サウジアラビアとイランが和解したことの意義

 





 2016年からサウジアラビアとイランは、互に大使を交換、安全保障や貿易投資などの協力を再開する。両国は北京で調印

 サウジアラビア、イラン、中国は昨年末から交渉を重ねていたが、アラビア語とペルシャ語と中国語のみで話し合った。米英覇権下の外交ではあり得なかった。非米・多極型世界体制の立ち上がり=英米覇権終焉を象徴している必死で国際化の掛け声に踊らされ、英会話と米英帰りのみを有難がる日本は時代錯誤の道化となった)。

 中国を介した和解交渉は英語を使わないことにより、米英が交渉の中身を傍受して妨害策をとることを難しくした。 英米は冷戦体制下の「同盟国」1000余箇所の軍事基地を利用して世界中の通信を容易く傍受できた、その恩恵で米英企業や大学は特許情報等をいち早く入手、他国を出し抜いてきた。それが可能だったのは、英語(が)国際語との安易な錯覚が拡がっていたからだ。多様な言語による情報交換が当たり前であれば、通信傍受の膨大な人員と費用を節約出来ない。

 それだけではない、国際関係が英米語をハブとすることなく、直接の交流が可能となっただろう事は確実だ。

 英米による情報独占は冷戦体制下の国際関係を恣意的に分断・撹乱する事を容易にしてきた。英米に従属しない自立を目指す政権が残忍且つ幼稚極まる画一的「クーデター」で潰されてきたのだ。単一言語による帝国主義でしかないものを「国際化=グローバライゼーション」と囃し立ててきたのだ。日本の英語教師はそれに加担して胸を張ってきた。

 僕は、高校の外国語に朝鮮語や中国語を導入すべき事を「底辺校」で力説して多数派教員(彼らは英語を地域言語ではなく国際語だと言い張った)に嫌われた。生徒の多くが中学で受験英語嫌いになっているのに更に三年間、受験英語に苦しむのだ。ペルシヤ語やウルドゥー語もいい。豊かさや覇権から遠い言葉の学習は、少年少女たちの世界観をゆっくりと確実に変えるに違いない。映画・文学だけでなく食べ物・服装持ち物・習慣まで覇権国家文化の影響下にあって視野を曇らされたのが、全く新しい視野を得る筈だ。

 多言語学習環境下では、例えば嫌韓言説が巷間に溢れる現象もありえない。大学受験や就職試験もTOEFL等の影響は忽ち薄れ、言語そのものへの関心と理解が前進する。それが日本の単一民族幻想や、偏務的日米地位協定・年次改革要望書を破棄する力となる。


  もし我々が英米語をハブとすることなく、直接に諸言語を獲得していたら・・・。例えば今になってようやく知ることになったカダフィ大佐に関する情報を、リビアへの米英仏の大規模爆撃以前に直接入手出来た筈だ。

  今我々が知る『Gaddafi』に関する情報を、遅ればせながら列挙してみる。 

/.リビアでは教育も医療も無料。/.電気も無料。

/.リビアの対外債務はゼロ、外貨準備高1500億ドル

/. 新婚夫婦には、6万ディナール支給。

/.車は政府が価格の50%を融資。/.銀行は公営で国民への融資は無利子。これはもととイスラム圏の思想。

/.就職決定まで、仕事の平均給与を国が支給。

/.出産には、5,000ドル支給。

/.パン40個0.15ドル。/.ガソリン1リットル0.14ドル。

/.Gaddafiは、砂漠の国全体に水を供給する世界最大の灌漑プロジェクト「BIG MAN PROJECT」を持っていた。

  Gaddafi大佐は独特の強烈な風貌で、豊かで公平平等な民族共同体を形成しつつあった。これを独裁と呼び攻撃したのが言語帝国主義=英米語ハブ環境。では英米民主主義とは何か。資源の独占私有を自由競争と考える「自由主義」者にはl略奪の春である。

  様々な政治文化環境にある国の「クーデター」騒ぎを一律に「Arab Spring」と言い、一連の色をつけ「Color revolution」と呼ぶことの作為性に気付かない愚かさがある。それが我々の自立した思考を麻痺させるのだ。

  Gaddafi体制爆撃の目的は、リビアの豊富な資産を強奪することだった。欧米「先進国」の「豊かさ」は十字軍以来他国からの絶えざる略奪に依っていた。BRICSも上海協力機構も、英米覇権体制より遙かに自由で平等な国際環境を実現する筈だ。

