敗戦後、混乱もなく占領軍の進駐が行われたのは何故か

 敗戦後、混乱もなく占領軍の進駐が行われたのは何故か、直前まで徹底抗戦を叫んでいたのではないか。合点がいかない。渡辺清『砕かれた神』(この手記は天皇のために死を覚悟した戦艦「武蔵」乗り組みの少年兵渡辺清によって書かれ、敗戦直後の9月2日から始まる)にこんな逸話がある。
 「マニラの女性はしっかりしていた。スカートの内にピストルをひそませて日本兵を狙っていたものだ。レイテ沖海戦後、おれたちは内地行きの便船を待って、半月ほどマニラ市内にとどまっていたが、その時も、日中でも物騒で一人歩きはできないほどだった。通りがかりにさりげなく寄ってきてズドンとやるからだ。売春婦に化けた女学生が兵隊を部屋に誘いいれておいて殺すという話も聞いた。しかもそれは欲得からではなく「抗日」とフィリピンの独立のためだったという。・・・今になってみるとその志の高さにうたれる。立派だったと思う。むろんそれはフィリピン女性のうちでもごく僅かだったにちがいないが、おれはマニラにいる間、フィリピン女性が日本兵といっしょにくっついて歩いている姿を一度も見かけたことはなかった。1946年3月19日


 米兵に大和撫子が誘拐され数十人に輪姦される事件が相次いでも、日本政府による米軍専用の特殊慰安施設が賑わっても、大和撫子を守れと覚悟の突撃する者は誰一人いなかった(敗戦僅か3日目に戦後第1号の内務省通達が出る。さすが日本の官憲は「優秀」である。米軍専用売春宿設置命令であった)竹槍攻撃による一億総玉砕を
裏声で叫んでいた若い将校は、忽ち闇米の担ぎ屋に変身。進駐軍に特攻をかける軍人もなかった。

 他人をけしかける怒声だけの軽薄な人間が議員や役職に祭り上げられる、しかしいざ自分が実行する段になると途端に意気地がない。そんな恥ずかしい文化が、何十年も我々に蔓延しているのだろうか。会社でも大学のサークルでも職員会議でも、冷静な分析と健全な懐疑精神による議論を鬱陶しがる。そそっかしく短兵急な振る舞いを有り難がるのは、共同体が急激に壊れたからだと僕は考えている。長い時間の経過と環境の変化の中で、人を評価する「遅い」時間の流れに耐えられないからだ。辛うじて残り弱々しく再生しかけた共同体も壊れ続けている。

 日本軍のインドネシア占領統治が比較的うまくいったのは、オランダ軍による苛烈な支配が先行していたためであるという言い方がある。
 被占領後の無抵抗振りは、米進駐以前の日本が日本軍に占領されていたのだとでも考えなければ説明しにくい。内務官僚、司法官憲、初中等教員らの意識は、軍人化して見苦しく傲慢であった。民間組織までが「報国会」じみて険悪な顔、暴力的振る舞い言葉遣いになっていた事が、様々な「戦中日記」からもよく分かる。むしろ町内会役員のほうが、権威をかさに横柄であったらしい。
 権限を持たない故に軍人以上にfanatic=狂信的にならざるをえない疑似軍人に、日本は日常を占領されていた。それ故、私生活に踏み込まない占領軍、敬礼を強制しない、物資横領をしない、竹槍訓練で玉砕を絶叫しない、天皇を神扱いしない米軍は、民衆にとって「歓迎」であった。チョコレートや缶詰はくれるし、鬼畜の顔をしていない彼らはやさしく笑う。政治犯は解放する。共産党が「解放軍」と見誤ったのも無理はない。そのうち、京都や奈良を空襲しなかったのは米軍関係者の配慮らしいとのデマ=「ウォーナー伝説」(ウォーナー自身が明確に否定している)までがまことしやかに伝わり、感謝の石碑が各地に造られ現存する。

 戦中も敗戦後もそして未だに、小学校も大学も、デマに依存し翻弄される精神構造がある。実に率爾である、そそっかしくて危うい。京都空襲は実際にはあったが大空襲がなかったのは、大空襲の優先度が低かったために他ならない。人口が多く、軍需工業の拠点が優先されたからである。京都の大空襲は間近に迫っていたのが事実である。

記 初め二万人だった特殊慰安施設特別女子従業員は五万人を突破。朝鮮人女性は一人もいない。女性を集める費用や施設費は概算で五千万円と見積られ、この金は大蔵省斡旋で、勧銀が三千三百万円を無担保で融資した。当時の三千万円は現在の五百億円と言われる。

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