答案を時間内に仕上げられない 何が問題か Ⅰ

  巧みな指先・卓越した記憶力・賢さ・美しさ・を「個性」と呼び賞賛する。その逆の不器用さ・鈍い記憶力・愚鈍さ・醜さを人は何故「個性」と言えず、恥ずかしがり隠すのか。それは前者は金になる=「儲かる」からだ。それだけを価値とする社会。しかし後者も紛れなく「個性」である。その人・その子らしさを表している。

「たわし」とあだ名されていた頃の四谷二中を思い出す。

Z君が自分の通信簿を広げ

 「たわし、お前の通信簿見せてくれよ」

 「・・・お前の成績と俺の成績は丁度反対だね」明るく言う。洟を垂らしながら。

 「たわしの成績と俺の成績を足して二で割ると真ん中の三になる。・・・なぁ、おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、たわしお前はないんだ。だから俺たち親友なんだ」と顔を覗き込むようにして言う。周りの連中も爆笑しながらのぞき込んだ。彼とはクラスを挙げての「カンニング」を組織して以来の長い親友だった。 

 A君(彼は高倉健と菅原文太を合わせた顔貌風体で喧嘩も滅法強かった。その彼に「なあたわし、数学って面白いかい、俺にも教えてくれよ」とせがまれ何時の間にか「面白いな、宿題つくってくれよ」と言うようになった。しかし彼も愚連隊の一員としてのケジメはあり、決して教師から教わろうとはしなかった)に数学を教えている時、Z君も寄ってきて「俺にも教えてくれよ」と仲間に加わり、「分かったよ、たわし有難う」と、青洟を垂らし笑うのだった。だがテストになると、零点。僕に向かって零点のついた答案を見せて、ニコニコする。忘れやすい奴だと思っていた。しかし今になって気が付くのたが、彼は点数を取ることに興味がなかったのではないか。分かる過程は楽しむが、点数を競って我を張ること(頑張る)はしない、そういう世界観を持っていたと思う。他人を蹴落とす事に強い嫌悪感を持っていたのではないか。

 卒業間際には、べそをかきそうな顔して

 「俺たちと二中のこと、忘れないでくれよな。・・・でもきっとお前、俺たちのこと忘れるだろうな・・・」と僕の同意を促した。この時彼は、偏差値と相対評価の理不尽を正確に見抜き、それを僕に伝えていたのだと思う。

 「偏差値に囚われるな」と教師は誰も教えなかった。その仕組みを繰りかえし強調しただけだ。

 軒下の高い窓を拭くのも、暖房のコークスを運ぶのも喜んでやった。骨惜しみを知らない根っからの善人だった。忘れがたい思い出の数々に彼がいる。住んでいたのは、新宿天竜寺の裏、旭町の木賃宿。着ている制服も粗末だったが、それらが彼の快活さを妨げることはなかった。そのZ君と「寒山・拾得」や内村鑑三の賞賛した「智き愚人」=ダルガスが重なる。 

 「たわし、俺たちのこと忘れないでくれよなぁ。・・・あぁ・・・お前やっぱり俺たちのこと忘れちゃうだろうな」とべそをかきそうになったのは、効率や偏差値が社会全体を覆い尽す事態に反撃出来ない悔しさであり、親友が偏差値の魔界に引き込まれる事への警告でもあった。

 A君の懸念通り偏差値に溺れたのは、僕だった。僕が四谷二中にいた頃は、偏差値はまだ偽偏差値と言うべき段階でしかなかった。危うい制度が始まろうとする時、鋭い警告を投げかけるのは「優等生」ではない。

 公教育が荒廃の気配に包まれた頃、「(民主的)管理主義」や「毅然たる指導」の言説に惑わされずにすんだのは、彼らの思い出のおかげである。二中を取り巻く歓楽街の荒廃や大学紛争時の青年の閉塞極まる状況に比べれば、バラック作りの荒れた教室も僕には「花園」だ。      

  

  「おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、たわしお前はないんだ。だから俺たち親友なんだ」 

 

   今日本ではあらゆるmediaが、明けても暮れても勝負事絶賛一色だ。sports・公営ギャンブル・囲碁将棋カードゲーム麻雀・ゴルフ・・・商業化とプロ化が華々しく煽り立てられ、子どもまでが巻き込まれる。だが賞賛されるのは、獲得賞金額・世界大会メダル数(日本の)・・ばかり。fair「play」の楽しさやgentlemanshipの公正さを投げ棄てた独占欲。


 勝ち組の賞金が膨らめば、敗者のsaftynetは消滅する。勝者の賞金は
敗者の賜物なんだ。栄光が輝かしい程、挫折の陰は暗く寒い事を知らねばならない。スーパーサイエンスハイスクール如きを賞賛すれば、その対極に荒れる「底辺校」が必ず出現する。
 これはA君の懸念した「おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、お前はないんだ。」ではないか、それが半世紀を超えて続いている。負ける者のおかげで勝てる者がある。負け続ける国があるから、常勝の国もある。
 勝ちだけに拘れば、そこには「だから俺たち親友なんだ」が欠ける。