 自前の資源なしに、無料の教育・医療・福祉・住宅に関する平等な権利を、米州機構の暴力的経済制裁に耐え通し、ついには米国を米州機構で孤立に導いたCastro兄弟・Guevaraの功績は計り知れない。同じ事はGuevaraを鼓舞して止むことのなかったHồ Chí Minhにも言える。貧しさに長く耐える精神が、自由と平和を実現する。

追記 サウジアラビアは5月19日のアラブ連盟首脳会議にシリアアサド大統領を招待する予定。サウジアラビアのファイサル・ビン・ファルハン外務大臣が間もなくダマスカスに赴き、アサドにサミット出席の正式招待状を手渡す。

 英米語覇権体制の崩壊は、「もし嘘が戦争を始めることができるのなら、真実は平和を始めることができる」とのジュリアン・アサンジの警句を裏打ちしつつある。教師も報道陣も真実の伝え手としての自覚と覚悟が必要。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

怒りを込めて振り返れ  絶滅隔離

   「一般に夫婦は似た顔の人が多い」との分析報告がある。ひとは顔が似ていると親密になりやすく、趣味や考え方が似ていると一緒に生活しやすいのか。

 転校して親しくなると同じ家紋の家だったことを後日知り妙な気がしたものだ。

   僕は生まれ故郷から夜行列車で丸一日の熊本で小学校に入った。不思議な新設校で、一年生ばかりが200人余りの4クラス、だが教室は全学年分完成していたその中の一人がなぜか気になり、休み時間毎に「遊ぼう」と誘わずにおれなかった。彼はいつも寂しげで温和かった。中庭で五寸釘や独楽を使って遊んだがたった10分でお終い。だから放課後はいつまでも遊べると考えていたのだ


が、時鐘
と同時に布製のランドセルを背負い「園のおばさんが、学校の子と遊んじゃいかんって・・・」と呟きながら、数人の仲間と裏門を抜けて帰るのだった。 僕は校門脇の土手に登って、熊本市の真ん中を横切る白川の向こう側の丘の麓に消える彼らを眺めていた。

 彼らは児童養護施設から通っていたのだ。5月連休明けに白川向こうの丘への遠足があり、「遠足は一日中遊べるね」と僕はご機嫌だったが遠足当日は雨。彼らは一人も登校しなかった。先生たちは体育館に僕らを集めてお菓子を配った。親が金を出し合っておやつのために共同購入した品物だった。お菓子と弁当ですっかり元気になったうえ、勉強もなしになった。


 後日、この養護施設が熊本の教育を混乱の激流に巻き込んだ『黒髪小事件』と深い関わりを持っていたことを僕は知った。黒髪小事件は  龍田寮事件とも竜田寮児童通学拒否事件とも呼ばれる。

 癩療養所に絶滅隔離された患者は、感染していない子の処遇に泣いた。療養所には患者でないから入れず、親戚縁者は患者の子どもだからと引き取らない。当時患者の子どもを「未感染児」と呼び患者の家族はいつかは発病するという無知偏見を植え付け、また子どもを荷物扱いし「携帯児」とも呼んだ。様々な経緯から菊池恵楓園では「未感染児」は、癩予防協会付属養護施設の保育所「龍田寮」で扱われることになり、寮は恵楓園から離れた熊本市内の黒髪町に設置された。

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   少し長いが拙著から引用する。 

 1954年の春、時代の歯車が逆転したかと思わせる事件が熊本で起きた。竜田寮児童通学拒否事件である。ハンセン病療養所にはハンセン病患者である子ども、親が患者だが本人はハンセン病ではない子ども、療養所職員の子どもがいて、それぞれ困難を抱えていた。熊本市内の竜田寮では、菊池恵楓園入所者の子どもたちが生活。他の療養所では入所者の子どもの地元小中学校通学がすでに実現、しかも竜田寮の中学生と高校生はとうに地元の学校に通っていたのである。意図して煽られた騒動の気配がある。中心人物は保守の県議会議員でもあった。

