適材適所ってなんだ
障碍あるplayerが、メダルを囓る様子をTVや新聞で持ち上げることが共生社会だろうか。 成果や取り柄有る無しに関わりなく、互いに日常の繫がりが見える仕組みが行き渡ることではないか。例えば普通高校にも聾唖者などの障碍者が在籍し共に学べることを考えてみる。授業中は級友の誰かが手助けをする、面倒かもしれない。部活もたいへんだ、試合どころではなくなるかもしれない。それを喜んで受け入れ生活の欠かせない部分とすることが共生だ。
小学生の頃、四丁目に「たけちゃん」がいた。知恵遅れで中学生ぐらい、修学免除だった。学校が終わる頃、たけちゃんが校門近くの路地の突き当たりで待っていることがあった。僕たちは彼と三角ベースをよくやった。たけちゃんは何をやってもOKの特別ルールだった。路地の突き当たりを裏に抜けると、たけちゃんのうち。大きな酒屋だった。遊びに飽きると、たけちゃんは僕らを店に誘った。前掛け姿の叔父さんがニコニコしながら出てきて、「たけと遊んでくれてありがとう」と店のアイスキャンディをくれた。
それから20年後、僕は妻と四丁目に行ったついでにたけちゃんの店に寄った。たけちゃんは留守だったが、叔父さんは僕たちを覚えていた。ちょうど秋祭りで「神輿の接待所にいるよ。今、たけは町内会の副会長だよ」と言うではないか。僕たちは大通りに急いだ。神輿を置いたテントの奥の座敷に正座していたたけちゃんは、見事な副会長振りだかった。挨拶に来た人たちに「本日は遠いところをお越し下さいまして有り難うございます」と満面の笑顔で挨拶をしながら、お茶の接待をしている。紋付きを着こなした動作は、堂々たるものだった。僕らを見ると、妻を覚えていて「やあ、由美ちゃん。こちらへどうぞ」と声をかけてくれた。
適材適所とはこのことである。町内会という排他競争的教育体系から切り離された小さな共同体←クリックが、生きて機能していたから可能なことだ。
校長も教育委員も文科大臣も首相も競争の「恩恵」だけは被っている。が、適材とは千歩譲っても言えない輩ばかりだ。飛び切り無能な者が、よりによって校長や首相にのし上がるのは、組織が巨大化一人一人の人物像が不明瞭になると共に操作可能になったからだ。操作は今や巨大資本広告代理店の独壇場だ。余程の愚者でなければ、はずかしくて跋扈出来ない。
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