   それ故、「定期試験の答案を時間内に仕上げられない生徒たち」の人権保障は少なくとも社会科を講じる僕の義務だ。どうやったのかは次回に、疲れたから休む。

父の深い闇

 懐かしい、この1年何度同じ趣旨の手紙を書いただろうか。書いては捨て、捨てては書いた。僕にとって故郷は全てが好ましく懐かしい。だが父には全てが疎ましかった。何故か。

 ことの始まりは、ふたつの偶然。一つは鹿児島県作成(1929年)の無癩県運動ガリ版刷り一覧を、全生園図書館で発見したこと。当時の鹿児島県南諸県郡S村大字帖は広いこともあって癩患者と判断された人も少なくなかった。僕の本籍もここにあった。府県は競うように「警察」権力を用い「患者狩り」を強行。癩は治療すべき病気であり、犯罪ではない。

 当時癩病院(療養所)は患者絶滅収容を掲げ、十年で日本全土から「癩」を一掃すると豪語した。絶滅隔離政策立案扇動者(「救癩」の父と呼ばれた光田健輔と渋沢栄一)は、伝染性の極めて弱い癩病をペスト並みの伝染病と偽り国民の恐怖を煽った。癩病そのもので死ぬことは滅多になく、怖いのは警察権力を使った患者取り締まりと絶滅隔離であった。日本政府が新一万円札の肖像に使おうと画策しているのがこの渋沢であり、相棒の光田には文化勲章が授与された。

 もう一つは熊本菊池恵楓園(ハンセン病療養所)患者自治会機関誌「菊池野」に「松原トメ」という筆名を発見した事だ。癩患者は収容時に戸籍や名前を捨てる事が多かった。世間の身内との縁を断ち切る為だ。恵楓園には患者による和歌のサークルがありアララギ派の土屋文明が、遠方より自費で指導に駆けつけ患者歌人を大いに励ましていたと言う。 松原はトメ婆さんが住んでいた集落の俗称。


 祖母は癩者狩りの犠牲者だったかも知れない。そう仮定することで漸く解ける謎が、父・直の周囲に幾つもある。

 「謎」=微かな疑惑は母の遺品整理で確信へ近づく。『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)はその解明の途上で生まれた研究。人はこの本を、「ハンセン病」の授業の実践記録考えるが、授業実践記録の類いは書いてない。書いたのは、日本の最も暗い闇と野間宏が言ったハンセン病療養所に収容された人々の生き様、抵抗、思想、歴史である。 

 母の書棚の奥は手紙や日記の束で埋まり、板や畳とともに虫に喰われていた。女子師範生徒の母と高等工業学生の父が交わした恋文も。


 この謎には苦難の色が付きまとう。それはドストエフスキー作品に劣らない。ドストエフスキー自身は、銃殺刑寸前で恩赦、シベリア流刑に苦しむ。だが作品群には宗教的愛が拡がり世界中が共感し涙する。父には共感・同情する世界が無い。残忍な視線と底知れぬ暗い闇だけがある。

 トメ婆さんは、絶滅隔離政策立案者=光田健輔の思惑の「十年」を超えて生きた。僕も父に連れられて何度か逢っている。その度父は、睡眠剤を飲ませ。僕は翌朝まで目が覚めなかった。

 「癩」の顔貌を孫に見せたくないトメ婆さんの願いは「せめて孫を見せて」だった。しかし5才の妹は一度も同行しなかった。妙な写真がある。表紙付きの立派な台紙に張られた入学記念写真。それに五才の妹も着飾って写っている。失業続きで貧乏のどん底にあった父がそんな費用を捻出する余裕はない。ともあれ婆さんは写真でしか妹を見ていない。癩=ハンセン病は学齢前までは感染確率が高いと信じられていた。

 ランドセル・学帽・学童服姿で恵楓園付近に遊んだ日の朝、父は妙なことを言った。「今日は小学校入学の練習だ、同じ格好で行くぞ」


 貧乏士族父方祖父の家計も逼迫していた。子沢山の祖父には旧制中学と女学校の学費負担はとてつもなく大きかった。父には学費の要らない高等師範を経て文理大学に進むしかない。学費の嵩む旧制高等工業に進学したのは、「癩病院」入りを頑強に拒む婆さんのためであったとしか考えられない。婆さんが父の同行を言い張って泣いたのかも知れない。トメ婆さんは大層な別嬪だったらしく、二人の娘も美しかった。父も美しい母が自慢で、祖母に課せられた力仕事は悉く父が引き受けた。

 h叔母も事情を承知の上で、高女卒後の銀行勤めの給金全額を父に送金している。

 高等工業学校卒は、当時勃興しつつあった中産階級としての技師を約束していた。父は、朝鮮総督府鉄道局勤めの軍属となる。留守中の見舞いは、母と大叔母に託された。都城から熊本までは肥薩線経由の夜行列車があった。

