王様に貰ったミカン

 深酒して終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは一瞬呆然の後生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を超した勤労青少年達。彼らは笑いながら仲居さんに「ねえちゃん、ビールと刺身」と注文していた。


  学校教育とは何か・・・教室とは・・・

 転校してきた生徒から電話があった。
 「先生、夜分大変失礼いたします。しばらくよろしいでしょうか。実は先日相談申し上げた受験の件で又御指導をお願いしたいのです。・・・〇〇大学の△△教授を先生は御存知ですか。大変な評判だそうですね。・・・やはり考古学
を専攻するには〇〇大学だと思うのですがどうでしょうか。・・・そのためには日本史は山川の・・・数学は大学への数学を毎月とって・・・もちろん朝日の天声人語は・・・永々とおじゃましました。では明日又お目に掛ります。おやすみなさい。失礼します」
 受験と大学そして事件と人物についての彼の知識に僕は舌を巻くばかりだった。余りの敬語の正しさに、寝そべって電話の相手をしていた僕はいつの間にか正座をしていた。

 だが彼は、学校では誰とも話さなかった。三菱のユニをケースごと並べ、その一本を手に握り、ノートをにらんだまま終了のチャイムを待つ。それが彼にとっての授業であった。
 重たいズックのカバン、中には古語辞典や英和辞典がいつも入っていた。それを右手にぶら下げ、小股でセカセカと背中を丸めて歩く。追いついて「一緒に行こう」と言っても、
「はぁ・・・失礼します」と先に行ってしまう。
 いつも同じ道の同じ場所を同じ姿勢で歩く。横断する場所、歩道から車道へおりる場所すべてが決っている。歩道に車が乗り上げて駐車していると、車の前でしばらく足踏みを続け汗ビッショリになる。やがて観念したように迂回するのだった。自転車は「危いので絶対いけない」と決っしてうけつけなかった。
 校内ですれ違う時は必ず立ち止まり、直立不動の姿勢をとってから、深々と頑を下げた。滅多になかったが、遅刻すると、まるで面接試験でも受けるかのように、静かに戸を開け、一礼してから両手で閉め、教卓の前まで来て深々とお辞儀をし、十人に満たない生徒には広すぎる教室の隅の彼が決めた指定席に陣取るのだった。
 ノートは受験に良いと分厚い大学ノートを使い、科目ごとにサブノート、問題集を毎日揃えて持って来ていた。だがそれが開かれるのを僕は見た事がない。「受験に良い」と彼が言ったのは電話を通してである。
 給食の食堂でも彼はいつも一人だけ離れた指定席、表情を変えず黙々と食べた。僕は彼の前や横に座った。
 「一緒に食べよう」「いいだろう」「慣れたかい」と話しかけるが、「ハァ」というだけ。食べ終るや立ち上がり一礼、教室の指定席に戻り、いつまでも同じ姿勢ですわり続けた。

 「俺たちあいつに嫌われてるのかね、先生」とその場に残された勤労青少年は呟いた。
 夏の暑苦しい夜には、僕は授業を潰してソフトボールをした。青少年は仕事の疲れを忘れて走り回った。
 小太りの「王様」は走る姿勢はとるが、足が動かない。球をグラブで掴めない、球の飛ぶコースにグラブを持って来る前に、球は「王様」の胸や顔面にあたった。バレーボールを使ってのドッジボールをすれば、ボールはつかむ前に「王様」の体を直撃するのだった。茫然、しかし誰も笑わなかった。下校時刻も正確に決めていて、文化祭の準備があろうと、掃除があろうと、「失礼します」のお辞儀とともに風の如く去った。誰も怒らなかった。

 二十をこえた青年や零細工場労働者・白髪の定年退職者の混じる教室で、僕は「指導」という概念を疑い始めていた。だが、「王様」を見るにつけ、対策・研究・理解、という言葉を思わずにはおれなかった。当時、鍼黙児という文字が現れ始めた。多くは幼児に関するものであったが、様々の実践を読み、役所や研究機関に足を運んだが、図書館や資料室の貸し出しカードがたまるばかり。

 平日の午後、家庭訪問した。彼は茶の間のコタツに足を突っ込み大きな座椅子にもたれていた。TVを前に、一言も発せずミカンを頬張る姿は、童話の王のようであった。人の好さそうな母親が、申し訳なさげに小さくなっていた。彼は突然ミカンの山から一つをつかみ僕につき出した。僕は「ありがとう」と王様に言ったが、彼の表情が変わることはなかった。

 映画『レインマン』が封切られたのは、あれから十年近く経ってからだ。ダスティン・ホフマン扮するサバンはまさにミカンをくれた王様そのものであった。突然、霧が晴れる。僕は三度も映画館に出かけ、原作も読んだ。全て合点がいったように思えた。
 トボトボと小股で決ったコースしか歩かないのも、障害物があれば足踏みして立ち止まるのも、たった10分の通学を不安がったのも。何もかもが、あまりにも似ている。受験情報と事件と人物について驚くべき記憶力がありながら、学校のあちこちに散らばる実習室や実験室を覚えるにはとてつもない時間を要したのも、いつも慇懃に「○×室はどこですか」と足踏みしながら聞いたのも、一度覚えたコースはどんなに近道があっても変えなかったことも。堰を切ったようにサバンに関する論文が現れ、出版もされた。しかし、遅すぎた。
 彼は一年以上在籍したが、どんな生徒であっても出席さえしていれば、補習に補習を重ねて進級させていた僕の学校でも現級留置となった。試験ではユニを握りしめ名前を書いた後、じっと問題を睨んだまま汗をかき、白紙の答案が残された。採点後の答案を受け取るときは、必ず深々とお辞儀をした。
 「ここは受験には向かない学校ですね。Z
高校は数学と英語と国語の時間が多いのです。転校して頑張ります・・・大変お世話になりました。ではこれで失礼します」
 いつものように電話では流暢な言葉遣いの優等生だった。僕は彼のメインマンにはなれなかった。ただ漫然と現象を追うだけ、何一つ役に立てなかった。
 踏切際に建つ「王様」の住まいを、吊革に凭れて通り過ぎるたび、時が苦く巻き戻される。

追記 どうして僕は、電話での授業を試みなかったのか。テストを自宅に持ち帰らせ電話での回答は出来たかもしれない。僕自身の中の狭く鈍い、立ち枯れた「教育」観がこわばっていた。
 障害物を前に立ち止まり足踏みしたのは、僕の方ではないか。ただ厄介事
が去るのを待ち、敬遠していただけはないか。・・・慚愧にたえない。

「今知りたいんや、待てんわ」

 かつて旋盤実習棟の屋根裏は木造トラス構造が美しかった。動力は天井の長い鉄軸と滑車とベルトで中央動力源から伝えられ、工場らしい錯綜する陰影とリズミカルな音が満ちていた。それが機械ごとの小型モーターに切り替わったのは1970年代半ば過ぎ。高校進学率は90%を超え、夜間高校では働く青少年も地方出身者も急減して生徒の活気も消え始めた。みんなが揃うまでの間、教室のダルマストーブ囲んで、それぞれの職場の春闘方針を巡って騒がしくなることもなくなった。


 僕のクラスに京都からの転校生があったのはその頃である。小柄でひどく痩せた、目の大きな少年であった。どうも元気がない、職場訪問をした。焼き釜を備えた比較的規模の大きな洒落たパン屋で、店長は実直そうだった

 「せんせー、店まで来てくれたんやてな。こんなん初めてや、嬉しゅうて学校まで駆けてきた。・・・あのな、せんせーに言うときたいことあるんやけど聞いてくれるか」

 彼は、なぜ京都にいられなくなったか話した。

 「内緒やで。今度は頑張るでぇ、せんせー。一度家にも来てや、父ちゃんと母ちゃんにも会うてや。これ俺が焼いてん。店長がな、持たしてくれてん」

  僕の好きなクリームパンだった。

 「旨いね、有り難う。でも頑張らなくてもいいんだよ」と言っておいた。

 「せんせー変わっとるなぁ、頑張らんでもええなんて、店の人たち皆吃驚しとった」 

 「ふうん」と言うと、

 「大人は皆言うで、頑張りいゃーて。何でせんせーだけそない言うねん、知りたいわ」

 「そうか、知りたいか。憲法にもお寺のお経にもそう書いてあるんだ。そのうち僕の授業でやるよ」

 「今知りたいんや、待てんわ」・・・

 分かるためには、学ぶ側に主体性が準備されねばならない。レディネスとはこの「今知りたいんや、待てんわ」のことである。こうして突然少年たちの心それぞれに沸き起こる動き、それに我々は常に耳を澄まさなければならない。雑用に忙殺されながら、禅僧のように虚心坦懐になれたら・・・と思う。「今知りたいんや、待てんわ」が、何時、どのようなことで、誰に起きるのか分からない。授業で語ることの百倍も準備する必要があるのはそのためである。一人の生徒に対して百倍であるから、受け持ちの生徒数を考えれば無限と言って良い。かと言って焦って始まらない。

 ともかくも、こうして僕は、少年の言葉に添うて寄り道する準備にかかった。

  いつも体のどこかがが動いている落ち着かない少年だった。僕にはそれが隙あらば脱走しようと構えているようで、おかしかった。

 「逃げたいか」と聞くと                    「 俺ほんまに学校が嫌いやねん、辛抱でけんのや」と寂しそうに笑った。

 家庭訪問もした。木賃宿風アパートの一角、土間を挟んで障子で仕切られた三畳と四畳半。窓は三畳に一つ、畳はすり切れ、家具は小さな茶箪笥と食卓にテレビだけ。台所もトイレも共同。

