特権の廃止 / 修行は自らするもの

  

   「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明などはちょっといいようでもつまり駄目なものさ。これに反して東洋じゃ昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給え個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者の民蕩々たりという句の価値を始めて発見するから。無為にして化すという語の馬鹿に出来ない事を悟るから。しかし悟ったってその時はもう仕様がない。アルコール中毒に罹って、ああ酒を飲まなければよかったと考えるようなものさ」


 『吾輩は猫である』の猫の飼い主・苦沙弥先生の同学八木独仙の言葉である。ヤギ髭の哲学者ではあるが、仲間からは『無覚禅師』と呼ばれる悟りきれない「禅坊主崩れ」である。

 独仙が「自由を得た結果・・・みんな神経衰弱を起して、始末がつかなく(なる)」と言うところを、フロイトは

「ほとんどの人間は実のところ自由など求めていない。なぜなら自由には責任が伴うからである。みんな責任を負うことを恐れているのだ。」とストレートに言って見せる。

 「禅坊主崩れ」までが「アルコール中毒に罹って、ああ酒を飲まなければ・・・」と嘆く。だが飲まずにおれない。会食の「自粛要請」しておきながら、その晩には議員仲間や経営者と会食する政権党議員がうってつけの例だ。

 会食は奴らにとって「自由」そのものだ、黒塗り「公」用車を使って公費や接待費で飲むことを唯一の楽しみに議員になった連中である。国民には事実上禁じたものを自分たちには許す。では自粛要請を止めるかといえばそうはしたくない。政治からの逃避と攻撃され次の当選が覚束ない。そこに浮き上がる意識が「特権」である。自分たちだから許されるという都合のいい意識。彼らにとって「自由」とは特権のことでしかない。

 八木独仙の言うように、彼らには修行が足りないのだろうか。そんな上等な話ではない。そもそもなど修行したくないのである。彼らには、修行は自らするものではない。他人に命じるもの。

 修行としての「自由」。そんな大それた課題を自らに課した少女を、たった一人知っている。  

 自他ともに自由が誇りの自由の森学園中から、管理不感症の都立高へ来た少女。不自由の中に身を置いて、「自由」を実践的に学ぼうと決意したのだ。噂を聞いて僕は、闘士をイメージした。だが授業にでてみると、小柄な可愛らしい少女であった。彼女については『ノートは先生と私の共同作品』←クリック  で書いた。


  「光は闇でこそ輝く。不自由が自由を感じさせる。制約があればこそ不満が蓄積され、自由獲得への欲求が高まる。」などと管理職や生活指導部は言いたがる。まるで「自由は、自由のへの行動や意欲を失わせる」と言わんばかりだ。しかしこうした言葉に教育現場は痺れやすい。忽ち中毒する。しかしおかしなことに、政権党議員と同じように、自分を例外扱いにする。特権化=例外扱いの、おかしさに気付かない。気付かないばかりか、それこそが「指導」だと思い込むのである。おかげでこの国の政権党の教育政策は、修行で鍛錬される機会が敗戦直後の一時期を除いてなかった。だからあらゆる分野の国際競争力が、長い間見下げていたアジア各国に追い抜かれても、「クールジャパン」と自画自賛して能天気なのだ。 

 件の少女は、教師たちに果敢に立ち向かった。「修行」を忘れた教師相手に面と向かって授業を批判する姿勢と言葉は、「自由」を知る者の勇ましさに由来していた。

 批判によって自由を希求するのは、自由に伴う責任を引き受ける決意の表明であった。その姿は同学年の少年少女たちに刺激を与えずにはおかなかった。だから件の少女の学年は、他の学年より知的な開拓精神に満ちていた。僕は知的な精神は、集団に伝染することを疑わない。それゆえ、選別にはどうしても同意出来ない。

妙な写真

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 カメラの脇には大叔母がいて「良かねー、もういっき学校やね」と声を掛けている。そのたびに僕は少なくとも身内にとっての「百万ドルの笑顔」になった。妹はすっかり疲れている。