 トメ婆さんは戦争も生き永らえた。父は朝鮮からの引き上げ後も婆さんの見舞いは約束だ、鉄研や自治体課長職の誘いも断り、貧乏暮らしが続く。

 やがて婆さんの死期が近づくと熊本に移るが、赤貧洗うが如しの生活。おかげで母は師範学校在校時以来の結核を再発、吐血を繰り返す。当時も結核は、癩より遙かに伝染性の強い「不治の病」であったが入院も出来ない。結核病床はどこも満杯。 

 窮乏は限界を超え、差し押さえのたびに母は泣いた。父はやむを得ず、北九州若松の洞海湾を跨ぐ「東洋一」の若戸大橋プロジェクトに出稼ぎ。父はトラス構造の応力計算の近似式特許を持っていた。それで出稼ぎに誘われている。


 トメ婆さんの遺骨は僕が胸に抱え膝にのせて、夜行列車で故郷に運んだ。「大事な人の骨」と父に言われたことを覚えている。この時の父は肥薩線矢岳越えの直線区間で、列車の最後部に佇み、遠ざかる線路に今にも飛び込みそうだった。僕は父の手を必死に引っ張った。

 その後の父は、友人と設計事務所を東京・四谷に開く。土木学会理事として、東洋一、日本一の土木事業に文字通り狂ったようにのめり込む。狂えば唯我独尊、周りが歪む。

 熊本から一時帰郷する寸前、『七分の四』という不思議なタイトルの映画を見た。父は頻りにタイトルの含意を僕に問うた。しばらく考えて「半分より少しいい」と言うと「そうか、判るか」と何度も何度も頷いた。

 父は「恵楓園」に通った若き日々を、人生の「七分の三」として闇に封じ込める決意を固めたのだと思う。何度も僕の頭を撫でた。小学三年になる寸前だった。父の人生は暗い闇の「七分の三」と死に物狂いの「七分の四」に歪んで裂けた。

 長い話だ。父とトメ婆さんは、爺さんにも故郷にも見捨てられる。長男であるにも関わらず父は家督相続から外され、トメ婆さんの後妻の長男の叔父に付け替えられていた。歳は一回りも離れている、届け出を忘れたとは言い難い。祖父も自死を考える程苦悩したはずだ。しかし残される子どもの行く末を考えると、ほかの選択肢はない。

 絶滅隔離は残虐。光田健輔と渋沢栄一の極悪非道は、いくら非難してもし切れない。誰も罰を受けていない。 

 数学者でもあった父が、技術士・土木学会理事として成功後も決して故郷に帰ることはなかったのはそのためであった。数々の栄誉や地位と高収入転職の類いも全て断り続けた。 

 父は苦悩を誰にも語れない、悪酔いするほど呑んで周囲に迷惑を顧みない。毎晩泥酔。しかし叔父たちが東京に来たときには一滴も呑まなかった、酔えば苦難を語るおそれは自覚していた。

 たくさんの逸話を省いたが、もう一つ。熊本の夏は耐えがたく蒸し暑い。父はどんなに暑くとも、ステテコの上下を脱がなかった、たとえ胸を開けても背中は決して見せなかった。父の背中には癩の斑紋があったのかも知れない。患者狩り以来、偽り続けていたのか。父には頭痛や歯痛もなかった、だから殴られても殴っても「痛み」を理解せず、酔うと無闇に人を叩く癖があった。

 僕の膝には70年を経てなおくっきり残る傷跡がある。御代志停車場(菊池恵楓園正面の熊本電気鉄道駅)の資材置き場で遊んでいるうちに転倒、工事用の有刺鉄線で大怪我、気絶した。気付いたのは帰宅後の翌朝・・・。


  どうだ、もうこれ以上知りたくはないだろう。爺さんの立場からも苦難に満ちている筈だ。

 語れば300頁以上の本・前述の『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)を超えて一月以上を要する。  妻は興味深いと夜も読み耽り、ながく沈黙した。多分@ちゃんの住む地域の図書館にもこの本はある。

   ここでは「ハンセン病」と言わず「癩」を使った。歴史的差別性を回避した言葉では、日本で最も暗い闇は表現できないからだ。 

 追記

 日本の医学界が如何に国際標準から遅れ逸脱していたか、ここで触れておきたい。   1897年に開催された第一回国際らい会議では、癩病を伝染病と確認したが、恐ろしいとの表現はなくノルウェー方式が注目された。衛生管理を徹底したうえでの自宅隔離と、資力のない放浪患者に対しては街中(僻地では無い)の国立病院への強制隔離して患者の病状が改善すれば家に帰すという二本立てであった。生涯にわたる隔離ではない。ただノルウェーでは対策が本格化した時点で、患者数は既に自然減少に転じていた。