 「センセー、八つ橋好きかー。俺大好きや」

 お喋りである。学校で見せる落ち着きのなさは、ここでは消えている。少し年配の夫婦はニコニコしながら、お茶と銘菓八つ橋を出してくれた。

 「年取ってから出来た子でしてな、そのぶん可愛いーて堪らんのです」

  「京都に来る人たちは、皆あん入りの生を買うやろ、何でやろな。焼いたんも旨いで、なー父ちゃん」

 

 「学校が嫌いで辛抱でけん」はかなりらしく、時々授業の中抜けをした。

 定時制過程の始業前は、全日制の放課後にあたる。雑務を片付けたり、授業の準備したりにはうってつけの静寂と長さがある。二日酔いの昼下がり、出勤すると事務室から手招きがあった。

 「先生・先生電話。同じ生徒から三度目」

  受付の窓口越しに受話器を受け取る。

 「・・・せんせー、堪忍してや、俺なぁ、またやってしもてん。頑張ったんやで、でも手が出てしもた」

 件の生徒からである。

 「今どこだ」  

 「捜さんといて、父ちゃんももう駄目やここにも居れん、そういうねん。・・・せんせー・・・世話になったな」

 少年はべそをかいていた。一瞬、心中という言葉がよぎる。

   「馬鹿なこと言うな、今行く」

 目まいがして舌がもつれそうになる。

   「堪忍やで、ほなもう行くでぇ。さいなら」


 一家は学校と同じ妙正寺川沿い、電話はそこからだろう。事務の自転車で川沿いを急ぐ。住まいは、綺麗に片づいて何もない。心中するなら荷物は持ってゆけない。少し安心して渇きをおぼえた。土間には打ち水がしてある。まだ遠くには行ってない。夕餉の買い物客で混み始めた駅前を何ヶ所か回った。

 少年は僅かな金を店から盗み、その日のうちに自分で店長に名乗り出て金も返したのだった。「引き止めたんですが・・・健気に頑張っていました・・・」店長も悄気ていた。僕のたった四人の学級に彼が在籍したのは、ひと月あまり。しばらくは三面記事が気になった。


 小栗康平の『泥の河』を見る度に、「またやってしもてん」「堪忍やで」が聞こえる。俳優たちの表情や言葉づかい、川沿いの寂しい光景、振り向きもせず曳航されながら去る廓舟の一家に重なる。

 少年は頑張り足りなかったのだろうか。そんなことはない。彼は自分の執着に気付いて嫌気がさしていた。だから直ちに名乗り出て自ら罰している。頑張り過ぎた。高名な作家や政財界要人までが、若い時代の「やんちゃ」を勲章のように雑誌やTVで自慢する。彼らは頑張りもせず地位を得、罰を逃れている、その特権性が勲章、だから吹聴したくなるのか。

 少年も両親も頑張りすぎた。彼が姿を消さなければ、制度としての学校は指導と称して退学を勧告したに違いない。


 彼のための授業は、「宝暦治水事件」から始めるつもりで下調べにかかったが、大学や都立図書館にもめぼしい資料はなく、国会図書館に幾日も通い詰めた。おかげで授業を始める前に肝腎の少年はいなくなってしまった。

 授業を聞けば喜んでくれただろうか。やっぱせんせー変っとるわ、そう言っただろうか。

 確かなのは、彼が学ぶことが苦痛で「学校が嫌いやねん、辛抱でけん」のではなかったことだ。そうでなければ  「知りたいわ」とは言わない。

 少年を思い出すのが辛かった。やらず終いの授業は、ベヴァリッジ報告と囚人組合で終わるつもりだった。頑張らねばならぬのは、社会の仕組みであり国家である。個人ではない。





『自由』は平凡の中にしかない

 

我が家ベランダから

 引退したはずのイブモンタンらしい男が、フランスの田舎でペタンクをしていた。的の杭目がけて、鉄の球を投げる大人の遊びである。たまたま日本のマスコミ人が現場に居合わせて、『イブモンタンさんですか』と声をかけた。男は不快そうな顔付きになり、その場を立ち去った。

 いかにも日本のマスコミらしい無神経さである。誰もがマイクを向けられれば喜ぶと思い込んでいる。肉親を事故で失った悲しみの底にある遺族にも、『お気持ちを、ご感想を』と傍若無人である。

 もし「日本人」がペタンクの雰囲気に引き込まれたのならば、「去りがたい光景の中の、日本人旅行者」としての自分を書けば良い。一日中眺めて、ペタンクをやらせて貰えば上出来ではないか。 

  イブモンタンは歌手としても俳優としても栄華を極めた。毎日がフラッシュとマイクを向けられる日々であった。希代の英雄や苦み走った二枚目を演じても、それは監督や制作者の造った虚像であり、イブモンタン自身ではない。世界の女を痺れされるような歌を歌っても、それは制作者の意図に合わせているだけで、彼自信を表現したものでは無い。彼は、引退して初めて、平凡な日常の中にしか自由はないことを知ったに違いない。競わない楽しみ。 

 嵐寛寿郎は生涯に300本の映画を撮った。何度も恋愛し結婚離婚を繰り返したが、そのたびに全財産と家屋敷を別れる相手に贈った。銀幕や舞台の嵐寛寿郎は、彼自身ではない。引退後の彼は、掃除が趣味で他人任せにせず楽しんでいた。とくに拭き掃除は念入りであった。

 戦犯筆頭を逃れ沖縄を米国に献上した自称天皇の末娘が地方公務員と結婚して、下町のマンションに住んだ。商店街での買い物が好きで、買い忘れがあれば何度でも往復した。商店街の女将が「言っていただければ、お届けしますのに」と言うと「とんでもありません、こんなに楽しいこと、何度でも自分でいたします」と、おっとりした口調で答えたと言う。イブモンタンも嵐寛も件の娘も自由が何処にあるのか、それを如何に知り知り獲得し愉しんだのか。

 

 『平凡な自由』(大月書店)を書いたとき、タイトルが過激だ、皮肉がきついなどと揶揄された。

 五輪を誘致したり博奕場や博覧会建設に浮かれる精神に自由はない。毎日の通勤や登校途中に、道ばたの草花にみとれる中にこそある。時折出会う幼児やお年寄りの姿に安堵して挨拶を交わすことにある。勲章やメダルを首にかけた自称天皇の即位パレードに「感激して涙を流す」ことにではなく、長い病みが癒えて木々の香りと暖かい空気に包まれる中にある。


 中村哲医師が、命を賭けたのは、砂漠化した土地に生きる人々の『平凡な自由』を実現するためであった。それ故彼は殺された。すべてが商品化された社会では、自由も平凡も敵と見なされる。

 中村哲医師がノーベル賞に挙がらなかったのは、所詮ノーベル財団が商品化社会の申し子だからである。

  ペタンクを五輪種目に『昇格』させる企てが持ち上がったら ペタンク愛好者は激しく抵抗するに違いない。

  マラソンの円谷氏は、国家期待の日の丸を背負ったために、「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」から始まり「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれる家族宛の遺書にしたためている。

僅か6年前僕が考えていたこと Ⅰ

  ミンドロ島はフィリピン・ルソン島西南方にある。米軍は圧倒的装備でここに上陸、日本軍は絶望的な状況に置かれていた。飢餓とマラリアに苦しみながら、大岡昇平は敵が現れても撃つまいと決意する。

 林の中をがさがさと音を立てて一人の米兵が現れた。

 「私」は果たして撃つ気がしなかった。それは二十歳ぐらいの丈の高い米兵で、銃を斜め上に構えていた。彼は前方に一人の日本兵のひそむ可能性にいささかの懸念も持っていないように見えた。彼は近づいてきた。「私」は射撃には自信があった。右手が自然に動いて銃の安全装置をはずしていた。撃てば確実に相手を倒すことができる。その時、不意に右手山上の陣地で機銃の音が起こった。彼は立ち止り、しばらく音のする方を見ていたが、ゆっくり向きを変えてその方へ歩きだし、視野から消えていった。

 ・・・私がこの時すでに兵士でなかったことを示す。それは私がこの時独りだったからである。戦争とは集団をもってする暴力行為であり、各人の行為は集団の意識によって制約ないし鼓舞される。もしこの時、僚友が一人でも隣にいたら、私は私自身の生命のいかんにかかわらず、猶予なく撃っていただろう。・・・

  私は溜息し苦笑して「さて俺はこれでどっかのアメリカの母親に感謝されてもいいわけだ」と呟いた。  『俘虜記』 

 彼は撃たなかったわけを、捕虜収容所で帰国後とずっと考え続ける。中学生の時新約聖書を読んだ彼は、神の声についても執拗に追求している。

 しかし、ここで重要なのは「私(大岡昇平)がこの時独りだった」事実であると僕は思う。この時大岡昇平は、仲間から物理的に孤立していた。それ故、他者に介入されず依存せず自立して判断した、だから撃たないという選択が可能だった。人は、度々一人にならねばならぬ。一人になって、辛い判断を下さねばならぬ場面に直面することはある。それを神と向かい合うと考える人もある。