  この妙な写真(上下を切り取ってある)を撮った時期、我が家はどん底。米も買えず、僅か三年余の熊本滞在中に税務署の差し押さえが二度。ろくに家具調度のない長屋に複数の税務署員が上がり込み卓袱台や電球にまで札を張る傍で、母はただ泣くだけだった。食費に窮したおかげで、母のおからとラードを使ったおかずだけが旨かった。当時おからも肉の油もただだった。

   にも拘らずこの写真である。まるで付属小に入学する坊ちゃんのような出で立ち。写真館の費用などあったはずがない。表紙付きの台紙に張られて身近な親戚に配られた。

 学童服は祖母、ランドセルは大叔母、靴と上履き入れはもう一人の大伯母、写ってはしないが机と椅子は祖父、一緒に写っている妹の靴やバッグは叔母。そのお礼にと記念写真を配らせたは祖母である。

   台紙に貼り付けた写真、妹と並んだ入学記念など周囲の誰も撮ってはいない。

 贈り物には一つ一つに物語があって、大叔母か繰り返し語った。学帽は方々を歩き回ったが、頭が大きくてどれも入らない、泣きたくなった。取り寄せる羽目に。どれも大叔母が走りまわった。

 贈り物の一つ一つの由来がはっきりしている、にもかかわらず、帽子の送り主を僕は聴いた覚えがない。例えば学童服は、祖母が「あたいが購うじ、買わんでよかよ」と母に何度も念を押していた。


 学童帽は、恵楓園の祖母の贈り物であったか。写真は恵楓園の祖母のためだけに撮ったのではないか。

 眠ったままの面会は、誰の願いだったのか。

  最大の謎は、わざわざ熊本に住んだことだ。そしてそのどん底生活を、母は何故容認したのか。

 故郷にいれば、いくらか仕事はあった。 叔父の話によれば、国鉄や役場からの誘いがたびたびあり、県内の大きな市からは課長の地位の申し入れもあった。30そこそこの失業技師のどこに目をつけたのだろうか。「兄さんな、なんごち貧乏ば選んだかね。俺には分らんとたい」    続く


スマホやSNSは、信頼や連帯を育てない

  携帯抜きの日常を形成できなくなった高校生と、携帯に依存しない高校生への実験による京大霊長研が、興味深い分析結果を公表したのは2003年だった。


 実験の報酬として五千円を渡された実験参加高校生たちは、互いに面識のない者同士に分けられ、投資をする。五千円すべてを使って相手に儲けさせるかどうかを決める。選択肢は五千円すべてを使って投資するか、全く使わないかの二つしかない。投資をすると投資した側には見返りがないが、投資された側すなわち五千円を受け取った側にはさらに一万円が与えられる。最初に五千円を投資するかどうかを決断した後でもう一人はどうするかを決断する。従って最初に決断する側は、相手がどう振る舞うかを全く知らない。

  非ケイタイ族は、自分自身が最初に決断する側になった場合、約八割が五千円を投資し相手に渡す。対してケイタイ族で同じ決断をするのは二割。

 相手から投資を受けた場合どう振る舞うかでは、非ケイタイ族の95%が相手にも投資するのに対して、ケイタイ族の場合は投資を受けても相手に投資するのは四割弱。相手が投資しなかった場合、非ケイタイ族の半数弱が投資するが、ケイタイ族では僅か5%にすぎない。


  この実験からわかるのは、非ケイタイ族が利他的に行動したこと。そしてケイタイ族はの振舞いは利己的で、相手が利己的判断した場合には応酬的で裏切り的であった。

 自分自身が投資を受けなかった場合でも相手に投資し所持金が零になったとしても、ふたりの合計は増える。結局どちらが得するかを計算すると、平均でケイタイ族が当初の報酬額程度しか得ていないのに対し、非ケイタイ族は約倍の額を得ている。非ケイタイ族が未知の相手に対し冒険的に相手を信頼するのに対し、ケイタイ族は自己の利益に囚われ利己的に振る舞ったにもかかわらず、非ケイタイ派が二倍近い利益を確保しているのである。