 日本の隔離はisolationではなくsegregation(追放)であることがわかる。何故ならisolationは患者の社会関係は維持されて、復帰を前提としているからである。 

 1909年の第二回国際らい会議では、「絶対隔離」は必要ではないことを明らかにして、1923年第三回国際らい会議では強制隔離の非人間性を指摘、隔離は伝染性患者に限ることを確認。

 東京で開かれた1958年第七回国際らい会議は、強制隔離政策をとる開催国日本にその政策を全面的に破棄するよう勧告している。

  日本らい学会が追い詰められ自己批判したのは、戦後も1995年の4月22日 ( 正式名称は「「らい予防法」についての日本らい学会の見解」) は 日本の医学会としては異例の謝罪声明。この中でこう述べている。

「 ・・・らい患者、・・・の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少・・・を示している。・・・疫学的に見たわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていたと言える。つまり、このような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」(癩予防法・1931年)も、推計学的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。・・・

 隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない」

 余りに遅い謝罪。    

 「日本らい学会」予防法検討委員会委員長としてこの「自己批判」起草に関わった国立ハンセン病資料館長の成田稔医師は、更に断言している。                                    

 はっきりといってわが国の癩対策は、予防的効果において自然減を越えたとは考えられず、癩による災いを本質的に取り除いたわけでもないから救癩でもなく、それに産業系列から生涯隔離したのでは救貧にもならない・・・・

・・・はっきりいえば、多くの患者はまさに見殺しにされていた・・・。                                                        

 お上公認の嘘で病気への偏見を煽り、患者を強制収容して強制労働を課し、絶滅を待ったのである。「見殺し」ではなく緩慢なる殺人ではないか。にもかかわらず医師免許剥奪でさえ聞いたことがない。

 隔離は死亡率の高い急性感染症だけに適用される。感染症の隔離には、相対隔離と絶対隔離がある。相対とは条件付き、絶対とは条件なしということである。前者が例えば、自宅隔離を認めたり、治癒後は退院を認めたり、家族生活や家族による看病を容認するのに対して、後者は本人の意志に係わらず例外なく終生隔離する。

 1897年には23.660人を数えた患者数は、2011年には2275人、平均年齢は約82才。そのほとんどはハンセン病そのものは治癒したいわば元患者で療養所に入所している人である。結核の治療を終えた人を元結核患者とは呼ばない。ハンセン病に限ってこうした呼び方がされる事にハンセン病の複雑な悲劇性が見える。

    らい予防法は医師に対して患者の届出を義務付け、届出を受けた知事は療養所への入所を勧奨し、従わなければ入所を命ずる事になっていた。病人が入るのだから入院と言う筈だが、多くがそれを収容と呼んだ。

 収容は剥き出しの暴力を伴った、1922年集落を警察が焼き討ちした別府的ヶ浜事件、1940年警官や療養所の職員220名が患者157人を襲撃し一斉強制収容した熊本本妙寺事件 注 が知られている。何れもハンセン病者・貧しい農民などが混住する集落での出来事であった。的ヶ浜事件の放火犯は警察官であったが不起訴処分。 

 患者収容後の家屋は、全身白ずくめの男たちがあたり一面真っ白になるほど徹底的に消毒、打ち壊し焼き払うこともあった。愛用の衣服・日用品・学用品にも近隣の人びとが見守る中で火をかけ、移動中は白ずくめの男が患者の歩いた後を消毒して回った。 消毒と収容さえも、絶好の「啓発」の機会として利用したのである。

 医師・看護師は白衣の装束に帽子、目だけ出した大きなマスクをし、履物は雨降り用の高下駄にはきかえて、その通路から患者地区に入り・・・高下駄のまま病室に入った。もし病舎に急患が出たときは、医師は看護師に注射箱をもたせて応診に来るが、玄関から中にはけっして入らない。患者が玄関まで運び出され、そこで診察し注射を打つのだ。患者を病室に入れる場合は、同じ舎の者たちが担架で病室に運ぶのである。病棟の担当者は患者付添夫で、医師・看護婦はけっして病室に関わることはない。見学者も土足のまま病棟や不自由者棟を見学するのである。・・・そして、一度収容所を見学した者は、らいがいかに恐ろしい伝染病であるかを体験するのである。                    松木 信   

 こうして出来上がった世界は、まさに筆舌に尽くせない地獄である。収容者の証言を引用する。

 「・・・保健所の人が来て検査し菌が出ていないからと言われたが保健所員は白衣を着て来た。町内の人が見ている。つらかった。母が一緒に死のうかと言ったことがあった。「海に入って死のうか」と。「こわい」を通り越していた。(1947 年入所 女性)」                              