 例えば学級が一致してある生徒を虐めている場合、企業が一丸となって不正取引に走っている場合、孤立を畏れぬ自立の意思が広い共感をやがて生む。

 先ず多数を目指して結束しても真の連帯にはならない。連帯は互いの違いと共通性の深い理解から生まれるからである。違いを棚上げしたり共通性を偽装してしての結束は脆く、外的な締め付けをどうしてももたらす。

  教員の思考を集団の団結と言う概念は、鳥もちのように捕らえて粘り着く。もう40年も前のことだ、集団や一致が自己目的化する傾向が気になって、僕はある研究会の会合で孤立することの意義について考えたいと言った。そこには哲学界の重鎮もいたのだが、ことごとく人間の連帯こそ強調しなければならないと一蹴された。僕は例えば、ファシズムが急速に勢いを増しつつある時、孤立に頑固に耐えることについて言ったのだが理解されなかった。


  カストロはハバナ大学では多数派ではなかった。グランマ号で上陸したとき多数派ではなかった。革命がなったとき多数派ではなかった。それ故常に様々な潮流を引き寄せることが出来た。それぞれの立場から自立して判断して形成された連帯であったから強かった。始め南北米州でCubaは文字通り孤立していだがだがソビエトが崩壊し、経済規模が30%にまで落ち込んでも潰れなかった。そして今や孤立しているのは合衆国である。小さな国々が、それぞれの歴史と風土にあわせて独自の政治経済体制をつくりあげ、合州国から自立して判断できるようになるまで永かった。 小さな貧しい国の何処にも従属しない判断、多数決によって少数派を排除して出来上がる秩序ではない。判断の単位は小さくなくてはならない。


  中学生や高校生が、朝から晩まで日曜も夏休みも一人になれない状況の危うさについて考えねばならない。政府が部活の制限に二の足を踏むのは、自立を畏れているからである。たまには集団から離れることが必要だ。

若者を貧困と無知から解放すべし

  「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」

 


黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。                            全く同じ事を教育にも言わねばならぬ。

 「教室の困難は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   教室を取り巻く諸困難ー非行・低学力・苛め・暴力・卑屈・傲慢・・・は悉く「社会の貧困と無知」が生み出した者ものだ。おかげで教師たちは、教育それ自体から逃げ出し始めて久しい。若者たちを主権者たるにふさわしく賢く逞しく育てる任務に戻せ。若者たちが平等で自由な権利を求め、仲間と共に街に繰り出す日は来るだろうか。

最近、渋沢栄一の妻妾同居のスキャンダルが注目を浴びている。彼は一万円札の肖像に最も相応しくない。嘗て朝鮮が日本の植民地であった時、渋沢栄一こそは植民地主義的収奪と干渉の象徴であった。

    例えば教育行政は、教師の教育に干渉して止むことがない。決して手助けはしない。教材や資料の用い方はおろか、教師の思想や振舞いにまで口を出し、文書の形式提出に拘る。だが世界で群を抜いて長い労働時間に苦悶す教師たちに手助けの「振り」はするが、何年経っても実行はしない。これは教育に限らない。 巨大企業や警察は家族の思想や市民活動にまで介入する。

 戦中のハンセン病療養所沖縄愛楽園に県警本部長一行がやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。戦場で兵士が命を投げ出して皇国に尽くしている時、ハンセン病者も死ぬことがご奉公である、つまり絶滅して経費を節約せよと説いた。

 その時、強制隔離され自由を剥奪された元教師の患者が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者がここにも沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」と大胆極まりない批判をした。忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎになった。

渋沢栄一が朝鮮で発行した紙幣が如何に朝鮮人の怒りをかったことか


 感染の恐れのないハンセン病を渋沢栄一と光田健輔は「ペスト並みの恐い病気」と人々の恐怖を煽り、死ぬまでの絶体隔離体制を作り上げる。実際ハンセン病患者は併発した病気で死ぬことはあっても、「らい」で死ぬことはなかった。

 病院が医者が患者を助けず、一家はおろか一族の生活を壊滅させたのである。その筆頭「戦犯」たる渋沢栄一を近代資本主義の立役者と祭り上げ、一万円札の肖像にするという。確かに渋沢は近代日本の犯罪的体制を象徴する人間ではある。しかし一万円札の肖像として支払いのたびに見せつけられるのは真っ平御免だ。

 野球部の顧問教師は生徒を坊主にしたがる。「大会の開会式で、球児全員が丸刈りで整列したら感動するよなあ」とは以前、大会関係者教師が気持ちよさげに頷いた台詞だ。中学生や高校生を「球児」と呼ぶ神経も気持ち悪いが、そんなに丸坊主に感動するなら、自分たちがそうすればいい。他人の髪型に干渉しておいて、表現を手助けしないで、何の教師か。彼らはgameとしての野球が好きなのではない。統制と干渉が好きなのだ。だから日本の野球やサッカーは、自らを「サムライ ジャパン」と呼びたがる。日本の近代化は部活やスポーツ界に残る封建制の徹底的克服なしには始まりはしない。先ずは、渋沢栄一の一万円札を葬り去ることだ。

 李氏朝鮮時代から渋沢栄一の第一銀行は、関税の取り扱い業務などを代行して朝鮮政府に深く食い込んで日本貨幣を朝鮮半島でも流通させた。だが日清戦争後、ロシアの朝鮮半島進出とともに日本貨幣の流通が激減。そこで第一銀行頭取渋沢は、李氏朝鮮を引き継いだ大韓帝国に無断で「無記名式一覧払い約束手形」を発行。この手形が実質的な紙幣として朝鮮半島で流通、大韓帝国は1905年に正式な紙幣として承認するはめに陥った。その手形=偽紙幣に、渋沢栄一の肖像画がある。渋沢は京城電気(韓国電力の前身)社長や京釜鉄道会長を努めるなど、植民地収奪の象徴だった。その強奪と鍛圧支配の詫びも誤魔化し続けて80年になる。わが恥ずべき政府はこの大犯罪者の肖像を最高額の紙幣の肖像にする。

 この「干渉したがるが、手助けはしない」悍ましい文化が生んだ習慣が「自分へのご褒美」の侘しい光景である。誰も手助けしてくれないのだ。自分でやるしかない。しかし「褒美」は、他者に向けられてこそ価値がある。  

 干渉はしないが、困っていると何処からともなく現れ手助けする人々もある。それが良き文化として定着している国もある。しかし未だに日本政府は、韓国朝鮮へのヘイト言説を放置扇動するのだ。


  参照  以下のblog記事はすべて渋沢栄一と光田健輔の前代未聞の悪事についての論考だ。追って再掲する。

            https://zheibon.blogspot.com/2021/07/blog-post_22.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/06/blog-post_18.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/blog-post_29.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/2.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/03/blog-post_18.html

               https://zheibon.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

もし、君の庭が貴金属だらけになったら

  夢のような幸運、たった一掴みでどんな贅沢も思いのままだ。ひとかけらの土も糞や汚物もない。大リーグ「大谷」の幸運は、さしずめプラチナか巨大なルビー相当だろうか。プロゴルフも競艇も競馬も囲碁将棋gamerもオリンピックplayerもその稼ぎ高が、画面や紙面を賑わす。それにつられて親も子も将来の稼ぎ高に目の色を変えて学校や企業をランク付けする。平等や公平と言う言葉は辞書の中で死んだようだ。それだけではない、歴史上の人物までがその稼ぎ高や地位に焦点を合わせて評価する番組が目白押し。その結果、賞を得た者が排他的に社会総体の実りを思いのままにする。

 学校や企業では、そんな我が儘勝手が横行し易い。偏差値に中毒する日本社会だ、「悔しければ、ひもじければ這い上がれ。」と新聞もtvも止むことなく煽り立てる。    

 根っからの自由人、辻 潤は餓死を選んだ。彼の墓は染井の西福寺にある。我々は貴金属だけの世界に住めっこないのだ。目が眩むような貴金属の眩しさと栄光に「悧巧」な君たちが酔いしれている時、対極には糞まみれの土にまみれながら種を蒔き、水を断崖を運び上げ害虫害獣収奪と日夜闘う者が「造られる」。君は呟くのだ「金さえ払えば文句はないだろう」

 これが太古の昔であれば、中央権力から遠ければ過酷な収奪からは少しは自由。中央の眩しさも伝わらない。たが今全ては暴力的に忽ち伝わる。それが便利で進歩だと。もっと早く、手軽に。

   辻 潤が餓死を選んだ1944年、大日本帝国は裏声で「大東亜共栄圏」愛に酔った。しかし愛は計画出来ない。恋愛を出会い頭の事故に例えたり天使のいたずらのせいにするのも、それがなぜ起こったか合理的な説明が出来ないからである。好きになったばかりに、祖父母や子どもの病状が急変して、慌てて駆けつけ大儲け出来なくなったり全財産を失ったりもする。好きになったばかりに、相手を殺す羽目に陥ったりもする。一途に思い詰め、周りも相手も自分自身さえ見えなくなるからだ。都合のいい時だけに、愛を設定することはできない。

  「五族協和」や「八紘一宇」も、当時の日本の思い上がった東洋支配への「愛」であった。いや明治維新の「四民平等」さえ傲慢な差別社会への「愛」でしかなかった。植民地主義のお先棒を担いだ教会も「愛」を掲げずにはおれなかった。まさに「夢想の中では愛は器用である。どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない」