 ケイタイに対する依存が、事柄の関連性を破壊断片化するだけでなく、人間的な連帯や関連性さらには社会全体の豊かさまでも砕いてしまう可能性があることをこの調査は示唆している。こうした信頼をもとに形成されるのが「公」の概念であり、その中に自然に生まれる態度が「連帯」である。


 クラスやクラブで利他的かつ自律的に行動する生徒たちが、ケイタイの使用を全くしないか強く抑制している者であることは経験的に断言できる。同じことは答案の質についても言える。


 非携帯派の生徒たちは利他的に振舞うことが出来、結果的には自他ともに利益を得ることができる。

 企業を経営する場合、社員に労組活動や市民活動を保証することは株主や経営者の利益を損なうと考えてしまう。そんなことより政権と癒着することに投資して、竹中平蔵の如く「首を切れない社員なんて雇えないですよ!普通」をパソナで実践し、住民票を米国移動して住民税逃れをすれば、自身は海外資産数千億円を噂される迄になる。しかし彼の提言を受け入れ実践してきた日本の競争力は惨憺たるものとなった。

 

  物事を計画的に実施したり、結果を予想するには、たっぷり時間をとらねばならない。これがなければ、傲慢に振舞う幼稚性から脱却できず、人間らしい理性的判断ができなくなる。

 通信だけでなく、地図による案内、買い物の決済、電車の乗り換え案内など便利な機能が満載のスマホ。授業の板書にも、分からない言葉即座に調べる便利な学習道具でもあり、ゲームの機能まで組み込まれ一時も退屈させない。しかし人間が成長するには「暇」は欠かせない。静かで永い時間が無ければ、ヒトはものを考えられない。「我慢」も時間をかけて考える行為の一つである。だから未来を予想する緊張ある主体的行動となる。


 「お喋り」や「よそ見」を恐れるのではなく、スマホや携帯で断片化される思考を恐れねばならない。

 思考が成立するには長い連続した時間が必要であることを、KH高(当時学区最底辺校と見られていた)で偶然経験したことがある。カリキュラム編成の移行過程で「現代社会」が2単位から3単位に増えた年があった。かつて社会科(政治・経済・社会、時事問題、世界史、日本史、東洋史)すべてが5単位であった。それが今や「公共」と道徳紛いの教科に名まで変え、わずか2単位。すべてが断片化する中で、思考までが断片化されては批判精神の育ちようがない。何故なら批判精神は、それ自身長い歴史の産物なのであるから。


  全盛を極めるケイタイ的世界に学校までが依存している中で、連続的に思考することは困難なことに違いないが、高校生になってそれがどうなっているのか見る。


 僅かな単位数の違いに、生徒たち自身の社会あるいは報道に対するものの見方がどのように変化してきたのかについて述べているものが答案にあった。いくつか抜き書きする。  


◎ 中学生の時なら、私はこの記事を読んでも、日本人が殺されたという事実にしか目を向けなかった。

 彼女は二人の日本人外交官の死を悲しむと同時に、不条理な戦争で殺されている一万人に及ばんとするイラク市民の死について考察を進めている。そして始まる前にこの戦争を止められなかった自分たちについても。


◎  隠しカメラについて。中学生の頃なら私は、国の決めたことだし仕方ないと考えたと思います。今の私はそれはよくないと考えます。街に防犯カメラがあると言うことは、常に国から監視されている事だからです。常に見られているということは、自分自身の自由を損なう事だと思います。・・・常に気を張って、見られていると意識しなくてはならないと言うことは、人間としての自由が無い。

◎  中学時代の私ではこんな事は考えなかったと思います。おそらく犯罪が起こっているのであれば使わなければよいとか、問題のサイトを消してしまえばよいとか考えていたでしょう。