 「小学校卒業して 3月23日、日赤で調べてもらい、わかったとたん病院中を消毒した。母親から裏の木で首を吊ってくれないかと言われた。親には、保健所から「ハンセン病の子どもは大和民族でも優秀でもない、殺しなさい、自殺させなさい、療養所に行くと都合わるいでしょ」とはっきり言われた。(1953 年 註 入所 男性) 」

  どちらも戦後の証言である。後者は新憲法下公務員の発言。「こわい」を通り越した向こう側にあるのは、世間の残虐な眼差し。言いようのない「恐怖」に襲われる。

  だが、「死のうか」と言った女性が若かった頃の農山魚村の窮乏を知らなければ、「死のうか」の背景を共感的に理解した事にはならないだろう。ハンセン病発症は貧困と強い繋がりがある。小作料の金納化、農産物価の変動、農業労働の機械化、「文明国化」「一等国化」のことある毎に、貧者はその日の食い代に窮して生死の境にあった。「死のうか」は日常だった。不幸も悲惨も偏在してありふれた光景となる。それが怖いのである。 二つの証言はいずれも『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 (別冊) ハンセン病問題に関する被害実態調査報告』から抜粋した。  山ほどの証言があるが、ここでは多くを引用しない。

 これが、トメ婆さんが執拗に癩病院収容を拒み続けた背景だ。収容が如何に膨大な犯罪群であるか、誰一人として刑事罰を受けていない。断っておくが、癩病に関する政策に起因する犯罪は、これだけではない。 

「決まり」には理由が要る

  H高校には、中国帰国者の特別枠があった。通常の授業は一般の学級に属して受けるが、国語や社会科などは、「取り出し」授業といって、帰国生だけの小クラスを編成する。

 例えば、日本で「KENRI」と発音すると、帰国生は「権力」と「権利」の両方を思い浮かべる。どちらも「ケンリー」と発音するが、中国語の中身は大きく異なる。同じ文字を使うからこそ、注意を要する。

 中国では日本人として少なからず辛い思いもし、父や母を引き取り育ててくれた中国人祖父母への深い敬愛と恩義もある。日本では、中国人と呼ばれまた辛い思いに沈む。

 僕は彼らと初めて出会ったとき、先ず出身地と中国名を聞いた。彼らは気を遣って日本語風に発音してくれるのだが、それを僕は中国語で発音してみた。忽ち彼らの表情が緩んで「先生、中国語出来るの」といいながら立ち上がって教卓を囲んだ。嬉しそうな表情の中に、孤立した寂しさを引き摺って暮らしてきた日々を思った。 中国全土の地図を壁に貼り、印を付けながらひとり一人話を聞いた。

 教員の中には、一日も早く日本に同化させるべきだとする傾向が強い。何故なら、日本のほうが優れているという。

 しかし日本人になろうと、中国人であろうと、混血の華僑であろうと、それは彼らが生活の中で主体的に選び取ることである。いずれであっても尊重して援助しなければならない。


 中国からの引揚げ生徒の一人が昼休み平然と校外で食事をとっていた。

 「みんな昼休みは外に出ないんだ、そういう決まりだ」と校門で立ち塞がる教師を、彼は

 「僕はタバコを吸ったりパチンコをしに外に行くんじゃない。そこをどいて下さい、決まりには理由がいる」

と退けて堂々とラーメン屋に行くのだった。それを見てほかの生徒が真似をするわけではなかった。同調性は連帯へ向かうことなく、生徒ひとり一人の中で凍り付いていた。

 学校という体制を後ろ盾にした教師にたった一人で向かい合う少年。僕はこの少年に彼が背負う永くて重い歴史を感じた。

 どちらが「大人」でどちらが「小人(幼児)」であるか一目瞭然。掟に縛られ身動きできないのは教師。体格と賢さが逆転してしまっている。大人に成りきれない教師に少年が世の理を説かねばならない場面か日本の学校には多すぎる。


 帰国生女子生徒の一人がいじめを、訴えてきた事がある。

 「毎朝、昇降口で男子が数人で待ちかまえて、「お前発音変だぞ。中国に帰れよ。」なんて言うの。いじめでしょ」

  「だね。周りの生徒はどうしている。」

 「ニヤニヤしてる」

 「他にもある?」

  「ある。団地の広場で友達と話していると、必ずお巡りさんがやってきて、帰りなさいと言うのよ。必ずよ。見張られているようで気持ち悪い」

 「両方とも、何とかしよう」

 「待って、先生・・・話せてスッキリした。自分でやってみる。駄目だったら、助けて」そういって帰った。

 ・・・二日後

 「うまくいったよ。昨日はね私が先に行って待ってて、言ってやったのよ。「おはよう」って」

 「ほう、」

  「でね、「私、○年○組の△山××、あなた名前は」って聞いたの」

  「いい度胸、君らしい。それで名乗ったのかい」

  「名乗った。だから私言ったの「□◇君、あんた男でしょ、男なら、私に文句あるんだったら一人で言いなさい。それから挨拶もしましょ」って。そしたら今朝、□◇君が一人で待ってて、「おはよう」って。なんだか照れてたよ」

