「・・・Iさんの表情が忘れられない。彼女は劇の台本にも配役にも道具にも関わらなかったのだが、嬉しげに毎日の練習や準備を熱心に見ていた。あんなに見つめられたら手を抜けない。僕は観客の役割ということを考えざるを得なかった。それは授業に於ける生徒の役割に通じている。 発言するでもなく、手を挙げるわけでもない、眼差しと聴く耳だけがアクチブな生徒は少なくない。しかし彼女のその場に於ける役割は、決して小さくはない。静かであってもその表情は確実に演者に熟考を促す。もし演者=教師の感性が鈍感ならばその意義に気付かないに違いない。」
メアリー・カサット( 1844- 1926)
僕はblog「多数決とコンセンサス 続き」にそう書いた。
オンライン授業は「眼差し」・「聴く耳」を持たない。見つめる眼差しや聴く耳の一途さを察知できない。オンラインで話す者とみる者の眼差しは、機構上一致しない。モニターのカメラはモニターの外部にある。聴講生が画面の話者に焦点を当てれば、話者の画面では眼差しはズレる。互いの眼差しが一致して初めて、同意や同感の「うなづき」は生まれる。異議を唱える表情も眼差しが一致していてこそ、鋭いメッセージとなる。
独学の画家メアリー・カサットが描いた一連の母子像はそれを雄弁に語っている。
「一致しない眼差し」をcomputer技術は「克服」するだろうか。モニターの真ん中に見えないカメラを置くか。あるいは眼差しを仮想的に演じる助手を聴講生の中に仕込むか。・・・
今既にオンライン授業システムを通じ個人データーを盗んだ詐欺事件が頻発し始めている。それを防止するシステムも登場し、やがて膨大な手続きや仕組みが有料で組み込まれるだろう。オンライン授業は、今のうちにやめておくべきだと思う。
人類が「対話」を初めて何十万年だろうか。永い時がヒトの眼差しを絶妙な手段に高めた筈だ。その生の眼差しに勝るものはない。たとえ赤ん坊であっても、苦もなくこなせる眼差しは我々人類に組み込まれている。
「やがて電力料金は二円になる」と聞く者を惑わして始まった原発が、手のつけようのない事故や災害に見舞われ想像を絶するコストを生んでいるように、安全で絶妙な「オンライン授業」は高くつく。膨大なコストは、それ自体が巨大な利権となる。あらゆる利権は「聖域」化して批判を寄せ付けなくなる。
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