、1947年9月「天皇メッセージ」で沖縄を米軍基地に献上してしまった。「天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる」として、米国による琉球諸島の軍事占領の継続を勝手に、しかも秘密裏に提案したのだった。日本国民の賛同を勝手に判断する神経、沖縄県民の意思をなきもののごとく扱う神経。しかもこれは「人間宣言」(1946年1月1日)の後のことだ。
 自らの神性を否定して、99条に縛られて憲法擁護の義務を負う存在になった筈だ。であれば天皇の行いうる国事行為を根本的に逸脱している。彼は、一人でやれることをマッカーサーに進言すべきであった。例えば東宮御所や皇居を特殊慰安施設(
Recreation and Amusement Association) として皇族とともに提供するなど。
 

 辺見庸は最近のblog でこう書いている。
 彼のひとは45年8月15日まっさきに自裁すべきであった
唯一の選択肢はそれであった。それ以外にはなかった。ないしは爾後いっさい発声せず、まして、ぬけぬけと姿をみせるべきではなかった。彼のひとは沈黙の狂人としてのみ生をまっとうすべきであった。
 NHKにいま、世にも恥ずべき「満鉄外史」の朗読をゆるしているもの・・・。亡霊たちの復活と醜悪な踊り。
 彼のひとは45年8月15日まっさきに自裁すべきであった。父祖らはなんとしてもそう迫るべきであった。
  2019年06月10日

0 件のコメント:

コメントを投稿

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...