 愛は計画できないと同時に、計画出来るものは愛ではなく夢想に過ぎない。だから「夢想は屡々崩れずに現実の中へ流れ込むが、その時愛は突然ぎこちないものになる」。「五族協和」や「八紘一宇」が、現実の政治過程に転化するや否や「愛」は支配や搾取の暴力性をむき出しにする。満州開拓の「理想」は中国農民の土地略奪であり、抵抗する者への弾圧殺戮であった。それでも「五族協和」や「八紘一宇」を信じる者は、ただの愚か者である。「夢想の中で横柄に育った愛は、退くことを知らず」一億総玉砕を叫んで死んだ。

  

「人類は結局愚かであった。・・・人類は悧巧ぶることは出来たが、そのために悧巧になれなかった」串田孫一「断想集」


  今また日本は金さえ出せば何でも買えるはずと奢っている。どんなに足掻いても、ダイヤの畑に種は根を張れないのに。

 プロになりいくら稼げるようになったとしても、どんなに賞賛され祭り上げられても、君はもう二度と「楽しみ」の為にplayに興じることは出来ないのだ。

国家テロに、覇権国家が依存するわけ

   白起は紀元前257年生まれ、中国戦国時代末期の秦の武将。司馬遷は『史記』で「料敵合変、出奇無窮、声震天下)」と評した。長平の戦いでは降伏した40万の趙兵を尽く生き埋めにしたと伝えられるが、主君の昭襄王は自害を命じる。

    2024年2月植民国家イスラエルは、ガザ全域の市街を破壊しパレスチナの存在を消そうとしている。ジェノサイドが止まらない。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によれば゛昨年10月以来ガザ地区でイスラエル軍が殺害した子どもたちの数1万2300人は、2019年から2022年までの4年間に世界中の紛争で殺された子どもの合計よりも多い。


    ジョナサン・パーカーの著書『テロリズム その論理と実態』は 、一八世紀から一九世紀にかけてアジア、アフリカで展開されたイギリスによる「虐殺」の数々を、「国家テロ」として挙げている。一部を引用する。

  大英帝国支配下のベンガル(印度東部からバングラデシュに跨がる地域)総督の副官であったジョージ・フィッツクラレンス大佐は、ビンダーリー族について 「盗賊として有名だった彼ら戦う権利を持つ敵として彼らを支配するのではなく、彼らを根絶することが目的だった」と語っている。

 「いったいどうやってマオリ族を文明化できるというのか」と、1834年にニュージーランド北沖で船が難破した・・・英帝国軍人船長は問いかけた。「確実にやつらを射殺すること。一人残らずニュージーランド人にマスケット弾丸を打ち込むより他に、あの国を文明化する方法などない。」

  オーストラリアの裕福な牧場主でもあったウィリアム・コックス将軍は、1825年に開かれたボーフォートでの公開集会で演説した。「我々がなしうる最善のことは、すべての黒人を射殺してその死体を土地の肥やしにすることだ。・・・黒人を根絶するために、女と子どもは特に確実に殺さなければならない。」


 これら「大英帝国」植民地支配を担う軍人の歪んだ世界観は枚挙に暇がない。アムリットサル事件はその頂点の一つ。

  非武装の集会の参加大衆に対してレジナルド・ダイヤー准将率いるイギリス領インド帝国軍一個小隊は発砲、さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。

  今尚イスラエルがパレスチナでやっていることは、

 フランスがアルジェリアやアフリカ各地で、イギリスがインドが世界各地で、ベルギー人がコンゴやアフリカ各地で、アメリカ人がベトナムや世界各地で、スペイン人が南米で、イタリア人がアフリカで、ドイツ人がナミビア等のアフリカ各地で、日本が朝鮮や東アジアでやった国家犯罪=国家テロの一部にすぎない。

  これら嘗ての植民地帝国諸国が、挙ってイスラエルのジェノサイドを「国家の権利としての防衛」と見做すのは嘗ての国家犯罪=国家ロを合理化するからであり、反省や謝罪の意識は何処にもない。

大きな声が必要なのは誰か

  ある都立高校のgooglemaphttps://www.google.co.jp/maps/ 口コミ欄にこんな感想が寄せられている。

 「毎週末、グラウンドでの部活動がチンピラまがいの騒がしさです。野球部とサッカー部もかな。わざわざ、校舎側でなく民家側に寄って無駄な大声を出し放題。ペアガラスなんて意味なく、音楽も聴けません。

 例えば試合で、誰かが良いパフォーマンスした時などに盛り上がる位は全く構わないのですよ。楽しんで欲しい。ですが、練習などでワンアクションする度に無駄な掛け声など必要か?大声出せばパフォーマンス上がるのか?上がらねえよ。子供達が悪いのではなく、指導者が問題。大声出させたいなら校舎側でやって。」


 この学校も嘗てはnhk tvの番組で度々取り上げられる程の所謂「名門」だった。敷地の民家寄りには古い学校らしく大きな桜並木があり、絶好の日陰を造る、そこに複数の部活数百名が集まり騒ぐから喧しい。

 「名門」なら何でも許されると言わんばかりに部活顧問教師は無神経に大声を煽る。近隣住民の堪忍袋も切れる。

 大きな声が必要なのは「住民」の方ではないか、「うるさいぞ、迷惑だ」と注意を喚起する為に。しかし彼らは窓を閉め切って怯える。

権力は飾り立てたがる

 関東大震災の時も大きな声を挙げ威圧したのは武装した自警団。朝鮮人や中国人・社会主義者たちは為す術無く惨殺された。「武装した自警団」とは言わば公権力の規制から逸脱した「自由主義」者=「新保守主義即ちネオコン」に他ならない。近代民主主義社会が成立すれば、公権力は「自由主義」とは相容れない。

 公権力は声がやたらに大きく勲章や地位の好きな「お上」とは本質的に違う。特に学校では自覚する必要がある。教委も学校管理職も安易に自らを「お上」に擬えたがるからだ。勘違いも甚だしい。彼らは公僕であり、公権力=市民による議会に忠実でなければならない。それは多数決とは次元が違う。常に小さな声に敏感でなければ、平和と教育は直ちに崩壊する。

盗んだ品物を返しさえすれば窃盗の罪もチャラかい?

 定期テストや進級テストで不合格宣告されたら、事後訂正すれば合格か?  医師国家試験や司法試験終了後、間違いがあっても言い訳すれば合格なのか?   だって自民の国会議員のやり放題は、ズバリそんなとこだ。

 自民党国会議員の政治資金パーティー裏金作りは、秘書のミスや事後訂正で済ませて知らん顔が当たり前、それをマスメディアがもて囃す。元々怪しさ満載の政党交付金制度導入自体、企業・団体献金禁止が前提だった筈。

  そんな国家・民族なのか、僕の住むこの場所は。原爆を二度も落とされ水爆の害さえ被ったにもかかわらず、加害国家に従属して80年が過ぎようとしている。あろう事か、被爆者を差別し加害国家の隠蔽工作に忖度し続けている。

 我々はとんでもない「思考停止」に陥っている。

 世界に類を見ない大規模な消費税を自然現象のように受け入れ、天皇一族には珍妙な敬称をつけたがり面倒で費用の嵩む元号を不必要に弄びながら、他方では福祉教育医療を後退させ続ける。

  利用価値のうすい「北方領土」や竹島・尖閣諸島には眦を決して拘るが、戦犯昭和天皇は住民ごとアメリカに占領続行を懇願させ責任を問おうとはしない。正常で独立した判断を捨てたか、麻痺させたか、無知なのか。この時新憲法は既に施行されていたのだ。

 「天皇陛下万歳」や「殉忠愛国」「天皇帰一」「皇国の亀鑑」に類いする呪い言葉は、この民族の批判精神を凍結させたのだ。

  スポーツや遊戯のプロ化も大掛かりだが手軽な「思考停止」装置に他ならない。何故ならあらゆる進歩や発展の指標が悉くアジア諸国に追い抜かれている現状への考察をさせないからだ。

  学校に於ける「思考停止」装置は「部活」である。教委や管理職にとって学校の使命は授業では無くなって久しい。その証拠に校長は授業出来ない身分である事を恥とも屈辱ともしないのだ。ひたすら校舎の壁や廊下に各種大会の入賞歴を晒す事を誉れとしている。何時になったら、校長や教委が授業に夢中になるのだろうか。

パレスチナ・ガザ沿岸に「病院船」を派遣するイタリア

 CNNによれば、 イタリアは2023.11月8日病院の機能を持つ海軍の船舶をパレスチナ自治区ガザ地区へ派遣する。現地の犠牲者を治療するためという。クロセット国防相は記者会見で、この病院船は8日にもイタリアを出発すると述べた。船の乗員は170人で、このうち30人が救急医療の訓練を受けているという。報道によれば、パレスチナ側との合意に基づいて、野戦病院を直接ガザに搬送する。彼は「我々はあの地域で人道的活動を行う最初の国であり、他の国々も我々に続くことを望む」と述べたという。


  かつて僕は、米軍にの戦争参加要請に抗してベトナムに病院船を派遣したドイツについて書いた。

   「 病院船・コロナ病床jet機による国際主義という決断 」     https://zheibon.blogspot.com/2020/08/jet.html

 再掲する。

病院船・コロナ病床jet機による国際主義という決断

Helgoland号甲板の乗り組み看護婦と治療後のベトナム幼児
 ベトナム戦争中米国は、同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは武器と兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約を遵守、米国の民族皆殺し政策に加担して殺すのではなく、北ベトナム、南ベトナム双方の民間人を治療したのである。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んしだ。