 情報化する犯罪の増加と進化を、社会的弱者にとってのITの有効性とのバランスにおいて考え始めている。


◎  少し前の私だったら、もし家族の誰かがガンになったらどうしようとしか考えなかったと思う。しかし今は自分の将来や患者について様々に考える。 

◎   私は今まで人と話し合うということでは、自分の意見をあまり言わず、人の意見に左右されてきた事が多い。このままでいい、これからもと思ってしまっていた。しかしこれからは少しずつ意見を言おうと思う。意見を言うことで、人とのぶつかり合いもあるかもしれない。その時は自分の考えを曲げることなく、人の意見も取り入れていきたい。相手に自分のことが少しでも解ってもらえればいいし、自分も相手のことが解り一石二鳥。口で言うとこんなに簡単な事が実際はなかなかできない。身近な問題ならともかく、世界や日本のことという大きなテーマでは簡単にいかない。でも、立ち止まって考えることが大切だ。

 この生徒は、家族の問題から世界の問題までが暴力的に処理されつつあることに驚き、報道が伝えない平和的な解決について、もう流されないで考えようとしている。

 『自分の考えを曲げることなく、人の意見も取り入れていきたい』という表現の中に、この生徒の自己形成の悲しみが見えている。人の意見との対話の中で自分の意見も相手もともに成長する経験をしていない。だから人の意見を取り入れることはすべて自分をまげることでしかなかった。


   社会全体が思考を断片化し短いメッセージしか受け入れない時代に、それでもと言いながら抵抗し考え疑い続けるのが青年ではないか。

 メッセージが断片化し、遠い仲間との会話を優先するのは、猿の会話の特性でもあるという。目の前にいる相手の表情を読みながら対話することを避け、ケイタイによって離れたところにいる表情の見えない仲間と絶えずつながっていなければ不安であることは、現代人の知性の終焉を警告しているのかもしれない。

 1970年元旦の朝日新聞が、有識者にアンケート調査したなかに「コンピュータをにくむ人がふえるか?」の項があった。「ふえる」と答えた人が32人。多くの知識人が最先端技術による利便性の陰に危険を予測していたにもかかわらず、我々の社会は有効な対策をもてないでいる。

  なぜものを考えるには永い静かな時間が必要なのか。ゲームなどの依存性の「誘惑」には即座に反応するのに、「考える」ためには、どうも一定のウオーミングアップが必要らしい。それをゲームや通信がいとも簡単に断ち切ってしまう。


ものを・・・正当にこわがることはなかなかむつかしい

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  『ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい』

と言ったのは、寺田寅彦である。それゆえ、彼は人々が無暗に恐れる現象に根拠がないことも見抜くのである。


  「大学の構内を歩いていた。病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。

 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。

 そうして、「おとうちやん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした」 寺田寅彦(大正十二年三月)


 科学者には、人々の認識を迷信や魔術から解き放つ社会的任務がある。実態を見抜き本質を追及してこそ科学者である。自由は科学者の属性、僕の父も在野の数学者でもあった。    

 父と祖母の姿も、寺田寅彦の描いた親子のようであった筈。しかし僕は祖母の顔を想像出来ない。表情が浮かばない。顔に症状が現れた祖母に向かって、「ばぁちゃん」と抱き着いただろうか。就学前の僕は無類の泣き虫で、父や母を困らせていた


 父方の叔母は「直兄さんな、勉強はよく出来やった。ばってん、でひな母ちゃん子でな。妹のあたいから見てん甘えん坊じゃった」そう言いながら古いアルバムを見せてくれた。「でひな」とは、たいそうという鹿児島弁である。写真には坊ちゃん顔をした旧制中学生が、上等そうな小倉の夏服に高下駄姿で庭の石垣に腰かけている。


 祖母の名「トメ」には、子だくさんに悩んだ曾祖父の願いが込められている。

 「松原トメ」の名を、「菊池野」(恵楓園自治会機関紙)に見出した時、眠ったまま面会したのは祖母かも知れないと考え始めた。祖母が父を産み育てた土地の通称が松原であったからだ。