 菊池恵楓園に再収容されることになった父親が、子どもを預けるために竜田寮を訪ねたことを書いている。黒髪小事件の3年前のことである。

 「私は意外なことを耳にした。(竜田寮には)小学児童が15名ほどいるが、市内の小学校に通われず、分教場で教わっているということだった。

 「小学校がすぐそこにあるのになぜ通学されないのですか?」

 「それがですね、病人の子だからという理由でPTAが 反対するらしいんです。これまで何回となく市や学校と交渉しましたが、父兄側の鼻いきが荒いのでね」

 親を病人に持つがゆえに、その子は正規の教育を受けることを拒まれ、やむなく分教場で一人の教師が一年から六年までを担当しているというのである。ほんの目と鼻の先で片方は堂々たる鉄筋建の校舎で、正常の教育を授けられているのに、一方では粗末な分校で寺子屋式の貧弱な教えを受けている。私の脳裡を対照的な二つの授業風景がかすめた。教育都市をもって名を知られる熊本市が、これは一体どうしたことだろう。」   下河辺諌「別れ道」『ハンセン病文学全集第四巻 記録・随筆』346ページ

        

 竜田寮の子どもたちを排除しようとする通学反対派は、140日にわたって子どもたち(1600余)を休校させ、お寺や銭湯などで自習させた。この事件に衝撃を受けた佐賀の患者家族が自殺するという悲劇も起きている。

 しかし少数派の通学賛成者は、石を投げられ、脅迫状を送られ、殴り込まれ負傷者まで出しながらも、その275名の子どもたちが竜田寮の4人と通学を続けた。新しい希望であった。反対派指導者の孫が「竜田寮の児童が入った新一年生の学級に掃除に行かせて欲しいと申し出てきたのが嬉しかった」と、『熊本市戦後教育史』は書き残している。            『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊


   竜田寮の中学生たちが通った市立桜山中は、黒髪小学校より竜田寮に近いが、通学拒否はおきていない。それ故事件のの解決に熊本市は悩み、市内の学者たちに知恵を借りた。その結果、何カ所かに分散設置された施設の一つが「気になる温和しい子」がいた園かも知れない。僕の入学した小学校は彼らの受け入れ学校として急遽指定された可能性がある。子どもたちの個人情報は勿論園職員の情報まで悉く秘密にされ、後に破棄されたと聞く。


 この事件の根本は、絶対隔離の必要の無い癩病=ハンセン病を「ペスト並みの恐ろしい病気」と根拠のない偏見を煽りながら全国を遊説した光田健輔と渋沢栄一に帰すべきことを、僕は何度でも書く。

                                                           

 父の母が戸籍から消え癩療養所に生きていた可能性については既に書いたが、このトメ婆さんとほぼ同時に戸籍から消えた父の妹も同じ療養所にいた可能性を否定できない。彼女は僕の叔母にあたるが、彼女に「携帯児」はない。しかし当時の恵楓園では療養所内で患者が堕胎を免れ出産した例がある。

 彼が僕の叔母の子、つまり僕の従兄弟であった可能性も否定出来ない。入学式後の集合写真を見ると、疲れ切った表情の僕の前列にそれと思しき詰め襟姿の少年が写っている。

 僕は墓という風習に何の感慨も持たない。だが菊池恵楓園の納骨堂には頭を垂れるつもりだ。 なぜなら、この黒髪小事件に関する教組や労組の積極的取り組みの形跡がないからだ。癩病の絶滅隔離そのものへの怒りを込めた行動や声明すら発見できない。戦後民主主義とは何であったのか、どこを向いていたのか問わずにおれない。矛盾の結節点への洞察が欠けている。

 

わが国では、学校は植民地同然なのか 牢獄か

  

「植民地の民衆とは、その進化が停止し、理性を受け入れず、白身の事柄を処理できず、指導者の永遠的存在を求めている民衆である」                              フランツ・ファノン『なぜ我々は暴力を行使するのか』みすず書房1960年

 

 これはフランスの高校生のデモ     今月7日、マクロン政権への国民的な怒りは、約350万人(CGT調べ)の街頭抗議デモー鉄道、地下鉄、バスなどの交通機関、道路、輸送、医療、消防、港湾、燃料、電気・ガス、清掃、公務員、学校、商業、サービス業ーあらゆる産業分野の労働者、老若男女が街頭に結集、政府の年金改革に異議を突きつけた。 抗議デモは国内300の地域に広がり、「生存権を守れ」「われわれは労働の囚人ではない」「ウクライナではなく国民を支援しろ」と声を上げた。ストを呼びかけた労組や組織は「年金改革法案の撤回」まで無期限ストを宣言している。