 これは、沖縄の基地をベトナム爆撃に使わせていた日本が率先してやるべきことだった。憲法九条を持つ自称「海洋国家」の何たる失策。世界に反戦運動が盛り上がる1969年、進水した原子力船「むつ」は失敗を重ね、膨大な費用を文字通りドブに捨てた。為にならないことには精を出し、害が明らかになっても中止する判断さえ出来ない。希望がない。
 


独は、伊からのコロナ患者輸送のために、エアバスA310 を改造
 そして今度は、コロナ患者のための世界最高のMedEvacである。高度な施設での治療が必要な患者を、治療を行いながら迅速かつ効率的に医療機関に搬送するICU専用jet 機。ドイツは、イタリアからドイツの病院にコロナ患者を運ぶために、エアバスA310 を改造。この飛行機には44床のベッドがあり、そのうち16床は高集中治療患者向けのもので、最大25人の医療スタッフが搭乗していると。

 病院船も ICU専用jet 機も、日本にこそ必要なものではないか。全国に散らばる離島のコロナ患者や医療破綻自治体の為に、複数のICU専用jet 機と病院船、そして病院列車が、大勢の医療stuffとともに必要だ。
 中国封じ込めのために、阿倍が世界中に専用機でばらまいた資金援助だけで 30 兆円。
 せめて首相専用機をICU専用jet機にしても罰は当たらない。何ら有効活用していない豪華専用機だ。
 莫大なコロナ対策費が、又もドブに投じられ却ってコロナ禍を広げ深刻化させている。
 集団的自衛権行使を容認して積極的平和主と嘯く日本は、いつまでも経っても、失敗を認めない、惨劇を中止出来ない国だ。
 日米欧6カ国首相のコロナ対応策調査「ケクストcnc」が7月中旬各国1000人対象に行った。プラス評価はドイツのメルケル首相(42%)のみ 、最低は日本阿倍首相のマイナス34%。


  関連記事

https://zheibon.blogspot.com/2018/10/blog-post.html


 

   


 

「勝つことだけ」に執着する「プロ」の悲劇 Ⅰ

 

   引退する頃にボンヤリ分かっていたことが、三年ほ

 元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 
ど前になってハッキリ分かったんだよ。俺が女も家庭も全て捨ててやって来たボクシングが、実は金持ちが貧乏人を殴り合わせて見物する非道いことで、しかも金は結局見物していた連中が、、いろんなテクニックで巻きあげてしまうのさ、・・・ファイト・マネーの上前ははねる。その上、やれ一緒にビシネスをやろうとか、出資しろ、土地を買って朝鮮キャロットを植えれば、ボクシングをやめてもピンクのキャデラックに乗り続けられるなんて、それはいろんなことを言って来るんだ。リングに登る直前の控室から、一文無しになったこの頃まで、男も女もひっきりなしに俺の金を狙い続けるんだ。ボクサーは、強ければ強いほど他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。   サンディ・サドラー   元世界フェザー級王者。通算103KO勝ち 


   集団の中にどんなに優れた人がいても、集団の判断は知能の低い者に向かって平均化される。   マクドゥーガル   

 戦争や災害など密室化した空間で、我々は理性的判断を如何に保てるのか。社会が特に報道が、批判を怖れないことは不可欠。しかし今この国は戦争でも無いのに、新聞もTVも挙げて理性的・合理的判断を放棄、「勝つことに執着」している。 Japan as Number Oneと持ち上げられ慢心し続けたこの国は、あらゆる指標で落ちぶれ内に籠もっている。容易く稼げる「一位」を探し、やっぱり優れていたとの判断に縋ってしまうのだ

 

 勝敗に関係なく相手を理解することは、自己認識の前提である。負けることや互いに楽しみを分かち合うこと以上の悲しみはない。

   幸いに通算103KO勝ちのチャンピオンサンディ・サドラーは、強ければ強いほど・・・他のことはあまり知らない。それに減量や練習が辛くて堪らないし、試合の前には怖ろしさで気が狂うか、そうでもなければどこか遠くに逃げてしまいたくなる。だから、つい一番そばにいる自分の女に当たってしまって、引退する頃には独りぼっちで、一緒に考えたり心配してくれる者もいなくなってしまう。」ことに気付くことが出来た。

 プロ野球、プロサッカー、プロゴルフ、・・・プロパチンコ、プロ麻雀・・・今や栄光のオリンピック各種競技もアマチュアでは無い。放映権で荒稼ぎする業界お抱えのプロだ。囲碁将棋も少年時からプロを目指したくなる。だが強くなればなるほど他のことは知らなくなる。これを成長と呼ぶことは出来ない。

 人間は全面的な発達を目指すべく宿命づけられている。

何時「才能」が発現するか、開花しないかも知れない。子ども時代からプロを目指すのは、才能の芽を早期発見することではなく、可能性を摘み取ることにしかならない。どんな時期に如何なる環境で誰とともに才能が伸びそして消えるのか。たとえ死ぬまで才能の発現が無いとしても、彼も又天才かも知れない。。比べ競うことは犯罪的賭けなのだ。失敗して路頭に迷う確率は、成功するより遙かに高い。

 手当たり次第にtopを目指す性癖は天皇制fasismの逃れられない宿命である。

 第1次南極調査隊の副隊長兼越冬隊長の西堀栄三郎や初期マナスル登山隊の今西綿司らは登山家としてはアマチュアであった。それ故「強くなればなるほど他のことは知らなくなる」ことからは自由であり、優れた科学者として成果を挙げ続けることができた。

 コロナ対策の「専門家」会議の医者や学者たちは、病院経営の専門家=「プロ」として莫大な利権を手中に収めた。利権を手中にすればするほど医師や学者としては恥多き失敗をかさねている。

 アマチュアであり続けることだけが人間らしい成長や発達の不可欠の条件なのだ。鶴見俊介も小田実も決してプロ評論家やプロ作家では無かった。

元いじめられっ子と元番長たち

  「「突っ張るのを止めた」生徒たち」でもう一つ思い出した。

 あれは遅刻の量も質もずば抜けて多いクラスで、会議のたびに担任の僕は槍玉に挙げられた。だが、面白さも抜群だった。

 下町の工業高校にやって来た元番長の猛者たちが学習意欲を高めたのは、小中学校でいじめ尽くされすっかり自信を失っていたO君と仲間になってからである。

 学級担任することになって、僕のクラスにだけ元番長が三人も揃ったことが判ったとき、多くの教師がある古手グループの「陰謀」を疑った、7学級のうち特定の学級にだけ中学校の番長を務めた三人が揃う確率はあり得ない。あったら分散させる。

 僕はそれらしい「陰謀」の主たちを思い浮かべてムカッとしたが、知らんぷりすることに決めた。

 最初のHRで、僕は開口一番「人間は誰だって知られたくない過去がある、中学校からの内申書は見ない」と言っておいた。

 すぐに、どこかそれらしさが残る生徒が準備室にやってきて

 「先生、ほんとは知ってんだろ、俺のこと」

 「名前以外は知らない、内申書のことだろう、見るか」と言ってロッカーの引き出しを開けてみせた。一クラス分の内申書が一通ずつ封印したまま紐で括られて入っている。

 「ホントに見てないんだ。・・・先生、俺番長だったんだよ。でも安心しなよ。俺もうしない、そう決めてんだよ」

 「そうか、君は有名人だったのか。でもやめるんだろ。だったら今聞いたことも忘れるよ。これから君がこの学校でやることだけが、君の価値を決めるんだ」

 次の日三人の元番長が揃ってやってきて、それぞれが別々の学校で総番長をしていて互いに知り合いだったと自己紹介をした。その一人はある区の番長組織のサブリーダーだった。三人とも口を揃えて

 「高校生になってから突っ張るのは、ガキ。高校デビューっていうんだ。だからもうやんないよ、安心しなよ」という。

 「じゃー勉強するために、学校に来たのかい」

 「そのつもり、一応将来のことも考えようと思ってんだ、よろしく、先生」よく見れば三人とも人懐っこい顔している。


 さっそく始めた個人面接では、先ず皆に「君たちの名前以外何も知らないから、自己紹介してくれ」と言った。

 だがO君は下を向いたまま何も言わない

 「いじめられたかい」と聞くと、大粒の涙が落ちて音を立てた。小学校でも中学校でも、男子からも女子からもいじめ尽くされた経験を語った。

 「このクラスになったからには、絶対にいじめはさせない。約束するよ」そういうと

 「・・・先生、僕勉強できるようになりたいんです。どうしたらいいんですか」

 「二つある。一つは友達に教える。二つ目は自分が興味を持ったことを、自分で調べてノートを作ることだ。なるべく長く一つのことを」

 彼が興味を持ったテーマは『教師の犯罪』。夏休みや冬休みのたびに、大学ノート一杯に新聞記事を貼り付け、本からの引用を使った感想を添えて、見て下さいと持ってきた。選んだテーマに彼が小中学校で受けたいじめの実態が見えて、胸が痛んだ。

 授業が始まって暫く経つと、O君が級友に親切に教えていることが教員の間でも知られるようになった。友達から聞かれてわからないことは、自分で調べたり教員に聞いたりしていた。元番長たちは、ことあるたびにO君の厄介になることになった。お陰で、彼の成績は三年間すべて「5」、造った実習作品も素晴らしい出来で、卒業後は展示された。