 当時ハンセン病者は、療養所への「収容」と同時にそれまでの衣服も名も捨てさせられた。名を改めたのは手紙で感染の事実が知られ家族に迷惑が及ぶのを恐れたためである。迷惑を恐れて自死する者、親族による射殺や一家心中事件も後を断たなかった。それは偏見が人々にもともとあったからではない。

 全生園ハンセン病図書館にガリ版刷りの古い「無癩県運動」一覧表があった。自宅で療養する患者を療養所に囲い込めば、ハンセン病が消えるがごとき動きを行政と専門家が先頭に立ってやったことが「無癩県」という名称に現われている。治療の観点ではなく絶滅隔離の視線が伝染力の極めて弱い病気に投げ掛けられたのである。偏見や差別が先にあったのではない、意図的に作られた結果なのだ。(収容患者の範囲が浮浪患者から全患者に拡大され始めたのは、1925年衛生局長通達からである。狙いは窮乏患者を救うためではなかった。重症患者等の園内重労働の担い手を確保する狙いであった。1931年癩予防法から本格化する。

 現在の鹿児島県webサイトには、「昭和4年頃からは,各県において,ハンセン病患者を見つけ出し強制的に入所させるという「無らい県運動」がおこり」と、行政の作為を恰も自然現象のように記述している。事実は、県が「無らい県運動」を組織したのである。おかしな話である。療養所に送り込めば、なぜ「無らい県」なのか。

 療養所は厄介者の捨て場としての「外地」なのか。作家島 比呂志は、療養所を『奇妙な国』と呼んだ。その国境内は「日本」ではなかった。この国では滅亡が国家唯一の大理想であり、子孫を作らないために男性の精管を切り取ったのである。子どもも義務教育から除外。やがて死に絶える子どもには未来はないと断定した。

 

 1905年の帝国議会では、ハンセン病をペスト並みと決めつけ隔離を要求する議員に、内務省衛生局長は、

「(伝染病予防法は)急劇ナル伝染病ニ対スル処置デアリマスカラ、或ハ隔離ト云ヒ、交通遮断ノ如キ、其他此多クノ処置ハ、癩病ニ対シテ、直チニ適用ハ出来難イ」と隔離を退けていた。

 ところが初代全生病院長になる医師光田健輔は、渋沢栄一とともに「ペスト並みの怖い病気」という誤った印象形成に精力を傾け全国を遊説したのである。


   これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れない。    渋沢栄一  

   ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差ない。  光田健輔 

  

 猛毒性のペストを引き合いにした「恐るべき伝染病」という極端な誇張は、資金集めと偏見助長の格好の標語となった。だが言葉の偽造は、我々を真実の発見から遠ざけ、実態や本質を隠蔽する。(コロナ対策行政が、繰り出す「ウイズ コロナ」や「新しい生活様式」などの標語も、コロナの実態と対策から国民の視線を遠ざけている)それを街の煽動屋ではなく専門医と渋沢がやったことに恐ろしさがある。僕が渋沢を新しい日銀券にふさわしくないと主張するのはこのためである。

   1953年からの2年、熊本市黒髪町の龍田寮児童(ハンセン病療養所菊池恵楓園入所者の子弟)通学をめぐる全国的事件があった。龍田寮事件とも黒髪校問題とも言う。この事件の最中僕は、堀に入って遊んだことになる。

 文部大臣や大学が混乱の調停にあたったが、同盟休校にまで発展、 1955年秋から子供たちは、親戚や熊本県内10か所の児童養護施設に極秘に引き取られた。

 この年に開校したての詫間原小学校に入学。この学校と黒髪校は、熊本市中央を流れる白川を挟んで、歩ける距離である。

 そこで、施設から通う三人組の一人と同学級になった。陰あるその子に妙に惹かれて遊びに誘った。しかし放課後になると、「施設のおばさんに遊んじゃいかんと言われとるけん」と三人で逃げるように帰った。校門の上から三人が白川にかかる橋を渡り、丘の麓に見えなくなるまで見ことがある。彼らの一人がひょっとすると「松原」君ではなかったか。父のすぐ下の妹も祖母と同じ時期に戸籍から消えている。ハンセン病療養所の夫婦は断種を強制され子どもを持てなかったが、恵楓園では患者が出産したケースがある。