フランスの人口は日本の半数弱。
 ここ仏で高校生は教師とともにともに闘う仲間として街頭に出ている。日本の高校生は政権に指示された模擬投票ごっこの幼児以下か、なす術なく狼狽える。教師と高校生は、長い時間を共通の目的=学問をともにしながら、共感しあうことが出来ない。ここは牢獄か。何故連帯から逃避し傷つけ合うのか。

 高校生は既に政治的主張と行動の主体。教室の壁に閉じ込められた囚人や主権を奪われた植民地民衆では無い。進化をとどめるな、理性を研ぎ澄ませろ、怒りをもて白身の課題に立ち向かえ。高校生・若者、君たちは主権者なのだ。先ず要求を掲げて、当局に政府に突きつけねばならない。君たちが侍japanに興奮している間に政権は戦争にまっしぐら。

記 異議申し立てする主権者たちに、フランス警察は警棒はもとより、催涙ガス、高圧放水銃、閃光弾、までも使っている。重装備の警官が非武装のデモ参加者に襲いかかる様子はSNSに溢れている。消防士の一部隊は寝返り、デモ隊に合流した。あるmediaは「パリは戦争状態だ」と報じている。

 イタリアの異議申し立てデモでは、軍人が市民=主権者側に寝返っている。

 

  

「普通」の人間としての矜恃は我々に貧しさを強いる

  チャーチルは初めて乗った地下鉄で市民に囲まれ、意見を聞いたことがある。この対話で彼はナチ

ガンジーの矜恃は彼に牢獄を強いたが故に適切な判断をもたらした。

スと徹底抗戦する決意を固める。チャーチルが対ナチス戦に関するまともな判断で英国を導いたのは、戦争の素人=市民としての感覚を持っていたからだと思われる。(ただ、地下鉄での逸話は、映画用のfiction )

 Oさんが石神井高校長に生徒との対話を迫り、校長室の開放を要求した事とどこか似ている。この時君は石神井校長の校長という身分と校長室の隔離性が、彼の認識・判断を妨げていることに気付いていたのか。

 チャーチルは貴族生まれであったが、死ぬまで爵位を断り通し、「普通」の大英帝国市民としての誇りを保った。しかし印度やアフリカの植民地に対しては大英帝国の絶対優位を疑わなかった。ユダヤ人や社会主義者に対しても。

 それ故彼の世界観はヒトラー並みの偏見に塗れていた。

 「普通」の人間としての矜恃は我々に貧しさを強いるが、そこから生まれる他者や弱者への共感が適切な判断を導く。

チャーチルの「Operation Unthinkable」

 ニューディール政策の旗手にして反ファシストのF・ルーズベルト米大統領が急死したのは1945年4月。その翌月ナチスドイツは降伏する。個人的に共産主義を非文明と敵視していた英首相チャーチルは、独ソ戦でソ連が勝利する展開を信じられず放置できない。あろう事かソビエトに対する奇襲攻撃を目論み、5月22日にJPS(合同作戦本部)に作戦立案を命令。

 チャーチルの計画によれば、ソビエトへの攻撃開始は1945年7月1日。米軍64師団、英連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そして独軍10師団の参加で「第3次世界大戦」を始める想定であった。

 作戦報告を読んだ英国陸軍参謀総長は、作戦成功は全く不可能だと判断。5月31日の参謀長会議でも作戦実行は「考えられない (Unthinkable)」と発言。作戦は発動しなかった。

 それでもチャーチルは米軍がヨーロッパから全面的に撤退してフランスやオランダまでソビエト軍が進軍した場合の英本土防衛作戦の立案を6月10日に命じる。統合本部は再び『Operation Unthinkable』という名称で7月11日に報告書を完成させるが、この報告書でもソビエトによって本土の安全が脅かされることはないと結論づけている。


 7月16日には米国が人類初の核実験の成功。7月18日の米大統領トルーマンとの会談で終戦後も連合参謀本部存続に前向きな回答を得て、チャーチルは原爆によるソビエト工業地帯の一掃を含む全面戦争を目論む。同月の総選挙で保守党は惨敗。英国民には戦争の専門家となったチャーチルはもはや必要なかった。戦争で経済的に疲弊していたにも拘わらず、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家を掲げた労働党を選んだのである。(「揺りかごから墓場まで」の基になったビバレッジ報告そのものは、チャーチル率いる保守党によるものであった)。為にチャーチルは歴史から不思議な消え方をする。

