「象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に 浮べれば」・・・


 詩人西條八十は、詩に専念したいと願いながら 生活苦のために株取引に明け暮れていた。
 貧乏は人をその人の望む仕事から遠ざける。芸能人は演劇などの芸に専念出来ないため、生活のためCMで笑顔を振りまかざるを得ない。まるで商品の奴隷だ。

 日本の医師は、病院経営と外来患者数の多さに追われて医療に専念出来ない(人口1,000人あたりの医師数:日本2.0、独仏3.4、米2.3 //・医師一人当たりの外来患者数:日本8421、米2222、OECD平均2400)
  日本の教師は労働時間は世界的に見てダントツに長いが、授業に専念する時間は短い。雑務や部活に追われるからだ。
 日本の親は仕事と通勤に時間をとられ、子どもの世話や社会活動と睡眠時間を削り誇りを持てない。
 
 みんな「唄」を、誇りを忘れている。忘れさせられている。睡眠時間を削られた者は、考えられなくなる。だから短く他人を他人を揶揄するメッセージが飛び交う。
 
唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は/ 後の山に 棄てましょか / いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は / 背戸の小薮に 埋けましょか / いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は / 柳の鞭で ぶちましょか / いえ いえ それはかわいそう

唄を忘れた 金糸雀は / 象牙の船に 銀の櫂 / 月夜の海に 浮べれば / 忘れた唄を おもいだす

 『かなりあ』は1918年(大正7年)の『赤い鳥』に掲載された。

唄を忘れた 金糸雀は
象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に 浮べれば
忘れた唄を おもいだす

 唄を忘れた者のために必要なことが、金糸雀に託して描かれている。誰もが好きで得意なことに専念出来れば、子どもも少年も、忘れた唄=学びを思い出す。医師が治療に、教師が授業に、働く親が子育てに専念する制度を作るのが行政である。国公立大学・研究機関や病院の「法人化」はこれに逆行している。行政の役割まで営利企業に丸投げする有様だ。

 高校生の「荒れ」を「異議申し立て」として受け入れるとは、「象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に 浮べれば」とは最高の教育を最善の環境で保証することだ。

 遅刻三回で自主退学させ(後の山に棄て)たり、茶髪の生徒を追い返し(小薮に埋け)たり、些細なことで体罰を受け(鞭でぶっ)たりを、人間の学校は何十年やり続けてきたのか、いつまで続けるのだろうか。少年法体系は厳罰化が止まらないし、投資教育で資本の餌食にされるのを自己責任や契約と呼ぶ始末だ。諦めを弱者の新しい道徳と言うつもりか。強い者への規制は取り払われる。

 泥の船に 氷の櫂 吹雪の闇夜に 働く者を流しているのが日本。象牙の船に 銀の櫂で 月夜の海に宴をはるのは
嘘で政権を握るものたちだ。
  最高の教育を最善の環境で、唄を忘れた子どもに保証するにとは、すべての特権を公教育から排除しなければならない。これが民主主義の前提の筈。


   1918年(大正7年)は祖父母たちが、父や母を産み育てた頃だ。母や叔母の小学校時代の写真は「赤い鳥」の表紙そっくり。色褪せた児童雑誌「赤い鳥」もSP判レコード「かなりや」が戦後も残っていた。
  学校が少年たちに、現人神のため命を捨てることを「名誉」と考えさせるようになるのに僅か20年。
 今日本は原爆を落とした国の言わば「奴隷」、自立した国家としての誇りを捨てている。

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