記 画像は寺田寅彦、後方に写っている女性が母のアルバムにあった父方の祖母に似ていて気になる。       続く

戸籍から消えた祖母がくれた学童帽

 「ハンセン病療養所多磨全生園」で、塹壕のような溝が掘り起こされたのは2016年12月。開設当初から患者逃亡を阻止のために設けられた。新聞は発見と報道したが、おかしな言い方だ。古代の集落跡であれば、知るものも記録もないから「発見」と言えるが、この逃亡防止の溝で隔離された元患者は生存して、その生々しい記憶は今なお生きている。


 残土は積み上げられ土塁となったから溝はかなり深く急斜面、目や手足に障碍を持つ者が落ちれば這い上がれない。一度隔離されば火葬場の煙となるまで外には出られない。絶滅隔離を知らしめるおぞましい遺構である。

   

  この溝に入って遊んだ微かな記憶がある。小学校入学直前、少なくとも三度。熊本電鉄に乗り、大きな森のある駅でおりた。谷や資材置き場で遊び弁当を食べたまでは覚えている。資材置き場で足を滑らせてて出来た膝の傷は、今もはっきり残っている。帰りは父の背。

 新調の学童服・学童帽・ランドセルを着用して出かけた日もある。「汚れるから遊べないよ」と問うと、父は「今日は学校に行く練習じゃ」と答えた。


 この時の記憶が甦ったのは、菊池恵楓園と土屋文明の関わりを調べていた時だ。アララギの普及を目指して土屋文明は絶滅隔離政策下のハンセン病療養所にたびたび足を運んだ。

春の日に並びて吾を迎えくれし合志村の友らよ一年過ぎぬ          1938年『少安集』

と土屋は詠んでいる。熊本の北方に位置する合志村は、恵楓園の所在地である。

 その時を、 菊池恵楓園の畑野むめさんは 『検証・ハンセン病史』 河出書房新社刊  の中でこう証言している。

 

  「土屋文明先生は、弱い人によくする方でねえ。・・・前はね、外からここに来るなら、この患者地帯(溝で隔離された区域をそう呼んだ)に入るときは、目の少し出るくらいの大きなマスクして、予防着着て長靴ば履かにゃ、入られなかったの。参観人は皆そんな格好して入ってきよった。消毒液が置いてあって、そこを通って入ってきよった。 土屋先生はね、最初から私服のまま、とっとと入ってきて。自分の服着たまま重病人のところに行って、話をしたり。そういう人だったよ。 昭和十二年(1933年)においでたときも、(講話で)高いところにするような造りしてあるでしょう、それを「こんなものは取られんかね」て言うて。下りて一様に話したいってね。偉い人だけど、そういうふうな親しみやすい先生だったな。だけど、みんな畏れとったよね。「黒鉄の文明」とか言ってね。歌には、やかましゅうしておられた。畏れられちゃおったけど、弱いもんにはよかったなあ」


 文明がやってくる日、菊池恵楓園の歌人達は不自由な手足、不自由な目をおして門まで出向き歌人土屋文明を感激させている。白い隔離の壁を纏ってどうして、言葉と心の遣り取りが、共感相互理解が出来ようか。それは年齢、時代を問わない。


 その門の写真を見付けた時、僕は「溝」がどこに在ったか、なぜ父が入学直前の僕を三度もここに連れてきたのか。その手掛かりをつかんだ気がした。

 恵楓園正門は停車場の北に接し、「溝」は電鉄「御代志」停車場から北に伸びる線路伝いの森の中にあった。それが子どもには自然の谷に見えた。恵楓園の前身、九州7県連合立九州らい療養所は、「多磨全生園」と同年1909年開設。遊んだ1954年には側面も崩れ、森と一体化していたに違いない。