  「大人や教師抜きで解決するのが中国のやり方なのか、素晴らしい。」

  「うん、大人や先生に言う前に何とかすることが多いよ」

  「喧嘩にならないかい」

  「小さな子なら喧嘩しちゃうこともあるけど、いつの間にか仲良くなっちゃう」

 

 彼女の日本人男子生徒に対する姿勢は、視線を逸らさぬ清々しさがある。

 日本の教師が外国の学校で教えることになると、殆ど例外なく「起立・礼」を教えて得意がる。世界に誇る日本の習慣だと。

 どの民族にも「起立・礼」の掛け声はない。挨拶は号令でするものではないからだ。時と場合に応じて人間関係を作るために、個人の判断と決意で行うもの。号令でやれば、判断も決意も育たない。

 自称「サムライ・ニッポン」のこの国で、全国の子どもが毎日毎時間号令と共に挨拶を繰り返している。その最中に弱少者・近隣国家への侮蔑極まりないヘイトスピーチがエスカレートしている。好戦性を煽り立てる雰囲気に飲み込まれる危うい軽薄さ。これが大幅赤字に悩むcool japan の実像だ。

 幼稚園を通りがかり覗くことがある。特に中国では中が覗ける構造になっている施設が多い。非常に面白い。

 私服普段着の保母さんが複数で子どもの遊びを見ている、大抵お喋りしながら。どこかで子どもの揉め事が始まる。喧嘩にもなる。泣くこともある。だが保母さんが手を出すのを見たことはない。揉めていると、先ず他の子がやって来ていろいろなことをする。それが面白い。数人が入れ替わり立ち替わりやって来る。なだめたり、モノを持ってきてあげたり、頭や背中をなでたりしている。止めに入った同士が喧嘩したりもする。珍し気に見ながら通り過ぎる子もいる。繰り返し来る子もいる。泣かされた子を連れて行く子もいる。そしていつの間にかまた遊び始める。その間、保母さんたちの目は子どもから離れないが、体は動かさない。

 見ている僕は、とても長閑な気持ちになれる。

 日本の保育園や公園で遊ぶ幼児を見ていると、間髪を入れず介入する大人の動きを見ることになってつまらない。統制のとれた行儀の良さはあるが、自由闊達な可愛らしさを失っている。


 帰国生が僕のところにやって来たのは、何とかしてもらうためではない。自分の判断が日本の社会でも通用するか確かめるためだ。

 卒業後の進路についても、帰国生たちが学校の進路部に依存する傾向はきわめて低かった。それはH高校に限らない。自分の判断・決意の範囲が日本の生徒よりはるかに広い。だから早いうちに問題を意識し、行動開始する。知り合いや関係機関を自ら訪問・相談して、いつの間にか決めている。自力で何とかしてしまう。逞しさがある。

 僕は「いじめ」を克服し△山××さんとそれを受け入れた□◇君を誇る。もし僕が校長なら、全校集会や卒業式で誇りたい。しかし、授業出来ない身分に酔う管理職にそれは無い物ねだり。 いや、万に一つの可能性を追求すべきかも知れない。

   「決まりには理由がいる」と言った帰国性に、教師は漫然と「特別権力関係論」を口走るのではないか。それが憲法に忠誠を誓った人間のすることか。

 この少年にこそ憲法の精神が根を張っている。いじめの相手と挨拶を交わした△山××さんに九条が生きている。


 日本の教師がしなければならないのは、何にも増して授業と研究だ。それが教師や学校に対する「敬意」や「信頼」を育む唯一の方法。こうした環境から生まれるのが、自由・平等に貫かれる連帯感に他ならない。民族や貧富を超える「公」が育つのは、教師が幼稚な「道徳」と号令を口走るからでは無い。

四谷二中 9   特別権力関係論

   二中の冬は、霜柱が立つ日も校庭での朝礼があった。いくら寒くても朝礼無しにならない。僕はその極寒の朝礼の中身をほとんど覚えていないのだが、自慰は体にも頭にもよくないという説教と、寒くてもポケットに手を突っ込むなという指示は覚えている。

  「おい、"たわし"あれを見ろよ」と後ろからささやく声がする。視線をたどると斜め後方の教師が、ポケットに手を突っ込んでいる。ぐるっと見回すと、何人もの教師が同じ姿勢で佇んでいた。