 だが、彼の家庭には不幸や不運が続き、アパートの電気やガスが止められたりした。昼飯を抜いて教室でぐったりすることも続いた。元番長たちはオロオロして僕に助けを求める。

 「先生この頃O君何も食べないんだよ。昼休みも机に突っ伏したまま。俺たちがパンを持って行っても食べてくれないんだ。何とかしてよ」百戦錬磨の番長たちが、友達のことではオロオロするのがおかしかったが、O君を呼んで話を聞いた。父親も姉も家を出て、家賃も払えない部屋に彼一人が残されたのだった。放課後飲み屋でアルバイトしていたが、そこで晩飯が出る、それだけで耐えていたのだ。しかし彼の成績が下ることはなかった。


 夏休みに元番長三人は神津島に行く計画をたて、O君を招待した。「そんなつもりで一緒に勉強したんじゃない」と固辞するO君を、説得してくれと又泣きついてきた。O君も戸惑っている

  「あいつらは、君と親友になれたんじゃないかと喜んでる。きみはどうだい」

  「僕も嬉しいです、こんな友達が出来たのは初めてだからどうしていいかわからなくて」

 「こうしょう。今は金がなくて苦しいから、好意に甘える。就職して楽になったら、かえす。または君があいつらを招待する」

  「わかりました。そうします」と笑顔を見せた。

 対等な関係が育む友情は、三人にとってもO君にとっても文字通り目くるめく体験だったのだと思う。

 元番長たちはそれぞれなかなかな企業に就職。三人をまとめて僕のクラスに画策した古手教員はわざわざ当該企業に電話を入れた。その一つ、日本を代表する名門企業の人事部は「元番長だと言うことも知った上で採用しました。大きな組織では彼のような繊細なリーダーシップが欠かせません」と僕にも連絡をくれた。O君は立派な大学の推薦入学も大企業もあっさり断って、現場密着の小さな会社に就職した。

 個人も組織も国家でさえ、突っ張るのを止めたいと願っている。その環境を整えることが出来るのが成熟した「社会である。

 SSHなど目立つ学校の生徒が強いられる致命的不幸は、O君や元番長たちに決して巡り会えないことだ。彼らが政治的指導者や指導的経営者に成った時、彼らはO君や元番長たちを国や職場の主権者として認識出来るだろうか。

北朝鮮とロシアの接近で思い出したことがある。

   当blog『「突っ張るのって疲れるのよ」 何もしないという作為』   を再再引用する。

     あれは確か1992年の二学期だった。二人組が準備室にやってきた。

 「ねえ、褒めてやってよ」と僕の横に来ていきなり言う。

 「今日の○○、かわいいでしょ」 

 「いつもかわいいじゃないか」と言うと○○さんが照れている。

 「そういえばいつもと違ってる」

 「でしょ、スカートも短くなったし、化粧もしてないでしょ」

 「うーん、美人になったし賢く見える。どうしたんだ」

 「・・・一年生の時は私たち別々のクラスで浮いてた。友達は出来ない、つまんないことで担任にガミガミ叱られてばっかり。でも負けたくないから突っ張るしかないじゃない」

 「二年になって同じクラスになって、似たもの同士ですぐ友だちになった」

 「それで、このクラス何となく居心地がいいのよ、先生もぼーっとしてるし、気が付いたら突っ張る必要がない、突っ張るって疲れるのよ、だからやめちゃった。そしたら親も急に優しくなるし、・・・」

 「だからさ、褒めてやってよ、えらいでしょ」 

 「えらいよ、二人とも。突っ張るのは疲れると気付いたのも、その友だちの変化に気付いて「えらい」と言ったのも」

 「私も突っ張るのやめるよ、ほんとだよ」

   

 事柄は何かをなして遂げられるよりは、なさないことによって思いがけない形で実現することがある。青少年は猫に似て、追えば逃げ、ほっておけば寄ってくることがあって難しい。僕はつくづくそう思う。

 でもね、「何もしないこと」は「何もしないこと」によって維持されるのではない。「何もしないこと」をすることによってしか起きない。人間は他人の目を意識して、知らず知らずのうちになにかをしてしまう惰性・癖がある。例えば小舟が、海流中にあって何もしなければ、流され翻弄される。どちらにも流されないためには、エンジンをかけ、船首を海流に向け、海流と同じ速度で進まなければならない。海流の方向も早さも刻々変わる、一刻たりとも注意は怠れない。しかし他人からは「ぼーっとして」何もしていないように見えなければならない。でなければ猫は警戒する。

 数日後、○○さんのお母さんが、挨拶にみえた。控えめで品のいい人だった。

  ○○さんを連れてきた少女は、数学に於いては天才的能力を持っていた。数学の授業は熟睡していても試験は満点。 試しに最も難度の高い大学入試問題を与えると、暫く考えて易々と解く。しかも模範解答より美しく短い。字の配列もバランスがとれて美しい。明晰という言葉が浮かんだ。だが数学の教員は、やれば出来るのに寝てばかりいるとおかんむりで、いい成績はつかなかった。僕はその分野に進学させなければならない、と考えいろいろ試みたが、彼女はすっかり臍が曲がってしまっていた。

 学校は、生徒の才能を探り当て伸ばすことはなかなか出来ないが、漸く芽生え大きく成長し始めた才能を打ち砕くことだけは確実にやり遂げるのである。これがプラス・マイナスゼロならまだ救いはある、どう見ても大きな欠損である。


  北朝鮮を「突っ張るしかない」状況に追い込んだのは、米日韓。ソ連中国に接近した地域に混乱を巻き起こしたのは日米結託の「単独講和」であった。民族を一方的に分断し、片方だけに賠償したのだ。あたかも地球上に存在しないかのような扱いだった。「突っ張らなければ」完全に無視される。

    「・・・一年生の時は私たち別々のクラスで浮いてた。友達は出来ない、つまんないことで担任にガミガミ叱られてばっかり。でも負けたくないから突っ張るしかないじゃない」

 「二年になって同じクラスになって、似たもの同士ですぐ友だちになった」

 「それで、このクラス何となく居心地がいいのよ、先生もぼーっとしてるし、気が付いたら突っ張る必要がない、突っ張るって疲れるのよ、だからやめちゃった。そしたら親も急に優しくなるし、・・・」

 「だからさ、褒めてやってよ、えらいでしょ」 

 「えらいよ、二人とも。突っ張るのは疲れると気付いたのも、その友だちの変化に気付いて「えらい」と言ったのも」

 「私も突っ張るのやめるよ、ほんとだよ」

 北朝鮮は突っ張る必要が無くなったと僕は見ている。日本だけが急速に没落しながら突っぱれもせず、東アジアで「浮いて」いる。

ハイケンス「セレナーデ」が番組の開始を告げたのが午後四時半頃。  番組が終わるとどの家からも深い溜息が聞こえ、やがて祖母たちが、庭で遊びで明け暮れる子どもたちを見ながら「もう、こん子たちゃ、戦争に取られんでん済んとやなー」と繰り返す光景を思い出す。

  NHK、『尋ね人』は1946年(昭和21年)7月1日から1962年(昭和37年)3月31日 迄続いた。   1960年(昭和35年)の放送時間は、ラジオ第1放送で月曜日から土曜日の午後4時25分から29分。「セレナーデ」はそのテーマ音楽だった。

    当初NHKの『尋ね人』『復員だより』『引揚者の時間』の3番組があって、聴取者から送られた太平洋戦争で連絡不能になった人の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読し、消息を知る人や、本人からの連絡を番組内で待つ内容であった。やがて『尋ね人』一本に集約。

 放送期間中に読み上げられた依頼の総数は19,515件、その約1/3にあたる6,797件が尋ね人探しに成功した。集落全体が静まり聴き入った訳である。

   アナウンサーが淡々と読み上げた手紙の内容がここにある、←クリック  

  昭和20年春、○○部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。

 シベリア抑留中に○○収容所で一緒だった○山○夫と名乗った方をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。

 旧満州国竜江省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれていた方。上の名前(あるいは、苗字)は判りません。

 ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、××県の△△さんがお捜しです。

 昭和○○年○月に舞鶴港に入港した引揚船「雲仙丸」で「△△県の出身」とおっしゃり、お世話になった丸顔の○○さん。

 これらの方々をご存じの方は、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都千代田区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です。


 番組が終わるとどの家からも深い溜息が聞こえ、やがて子供たちの歓声が再び露地を駆け巡った。このひと時を戦中を耐え生き延びてきた大人たちは深い悲しみとともに、戦争放棄の憲法を持った喜びをかみしめた。

 祖母たちが、庭で遊びに明け暮れる子どもたちを見ながら「もう、こん子たちゃ、戦争に取られんでん済んとやなー」と繰り返す光景を思い出す。衣食住すべて不自由な明るい貧乏が、平和憲法を握りしめていた。


    しかし朝鮮戦争特需は、貧しい平和にとって中毒性の「毒饅頭」となった。握り締めたはずの貧しい平和は脆く崩れ去った。貧しさの中に平和を生きる思想が欠けていた。


苦い失敗を経てこそ「言葉をみつける」高校生

 下町の工高で教えていた頃、夏休みにはバイクの事故で死者や重傷者が相次いだ。高校生は原付の免許を取るや否や、夜通しで三国峠を目指していた。連続するカーブが彼らを惹き付けた。