 気絶するほどの大怪我だったが、帰宅時には綺麗に包帯が巻かれていた。妹がいなかったのも。弁当の後眠ってしまったのも、次第に謎が解けた。小さな妹には僅かに感染の可能性があったが、学齢以降の子どもや大人には感染しないことを父は既に知っていたのだと思う。

 恵楓園正門を抜けた先の面会所に、眠り込んだまま誰かに面会した。「学帽・ランドセル姿」の僕を見たいと父に懇願したのは、誰だったのか。土屋文明を門まで出迎えた中にいたかもしれない。 祖母は和歌を嗜んでいたと聞く。   続く


クラブは教育の一環ではない

 「スポーツ体罰死を克服できない日本に、olympic開催の資格はない」

   宝塚市立中学柔道部顧問教師が、「部活動」で生徒2人に重軽傷を負わせ、「指導の範疇をはるかに超えた。体罰とすら呼べない」として懲戒免職になった。暴行傍観の副顧問も減給処分。

 驚くべきは、体罰や傷害で教職員が免職となるのは異例であることだ。この男は生徒がアイスキャンディーを食べたことに立腹。投げ技や寝技で背骨を折る重傷を負わせた。過去にも体罰を3度繰り返し、減給などの懲戒処分を受けていた。男は「最初は厳しめの指導と思っていたが、大変なことをやってしまった」と反省しているという。だが、免職処分がなければ「指導の一貫」と居直っていた可能性を否定できない。県教委は指導監督が不十分だったとして、校長も戒告処分。宝塚市長は「一歩間違えば生徒を死に至らしめた事件。厳しい結果は当然」と語っている。

   同じ兵庫県の神戸高塚高校校門圧死事件から30年経って、も体罰依存の「部活」構造は硬い。

 そんな国が、オリンピックに浮かれる資格はない。iocも「中高生のスポーツの体罰死を克服できない日本に、olympic開催の資格はない」と言う資格がない。利権太りの「スポーツ貴族」体制自体が、スポーツマンシップに程遠いからだ。 そもそも一体彼らはどのように選ばれているのか、そんな組織が一国の財政に平然と手を突っ込む事が許されるのは何故か。世界中が問うこともない、怪しさ漂う「聖域」である。

 校門圧死事件当時の兵庫県高校生徒指導協議会は、「校門」立番を高く評価していた。文科省の学校安全「研究指定校」でもあった。だからだろう、現場に付着した被害生徒の血痕は、警察到着以前に学校が流し去っていた。教育行政の「安全」意識が生徒の日常に向けられることはない。

 あれから30年も経って、ようやく「体罰による免職」という現実が示しているのは、30年もの間体罰死は「熱心さのあまり」の「指導の一貫」として処置してきたことに尽きる。  殺人を「処置(弾薬も食料も尽きた戦場で、動けなくなった兵を殺す命令をそう呼んだ)」と呼ぶ習わしは、旧帝国陸軍が蔓延させたものである。

  殺人教諭は懲戒免職、校長を戒告、教頭と教育長を訓告、教育次長2名を厳重注意、校門を閉めようと言い出した教員や生活指導部長に対しては処分は無かった。
 殺人元教諭は、有罪確定直後「警察的な校門指導を正義」と自著に書いた。皇軍から連綿と続く「犯罪を言葉で言い逃れる」「日本の麗しい」この伝統は、前首相の言行にも引き継がれている。

 そもそもクラブは学校教育の一環ではない。明治の日本人は倶楽部と書いた。教員も少年も対等の立場で「play」を楽しむ余暇活動である。中学生も街の叔父さんも校長もスポーツ愛好家として対等だから、体罰やパワハラがあれば告発も退会勧告もできる。加入も退会も自由である。
  