  「きたねえな」「何で生徒はイケなくて、先生はいいんだ」教室に戻りながら、口々に言う。

 「"たわし"、聞いて来いよ」

 こういうのはいつも僕の役目だった。昇降口の傍に立ってポケットに手を突っ込んでいた教師に、仲間数人で詰め寄った。

 「どうして、生徒はポケットに手を突っ込んじゃいけないのに、先生はいいんですか」と問うと、それまでニコニコしていたのが、真顔に戻った。

 「立場が違うんだ、生徒と教師は」

 級友が吐き捨てるようにたたみ掛ける。

 「そういうの、特別権力関係論って言うんだ」

 「ごちゃごちゃ言わずに、教室に戻れ」と追っ払われた。

 「なんだ、今の特別何とかというのは」

 「俺も詳しいことは知らないけど、裁判で会社が働く人を煙に巻きたいときに使うらしいんだ」

 彼は、かなり有名な弁護士の息子。さっそく級友連れだって聞きに行った。門のある家で、出窓が印象的だった。

 応接間におしかけその場ではわかったが、ドイツでナチスが使った論理だということだけが記憶に残った。


 管理主義が高校で荒れ狂った1970年代後半、僕はこの言葉を再び耳にすることになる。

多数への隷属を打破する民主主義 絶えざる政治的平衡 

 

 革新派のルイス・イナシオ・ルラ・ダシルバが、保守派の様々な妨害を押さえてブラジル大統領に復帰した。 

 保守派が多数の議会を相手に、ルラ大統領はどの程度の統治意思決定力を発揮出来るか。

 ここで思考を巡らせるべきは、嘗てブラジル議会が革新的議会があったことはないという歴史的事実である。最高の憲法を作った1988年でさえも。左派の議員は16人で、残りはすべて保守政党の議員だった。しかし、それでもブラジルは進歩的な憲法を制定出来た。(上院81、下院513)

 議会は社会的諸勢力の相関関係を反映する。ルイス・イナシオ・ルラ・ダシルバが資産家勢力や古い政党と築いた関係は、政府に安全を与えるための歴史的制度でもある事を理解する必要がある。

 ブラジルの進歩的大衆は、ルラ大統領が国家の矛盾に立ち向かう事を期待している。ルラ政権の急進性の度合いや構造改革の進展は、大衆の勢力と圧力にかかっている。

なぜなら、社会の歴史的構造変動は常に大衆の結集に支えられて来たからだ。

  コスタリカで革新政権が成立したことはただの一度しか無い。この事実を知ると日本の平和勢力は仰天する。肝心なのは体制では無い。民衆の絶えざる運動なのだ。出来上がった体制に依存したり「代行」させたりする事ではない。


 希な例だが、アメリカの西部劇でただ一つ感心出来ることがある。銃と略奪が幅を効かせる西部の町で、新聞が果たす役割を見事に描いている作品がある。頑固者の新聞発行者は、銃や略奪に依存する保安官や市民に距離を置いて細々と輪転機を回している。その新聞を市民は買う。市民に背を向ける新聞を読むのだ。そして自ら判断する。

 新聞が多数に傾いたり特定の判断をするのでは無い。判断の主体は市民。

  何が正しいかを判断する独立した市民のバランス感覚がここにある。暴力や貧乏にも屈しない自由な精神がある。  

  日本国民は、新聞に一体何を求めているのか。プロスポーツや公営ギャンブルの勝ち負け、天皇一族や芸能人の消息スキャンダルか、世界大会のメダルか。自分たちの尊厳を無きが如く扱われてさえ歓喜する隷属性。日本の新聞と広告代理店はそこに的を絞って恥じない。付和雷同そのものが事柄の価値付け動機となる空虚な危うさがここに生まれる。

 体罰や腐敗が横行しても生徒会「新聞」は批判するすべを知らない、なぜなら新聞部や委員会室を仕切るのは顧問と言う名の他者だからだ。体制の広報はジャーナリズムたり得ない。従順な生徒に教師は安堵し、服従を分掌する教師に管理職は安堵し・・・この逆転しない構造が何処までも続く。この構造は空虚な「国体」に収束するように工夫されている。

 何処にも日々の授業や成長する若者の姿は無い。卒業「式」の答辞には一過性の幼稚な涙と感動の場面が語られ、親も教師も教委もつくられた予定調和を賛美する。主権者は絶えず異議を唱えねば消える。

 

  服従本能を持ち付和雷同する人間の群れを「畜群的人間」と言ったのはニーチェであった。

 日本の学校は幼稚園から大学院まで「自由な民」としての子どもを、コンパニオンアニマルに仕立てる事が要求される。そのためだけに学校の日常を、様々な行事で涙と感動づくめにするのは、成果を目に見えるように求められるからだ。管理社会では、目に見えないものは成果ではないとして葬られる。

 「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」サン=テグジュペリ。

 コンパニオンアニマル化は「自由な民」への虐待に他ならない。

    「可愛い」ペット=コンパニオンアニマルは、体制=飼い主に服従する以外の幸福はない。ものを見るための心を捨てたからだ。オルテガの指摘を日本の学校の日常が先取りしている。