 僕のクラスでも免許を取る者が続出。Tくんは学校近くに住んでいたため、通学には使わない。通学に使う連中は見つかれば停学、だから実にうまく隠す。

 Tくんの成績は一気に危険地帯に入った。夜間三国峠目指して遠出すれば遅刻も増える。説教したり脅したりでやめる連中ではない。親も息子に、バイクを取り上げるなら退学すると脅されてお手上げ。事故現場の写真を廊下に貼っても、「先生、俺たちは生の現場を見てるんだぜ」と笑われる始末。


   初冬の放課後、Tくんが社会科職員室に顔を見せた。

 「ちょうどよかった、話したいことがあったんだ」

 「だと思ってた。・・・でもよ先生、おれバイク売っちゃったんだ」

 「何ヶ月乗ってたんだ。思い切りが早いな」

 「二ヶ月、それがさ、雨が降った夜。一回りするつもりで出たんだけどさ、店のガラスに映ってる自分に気付いたのさ。オレ顔がでかくて、ヘルメットがちょこんと乗ってる。おまけに足は短い。それが雨に濡れてゴリラにのってる。格好悪いんだよ、恥ずかしくてうちに帰った。」 

   50ccのHONDAはよく売れていた。

 「格好いいつもりだったのか」

 「笑わないでよ」

 「格好いいのはバイクだけか、高校生向けのバイクを売る会社は最悪だと僕は思ってる」

 「そんでよ、ここに来たのはさ。先生が教えた『立場』という言葉を思いだしちゃった。自分が見たり思ったりすることと、他人が見たり聞いたりすることが全く違うことがあるってやつ。それが言いたくなった」


 こうして高校生は、苦い失敗を経て「言葉をみつける」。三年になれば『政治経済』で階級の概念に出会う。彼らは苦さと共に新たな言葉を獲得するのだ。その時彼は商品から自らを解放する。これはある意味でとても危険なことかも知れない。学ぶとは与えられた単語を記憶する事ではない。


 バイクと高校生を巡って多くの教師が、どれ程会議を重ねたことか。どんなに多くのレポートが綴られ、本が書かれ番組が作られたことか。すべてが無駄とは言わないが、その思いは消えない。多かれ少なかれ、それらは高校生に退屈な説教や処分を与える根拠となったからだ。


 最大の問題は、バイクの魅力を上回る授業を構想出来ない我々の能力にある。我々とは個人としての教師でもあるが、偏差値の高い学校には重点的に予算と特権を配分する教育行政でもあり、武器と金力に優しい政府でもある。そして何より「底辺校」から逃げ、特権を欲しがる醜い我らだ。いつも生徒と授業から意識を隔離していることに気付くこともない。

 黒澤明の『赤ひげ』で新出去定は、貧乏と無知に喘ぐ見捨てられた病人たちにこそ良い医者が必要と言う。「底辺校」にもとびきりの教師が必要なのだ。

  とびきりの教師を養成するのは、HONDAゴリラから自らを解放する言葉を掴んだTくんたちなんだ。よく見ろ、彼らは教師を振り回し教育の概念を根底から揺すぶる。こんな見事な高校生に鍛えて貰え。

子どもを「賞金稼ぎに育てること」と「子どもの尊厳」は決して両立しない

 

 「高度成長期にあった一九六七年の新聞のテレビ欄を見る。今と大違いなのは子ども向けアニメ番組の数である▼「魔法使いサリー」 「リボンの騎士」 「悟空の大冒険」…。午後六時、七時台を中心に一週間に十を超える作品がひしめく。子どもがたくさんいた時代らしい▼創成期のアニメ業界は子どものためによく働いてくれたものだと今さらながら感心する。」   2023/07/23 東京新聞「洗筆」



 高度成長期は子どもが大勢いたから、子ども向けアニメ番組が増えたのか。そうではないだろう。時代が大人が政治が子どもを大事にしていた。僕は団塊の世代だが、祖父母や両親、大叔父、大叔母そして近隣の大人達が「もう、この子たちは戦争に行かなくても済むんだね」と、ことあるごとに庭や路地で遊ぶ僕らを眺めながら語っていたのを思い出す。彼らにとって、「戦争放棄」は掛け替えのない喜びであった。

 今憲法そのものを槍玉に挙げる風潮の中で、大人たちは子どもの何に喜びを見いだしているのか。子どもをどこに向けようとしているのか。行政もメディアも子どもを「ゲーム」漬けにするのに躍起だ。全生徒に配布されるパソコン端末は「ゲーム」し放題。TVは公営ギャンブル中継の類いが花盛り。これは子どもを将来の「カジノ」予備軍と見て、期待しほくそ笑んでいるからに他ならない。子どもの尊厳はどこに行った。生きた存在そのものが大切ではないか。不確か極まる「稼ぎ」とは無関係でなければ尊厳は無い。善意のつもりの親や教師や行政が「稼ぎ」高に目を奪われた途端、大人から「子どもの尊厳」は消える。行政も教師もmediaも、愚かな「博奕」打ちになろうとしている。

 ソニー生命「将来なりたい職業」調査によれば、一位・youtuber 二位・プロe-sportplayer  三位・起業経営者 そして五位にはゲーム実況者 六位プロsportplayer  が2021年男子中学生に選ばれている。手っ取り早く稼げることへの圧力が高いことが読み取れる。

 こうした少年たちが大人になれば、稼ぎの少ない親や学校、資産の無い親や老人を蔑むに違いない。資産額や地位だけに目が向き、人間の尊厳への関心は絶滅する。既に政治はその方向に突っ走っている。出来れば資産や地位だけを残して消えて欲しいと言わんばかりに。大谷人気さえ所詮は資産価値にすぎない。球団にとっては観客動員収入、fanにとってはマニアグッズの値上がり。囲碁将棋人気も所詮は資産価値。

 この異常な狂気は「フランス人のペタンク好きや嵐寛寿郎の掃除好き」と比べるとよく分かる。このことについては、当blog平凡な自由」は青い鳥ではない に書いた。https://zheibon.blogspot.com/2019/12/blog-post_23.html

 われわれは、仕事やスポーツを人生の楽しみとして捉えることが出来ない。いつも勝ち負けや成果、そして興行資本の日程に縛られている。これはとてつもない不幸だ。 


米国制作「ベトナム戦争映画」にアメリカ先住民=インディアンが登場することは無い。何故なのか。

  合州国のベトナム戦争映画では、黒人やヒスパニックへの差別や偏見もあからさまに描かれる。だが、先住民=インディアンが登場することは無い。何故か。 

 合州国では黒人やヒスパニックは差別と偏見の対象であるが、先住民=インディアンは今尚「殲滅」の対象であり続けるからだ。 だから先住民=インディアン殲滅そのものをテーマにした騎兵隊西部劇映画には事欠かない、特に日本で好まれる。これも珍妙な現象である。           

 アメリカ「独立」宣言(1776年)から100年以上も経った

1890年12月29日、Wounded Knee Massacreが起きた。無抵抗のスー族インディアン一団に対する騎兵隊の民族浄化作戦である。虐殺を実行の第7騎兵隊には勲章が授与されている。

 英国から「先住民のいる新大陸」へたどり着いた清教徒は最初の冬(1620年)を越せず大半が死んでいる、辛うじて生き残った彼らを全滅から救ったのは神だろうか。こんな祈りをした者がある。

 わたしたちのうちの十人が、千人もの敵を相手にすることが出来るのを見るとき、また、わたしたちの植民地の成功を見て人々が「主よ、ニューイングランドのようにして下さい」と賛美と栄光を表白するようになるとき、わたしたちはイスラエルの神がわたしたちのなかに臨在されることを見いだすであろう。なぜなら、わたしたちは「丘の上の町」だからだ。全世界の人々の目がわたしたちに注がれていて、もし始められたこの仕事に関してわたしたちの神に不忠実であれば、神はわたしたちから去ってしまわれるのであり、わたしたちの物語は世界中に言葉によって知られるようになるからなのだ。(ジョン・ウインスロップ、マサチューセッツ・ベイ植民地の初代総督)

 そうではない、衣食住に難儀を極めた清教徒は現地の先住インディアンの好意(先住インディアンにとって、難渋する者に手を差し伸べることは「人間」として当たり前のことであった。)に助けられる。これを「神の思し召し」と見做し、インディアン殲滅を勝手様々に「合理化」する為に「神」は利用された。つまり神の許可を盾に先住民を虐殺。 1000万人以上を数えた先住民=「アメリカ・インディアン」は、50万人に激減してしまう。

 清教徒の或いはキリスト教の見解によれば、神を理解するものを奴隷とすることは禁じられる。しかし清教徒は先住民=「アメリカ・インディアン」を奴隷化。同時に数々の作戦で奴隷労働力を殲滅し続けた結果、奴隷の供給源を失い奴隷狩りを旧大陸に拡大してしまう。


 米軍指揮官ジョン・チヴィントン大佐は、メソジスト派牧師長老だった。或年の州議会議員選挙で演説している。  

  インディアンに同情する奴は糞だ!・・・私はインディアンを殺さなければならない。そして神の天国のもとではどのような方法であってもインディアンを殺すことは正しく名誉あることであると信じる。小さいのも大きいのも、すべて殺して頭の皮を剥ぐべきです。卵はシラミになりますから。


 建国の父にして第一代大統領ジョージ・ワシントンは、イロコイ族絶滅作戦で、

 「彼らを徹底的に根絶やしにするように」と指令し、殺したインディアンの皮を剥ぎとらせ、軍装の飾りにさせ、「インディアンも狼も生贄となるべきけだものだ」と述べている。