教育行政はこの自由と平等が嫌いだ。年代を貫く自由と平等は、地域活動を通して連帯と民主主義の精神と行動を養わずにはおれないのだ。

旧制弘前中生のストライキ

 旧制中学生や旧制高校生が、社会問題に関心を持ちストライキを組織した自治の「伝統」から少年/少女を隔離する手立てとしては「部活」ほど手軽で硬い物はない。1973~2001まで続いた高校の必修クラブ制度は、高校生から自治の精神打ち砕いた。上級学校への推薦制度につられて、自ら進んで体罰・パワハラ地獄に365日朝から晩まで熱中するのだから。


 満州事変の1931年、『東奥日報』は「弘前中学四五年生徒 全ストライキ」と三段抜きで報じている。生徒300人が、教師の体罰に抗して嶽温泉に籠城したのである。

 この嶽のストライキ「決議」は「弘前中学校当局の教育方針を見るに只欺瞞と矛盾と暴力である故に我等はその非なることを和平的態度を以て再三それとなく指摘して三省あらんことを求めた然し三省は愚か我等に対する当局の態度はますます激しくなるのみにして一つとして教育の根本的精神即ち人格を養成する教育は行はずここに於て我等は・・・時代錯誤的な教育精神を打破し弘中百年の禍根を断つべく」と続き、最後に葛原校長と長谷川、立石教諭の二人の辞職を要求している。教師の暴力が発端であることがわかる。

  奈良県では女子小学生までが教師の教授不熱心に抗議、同盟休校している。  

 選挙権を持つ高校生が体罰で殺される事件が絶えないのに、ストライキやデモも無い事に大人は危機感を持たねばならない。 

オンライン授業には「眼差し」がない

 「・・・Iさんの表情が忘れられない。彼女は劇の台本にも配役にも道具にも関わらなかったのだが、嬉しげに毎日の練習や準備を熱心に見ていた。あんなに見つめられたら手を抜けない。僕は観客の役割ということを考えざるを得なかった。
メアリー・カサット( 1844- 1926)
それは授業に於ける生徒の役割に通じている。    発言するでもなく、手を挙げるわけでもない、眼差しと聴く耳だけがアクチブな生徒は少なくない。しかし彼女のその場に於ける役割は、決して小さくはない。静かであってもその表情は確実に演者に熟考を促す。もし演者=教師の感性が鈍感ならばその意義に気付かないに違いない。」

  僕はblog「多数決とコンセンサス 続き」にそう書いた。

   オンライン授業は「眼差し」・「聴く耳」を持たない。見つめる眼差しや聴く耳の一途さを察知できない。オンラインで話す者とみる者の眼差しは、機構上一致しない。モニターのカメラはモニターの外部にある。聴講生が画面の話者に焦点を当てれば、話者の画面では眼差しはズレる。互いの眼差しが一致して初めて、同意や同感の「うなづき」は生まれる。異議を唱える表情も眼差しが一致していてこそ、鋭いメッセージとなる。  

   独学の画家メアリー・カサットが描いた一連の母子像はそれを雄弁に語っている。

 
 
「一致しない眼差し」をcomputer技術は「克服」するだろうか。モニターの真ん中に見えないカメラを置くか。あるいは眼差しを仮想的に演じる助手を聴講生の中に仕込むか。・・・
 
 今既にオンライン授業システムを通じ個人データーを盗んだ詐欺事件が頻発し始めている。それを防止するシステムも登場し、やがて膨大な手続きや仕組みが有料で組み込まれるだろう。
オンライン授業は、今のうちにやめておくべきだと思う。
 人類が「対話」を初めて何十万年だろうか。永い時がヒトの眼差しを絶妙な手段に高めた筈だ。その生の眼差しに勝るものはない。たとえ赤ん坊であっても、苦もなくこなせる眼差しは我々人類に組み込まれている。
 「やがて電力料金は二円になる」と聞く者を惑わして始まった原発が、手のつけようのない事故や災害に見舞われ想像を絶するコストを生んでいるように、安全で絶妙な「オンライン授業」は高くつく。膨大なコストは、それ自体が巨大な利権となる。あらゆる利権は「聖域」化して批判を寄せ付けなくなる。

 

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...