  「俺に任せておけ」と言いたがる活動家や政治家。そして彼らに不和雷同し、やがて暴走する世間の姿が「国家の奴隷」。

平凡な価値 と 共同体の規模

  一学年10学級が続いた悪夢の日々を思い出す。学区は選択の多様化をうたい文句に無闇に拡大。それを教委は「自由」の拡張と錯覚させ、親も中学生も教師もこんな安手の詐欺にまんまと引っ掛かってしまった。

 受験生に選択の余地はなかった。彼らは受検産業の用意した「偏差値」に相応しい学校を指定されるに過ぎない。「偏差値」が低すぎても高すぎても近くの学校は、予め「自由な選択」からは排除さているのだ。

 おかげで教師も生徒もは、1時間以上を満員電車で通勤通学させられる。学校に着く頃には既に疲れている始末。

  平等と民主を欠いた「自由」の実態を良く表している。

 「高校増設運動」は時間的に追い詰められ、教育の「質」を自ら放棄したのだ。「子どもの声」を騒音扱いする価値観は共同体の拡大や消滅に伴い拡がる。幼稚園や保育所の立地が難しくなっている。保育者の幼児に対する体罰も起こる。

 共同体か小さければ、子どもたちの遊び泣く声は煩さくない。親や祖父母を安心させ和ませる機能がある。保育者も親も子どもも古くから続く共同体で生まれ育ち、互いに気心が知れている事の価値を我が国は破壊し続けている。それを地域の「発展」といつわつてきた。

 1888年日本には7万314の自治体があったが、2019年現在1718にまで減少。フランスは3万8000ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。

  我々の社会の自殺の多さ、いじめ、貧困に対する不寛容は、ここに根を探る必要がある。


  社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従って人間のあり方を変える。

 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とする様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。 

 人口が増加すれば、こうした判断(曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉える)は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を奪われ、多数雑多な厄介者の一人として一括処理されてしまう。彼らが孤立状態から共同体への回帰するためには、多数への順応・同調という手続きのみが残り、同調できなければ罰と排除が待っている。 彼らの全生活の複雑性の理解と把握は顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。リベラルな教養はその文化の中にある。

  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」では、企業も自治体も学校さえもが合併して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。


 勘違いしてはいけない。大きな都市でも日常的な生活決定の単位を小さくすることで共同体は小さく出来る。通勤や通学圏の縮小、世界を仰天させる悪習=単身赴任廃止は行政の決意にかかっている。遠方への高速で高価な交通機関や設備ばかり心を奪われ、日常の安価で便利な施設に目が向かないのは我々の意識か奴隷化してしまったために違いない。

 プラトンは奴隷を「自分の行動において自分の意志ではなくて誰か他人の意志を表現する人間」と定義している。

独立した外交見識と手腕が平和には欠かせない

  「麗人科学者」山村八重子(1899〜1996年)の日記を読み解く連載が東京新聞にある。その第6回が彼女の兄山村一郎。


 山村一郎は早慶明三大学リーグ誕生の「生みの親」でもある。 1914年、応援団同士の諍いで長く早慶戦が中断したが、この早慶を仲介したのが山村一郎だった。最初は早明、慶明戦だけではあったが、三大学リーグが結成された。そこに法政、立教、東大が加わり、11年後に六大学に発展、早慶戦も復活した。


 フィリピンで大規模ヤシ園を切り盛りしていた一郎は、戦時中の42年5月奏任官(高等官)待遇の陸軍嘱託で大佐の扱いとして地元民との間を取り持った経歴がある。

 当時の陸軍軍政監部出張所長の証言によれば「あの地域では、あとから戦争犯罪に関する裁判の呼び出しが一つもなかったのですが、それは山村さんのおかげですよ」「憲兵隊長も山村さんのご意向を聞いて、決して無理をされなかったから、ザンボアンガだけ憲兵隊の問題が出てきません」「この人がおらなかったら、行政にしてもなににしても、話がうまく進みません」と、現地の事情に精通する一郎が重要な役目を果たしたことを明かしている。当時のフィリピン自治政府大統領のマヌエル・ケソンと山村一郎の写真(1936年)も残っている。

  独立した外交見識と手腕が平和には欠かせないことが判る逸話である。「統帥権の独立」と言う謀が軍部の横暴を許し、日本を一億層玉砕の淵に追い込んだのだ。戦犯たちは責任逃れに奔走、沖縄を嘗ての鬼畜に売り渡し、外交軍事の全てにわたって従属している。何が「cool japn」だ。

 敗戦後、山村一郎は米軍捕虜となり、レイテ島の捕虜収容所で捕虜代表を務めた。ヤシ園など現地の資産をすべて失い46年暮れに帰国。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...