 清教徒は、先住民を対等な「人間」と認識することは無く、彼らにも守るべき土地・家族・文化があると考えることさえ出来なかった。彼らは旧約聖書に依拠しながら新大陸を約束の地カナンと見做して今尚占拠拡大して止まない。米国がIslael に加担しPalestine侵略と虐殺を積極的に支援するのは、米国の成り立ちに於ける先住民殲滅と略奪略奪を認めたくないからだ。

 同じ理屈は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ各地植民地化の「錦の御旗」として高く掲げられ夥しい虐殺・略奪を欲しいままにしてきた。  


  「すべてを共有する」というインディアンの文化では、土地は誰のものでもなく、みんなのものだった。


 1973年スー族保留地内の「ウンデット・ニー」で、スー族と「アメリカインディアン運動 (AIM)」が同地を占拠し、「オグララ国」の独立宣言を行った。この「ウンデッド・ニー占拠抗議」には、全米からインディアンが応援参加した。この非武装の先住民たちに対して合州国と州政府は戦車や武装ヘリで鎮圧。

 2003年、約100年に及ぶ先住民=インディアンの運動によって「カスター国立記念戦場」は「リトルビッグホーン国立記念戦場」に名称変更され、「インディアン記念碑」が建立され、地図と解説の書かれた石壁が設置された。この石壁には次の文言が彫り込まれている。

 “The Indian Wars Are Not Over.”



   追記 2023/07/27 nhkのbs1で 「世界のドキュメンタリー選 ▽われらの土地われらの手にハワイ立ち上がる先住民」を放送する番組案内にはこうある。
 かつてハワイでは土地は王のものとされていた。しかし19世紀後半以降、多くの土地が島外の人の手に。現在は絶景を望む海沿いの土地の多くが富裕層に買占められ、米軍に騙し取られ、先住民は祖先の墓に行くこともできない。オアフ島では今、ホームレスの4人に1人が先住民だといわれる。失った権利回復の闘いを続ける先住民たちの思いを伝える。 原題:Hawaii The Native Resurgence(フランス 2022年)
 米軍と自衛隊に苦しめられている沖縄先住民へのこの上ない励ましでもある。こういう番組は日本のメディアには望むべくもない。

人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。救えよ救え。子供・・・魯迅『狂人日記』

 

  ファシズムとは・・独裁者の言葉に突き動かされるのではなく、そんたくや自己規制、自粛といった日本人の『得意』な振る舞いによって静かに広がっていくということだ。  辺見庸

   授業以外の校務分掌や部活そして決定権のない会議が教師の日常を埋め尽くす。それらに共通するのは、抑圧され叩きのめされた批判精神と連帯の不能性だ。批判精神も連帯も自由な授業を通してのみ教室で共有され市民社会と結び合う。

 抑圧が一時的なら、人の精神は反発する。新鮮な知的可塑性が躍動するからだ。しかし血中酸素が切れるに連れ組織は壊死して悪臭を放つ。学ぶ青少年が抑圧された学校も、悪臭を放っている筈だ。それが仲間苛めや自殺、万引きなど不良行為として現れるのだ。これが自然界なら、異臭を嗅ぎつけた生き物達か瞬く間に食べ尽くし、環境を浄化する役割を担うウジ虫やシデムシもハゲタカも健康な社会には欠かせない尊い存在だ。見かけに引きずられ歪んだ判断をウジ虫やハゲタカに下すおのれの「健全」性を疑いたい。

 だが社会は「悪臭」に馴れてしまう。馴れること無く自由に知的可塑性を維持する者は迫害され始める。忖度はこの時、迫害する側に生まれる。

 社会が健全なら、仲間苛めや自殺万引きなど不良行為は自治的に克服される。忖度など要らない、それが風通しの良さだ。   

 今日の社会は、不快の源そのものを追放しようとする結果、不快のない状態としての「安楽」すなわちどこまでも括弧つきの唯々一面的な「安楽」を優先的価値として追求することとなった。それは、不快の対極として生体内で不快と共存している快楽や安らぎとは全く異なった不快の欠如態なのである。そして、人生の中にある色々な価値が、そういう欠如態としての「安楽」に対してどれだけ貢献できる ものであるかということだけで取捨選択されることになった。「安楽」が第一義的な追求目標となったということはそういうことであり、「安楽への隷属状態」が現れて来たというのも又そのことを指している。       藤田省三『安楽』への全体主義『全体主義の時代経験』

 もしある大学の入学式学長式辞がこの『全体主義の時代経験』に触れたものであったらと想像したくなる。なぜなら今大学に必要なのは、大学運営の風通しの良さの指針としての学生自治と学問の自由の砦としての教授会自治だ。 僕が想い浮かべるのは、国立大学の独立行政法人化が厳しく批判されていた時期・2010年頃だ。

   今この国では、猫や犬等が自然から「人為」的に切り離され「かわいい」ペットとして売り買い、狂ってはいないか。 同様に青少年が自由な市民生活から隔離され、ペット化される。現実の政治や市民活動から遮断された「人為」時環境で行われるのが「模擬投票」と名付けられた「政治教育」。毎年繰り返される制限だらけの八百長儀式。少年達は吹き出したくなるのを堪える。彼らが選びたいのは校長、生活指導方針や担任。学校行事や溢れる「序列」を変えたいのだ。・・・こうして少年達は次第に確実に「政治嫌い」「政治アレルギー」になる。それ故彼らは選挙権を手にするや、投票に無関心となり投票率を下げる。「部活」に狂っていた高校生が卒業と同時にsportsしなくなるのと同じ構図。

 これこそが「模擬投票」教育の狙い。人が人らしい社会を建設する行為としての政治そのものから若者を遠ざける、それはまさにヒトがヒトを喰うことではないか。魯迅は『狂人日記』の結末で主人公にこう叫ばせる。

 「知らぬままに何ほどか妹の肉を食わない事がないとも限らん。現在いよいよオレの番が来たんだ・・・ 四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。真の人間は見出し難い。・・・人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。救えよ救え。子供・・・

「たまには他人の立場になって考えなさい」

 

 一つの事件について語るとき、片側にだけ立って考えてみる公平さが必要です。たとえばあなたは、何も分からずに生きている愚鈍者は生きるイミがないといっているが、彼らの立場で彼らの幸福について考えて見たことがあなたにはあるだろうか。もしかしたらたった一輪の野の花が咲いていてよかったと考えることがあるかも知れないと思ってみるくらいのやさしさを持ちなさい。


 こう言ったのは寺山修司だったか。「何も分からずに生きている愚鈍者は生きるイミがない」との部分は、まるで石原慎太郎を名指するかのようだ。重度障害者の病院を視察した石原知事は「ああいう人ってのは、人格があるのかね」「絶対よくならない、自分が誰だかわからない、人間として生まれてきたけれど、ああいう障害で、ああいう状況になって」「ああいう問題って、安楽死につながるんじゃないかという気がする」などと会見で発言している。知事として初当選の99年の事だ。しかし寺山修司は83年に没している。

  石原は68年議参院選全国区に自民から立候補。史上最高の301万票で当選。75年都知事選では美濃部亮吉に挑戦し敗れ大きく挫折。97年衆議院に鞍替え反共を旗印に「青嵐会」を結成。寺山修司は未来の首都に不気味な思潮が吹き荒れることを感じていたのだろうか。


  「自分」があれば、「他分」がある。相手の立場にたって考えることが、我々の社会でどれほどあるだろうか。

  たとえばフィリピンで日本人将兵の慰霊祭、ここで50万人が死んで日本人関係者は涙する、感泣、慟哭する。これが自分。

 だが日本軍は現地のフィリピン人を100万人も殺しているのに、殺されたフィリピン人は慰霊祭から抜き去られる。ここには他分はない。


 官僚的宗教国家「イスラエル」には過剰に「自分」=シオニズムが満ち溢れ、古くからの住民パレスチナ人は暴力的に絶えず抜き去られている。宗教国家イスラエルには「他分」はあり得ないかのようだ。

 だがパレスチナ解放戦線(PLO)側には、右派も左派も「他分」で結束する。PLOはイスラエルの民との民主的共存を目指しているからだ。

                    

  「他人の立場に立つ」ことがこの学校社会でありうるか。今学校で時間や費用が割り当てられるのは、「公(おおやけ)」事である授業ではない。陽があたるのは、いつも部活や行事そして受験。これらは「公(おおやけ)」事だろうか、「私」事=「自分ごと」ではないか。  たとえば「卒業」は、学業が成就し学位を得た「私」個人の単なる通過点であり、それを祝うのも家族や友人たちの私的集まり。「部活」の中身は個人的な楽しみ。受験は個人の進路や興味に基づく選択。それらが集積巨大化し官僚化を経るにつれ、ゲゼルシャフト化し

て疑似「公」の色彩を帯びる。集積し官僚化の過程は、個々の特性は打ち棄てられ効率が優先する。こうしてゲマインシャフトはゲゼルシャフト化する。「他人の立場に立って考える」ことは、たまにであってもなくなる。アメリカ人に、原爆投下について「他人の立場に立って考える」よう促すことが絶望的であるように。我々にとって「北朝鮮の立場に立って考える」事が想像すら出来ないように。でも「たまには他人の立場に立って考えなさい」

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...