Sports playerやサラリーマンを「サムライ」と言うな。サムライは身分、民主主義とは相容れない。

妄想を肥大させた者たちの責任は計り知れない
 首席公僕たる首相は 2019年2月28日の衆議院予算委員会で、長妻昭議員の「統計問題を甘くみない方がいい。扱いによっては国家の危機になりかねない、という認識はあるのか」との質問に「いま、長妻委員は国家の危機かどうか聞いたが、私が国家ですよ。」 と答えている。
 恐るべき感覚である。良識のある人間ならば到底発想し得ない。
 『チャップリンの独裁者』では、独裁者・ヒンケルが側近の唆しや煽てに「よせ! 自分が恐くなる」と言いながら、風船の地球儀を弄ぶ場面がある。如何に独裁者の「妄想」は作られるか示した秀逸な場面だと思う。
 「私が国家ですよ」とまで妄想を逞しくしたのは、 『チャップリンの独裁者』とおだて同じく側近の煽てと唆しである。日本のマスコミと御用文化人の責任は、限りなく重い。
    ゲッペルスはこう言っている。ナチスに「国民が自分の方から委任してきたのだ。・・・つまり、自業自得だ」
 

  自らを奮い立たせるために、まじない言葉「サムライ」を自らの集団に冠するのは、国家と政権の「妄想」を膨らませるだけだ。
 2016年2月16日の衆院予算委員会で、副総理が「ナチスの手口に学んだらどうかね」と口を滑らせたことがある。妄想は既に相当深い。

 ドイツ敗戦間近い1945年3月、ヒトラーは自国の「焦土作戦」を命じ国民に自力での退避まで強制している。選んだのはお前たちだ、道連れにしてやると言うわけだ。
 

 政権首脳は公僕たる立場を忘却し「私が国家」との「妄想」に酔い、サムライたちはメダルで自らを大衆から隔離し、特権的「身分」に酔う。「サムライ・日本」に酔っている限り、職場やグランドから体罰やパワハラが克服されることはない。何故なら「サムライ」内部も身分的文化が支配する世界だからだ。
 その帰結の責任は軽い筈はない。我々が良識に基づいて、仮令国家を裏切ってでも公正に判断できるのは、民主主義を信じるからである。←クリック

 若者も国民も、「未成熟のままに留」められ、そして、なんでも日本が一番の番組に煽られてのぼせ上った幼稚な顔をしている。「聴き、読み、見ることを許され」報道後進国日本の有様を知ろうともしない「自由を実行することを許された経験を持」たないことに怒りも不満も持てない。
 「未成熟こそが、ナチス・ドイツの一般大衆の顕著な特徴」であったことに、僕らは僕らの現在を重ねて、警句とする必要がある。 カッコいい幼稚さに彩られた部活や行事、硬い幼稚さに封じ込められ批判精神を禁じられた主権者教育。それらが目指すのは、操作しやすい大衆である。目指しているのではなく、おおよそ実現しているというべきか。
 幻想や「陶酔などによって」ではなく「平凡な仕事によって表現する」生き方を獲得したい。
  

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