多数決とコンセンサス 続き

 コンセンサス作りを画策する必要すらないこともある。←クリック  

  みんなの「思い」を結集しようとの雰囲気が、絶妙の時機を選んで形成された長い一瞬だった。担任の「思い」としての授業も潰さないという気の使いよう。彼らは合意作りに時間もエネルギも費やした。
 多数決では他者の意見も能力も勘案しないが、長い合意作りは、次第に自他を深く認識してみんなを尊重せずにおれない気持ちを生むのだと思う。学校に背を向けている級友の思いを探り生かす工夫を凝らしたりもしていた。


 僕は、Iさんの表情が忘れられない。彼女は劇の台本にも配役にも道具にも関わらなかったのだが、嬉しげに毎日の練習や準備を熱心に見ていた。あんなに見つめられたら手を抜けない。僕は観客の役割ということを考えざるを得なかった。

 それは授業に於ける観客としての生徒の役割に通じている。   発言するでもなく、手を挙げるわけでもない、眼差し以外聴く耳以外にアクチブなものはない。しかし彼女の役割は決して小さくはないのだ。確実に演者に熟考を促す。もし演者=教師の感性が鈍感ならばその意義に気付かないに違いない。

 教師も授業に於ける教室のコンセンサスを如何に形成するかに、日々神経をすり減らす必要がある。アクチブな生徒に依存してはならない。ましてや特定の理論や方法に基づいて生徒を類別するなどもってのほか。無反応な、寝ているような生徒も、教室の主権者として同格なのだ。

 追記 「突っ張るのって疲れるのよ」 何もしないという作為」←クリック
にも書いたが、「教室のコンセンサスを如何に形成するかに、日々神経をすり減らす」とは、何もしないことをすることに尽きる。実際は、学年会や職員会議での非難攻撃で胃を痛める。そして「何もしない教師」というレッテルが張り重ねられる。

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