   米軍、英軍、ポーランド軍、独軍はnatoを構成して、今尚ロシアと対抗。その造られた危機を「第三次大戦」と煽り、武器要求・武器援助の人道支援にのめり込む奇っ怪な動きがある。

 チャーチルの開始した執拗な敵視と攻撃に、スターリンもソビエトもロシアも笑ってはいられない。 

 冷戦時代・・・ソ連は、(例えば)ガスの(輸出)契約は必ず守っていた。・・・。ロシアは・・・遵法精神があり、ルールに縛られる感覚があります。感情を出さないということではなく、ルールが決まればそれに従うということです。冷戦時代、ソ連は貿易と政治を結びつけて考えることはなかった https://www.contrapunto.com.sv/militar-suizo-experto-de-la-onu-analiza-con-bisturi-la-guerra-en-ucrania/ 

  彼等にとって第二次大戦は終わらないまま、第三次大戦に引きずり込まれてしまったのだ。


 同じ事は2発の原爆と水爆を浴びせられ、国連の敵国条項に縛られ日米合同委員会の議事録非公開を甘受するnippon
にこそ言える。独立国家とは到底言えない。サムライ日本、クールjapanと浮かれている場合か。
 ここでも第二次大戦は決着してはいない。戦争が終わる為には、平和と独立が実現しならないならない。

参照 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/2006/144/2006_144_69/_article/-char/ja/

 

「脳みそが裏返ったみたい」             答案を時間内に仕上げられない 何が問題か Ⅱ     

  問題を解く過程は楽しめても、答案作成には興味が湧かない者がある。四谷二中の親友Z君がそうだった。 朝早く登校して前日の宿題を片付けていると「俺にも教えてくれよ」と寄ってくる。・・・「これでいいのか、わかった」と満面の笑顔。だがテストでは零点。彼は成績にも順位にも関心が無かった。  

   もし選抜がなければ、学校間に格差がなければ。仮にsafty net が政治の最重点課題であれば・・・おそらくかなりの少年少女たちが、Z君のように、分かる楽しみや喜びを満喫し、点数や順位にこだわらないだろう。たとえ点数や順位好きであっても、2科目か3科目にとどめてもいい。あとは多くの仲間と分かちあえば。                                                                           

  一介の教員に出来ることは限られる。 授業を出来るだけ興味深く役立つものにすること、テストの時間制限をなくすことぐらい。

 僕はある時期から必要な生徒に、追加の答案用紙を配るようにした。3枚も4枚も追加する者も現れる。答案の形式が豊富になった、漫画にする者、図にする者、色を加えて抽象画風にする者(彼女は抽象画の解釈や鑑賞を挑んで来た)、・・・。同じ答案、似た答案は無かった。僕は批評と感想を全員に書いた。答案は返却後、回し読みされ「もっと書かせて」と時間延長要求が出る。

  中に答案が捗っていないのに「時間が足りない」と言う者も数人。理解が遅い、構想するのに時間が掛かる、学ぶのがゆっくりしている。これは理解が素早い等と同じ「個性」であり欠点では無い、人権として尊重されねばならない。 

  こうして試験の時間制限は、成績一覧表の締め切りまで伸びた。期末試験では自宅学習期間にもかかわらず、朝から夕方まで書き続ける者が続出した。

 頭に汗びっしょりかいて「脳みそが裏返ったみたい」と言いながら十枚以上に膨らんだ答案を出す生徒には、「作品」を仕上げた満足感が溢れていた。

   この生徒たちが鉛筆を握りしめた切掛を僕は鮮明に覚えている。 

 3年4組   23人のクラス。(おそらく東京で最も不人気な学校の大幅定員割れ学級。英語教育を看板にしたクラスなのに生徒は皆英語が出来ない、何という「選択の自由」そこしか入れない、それを自由と言い募る神経を教育行政が持つ不幸)落書きもなくゴミ一つ落ちていない。上唇にピアスを3つ付けた生徒が一番前に陣取って後ろの生徒と喋っている。デンと飲み物とお菓子をおいて前後ろ横と喋っている。ここは3-4かいと言うが反応がない。やがて間延びした声で「キリーツ」の声が掛かる。なかなか立たない。胡散臭いものを見るような目つきで僕を見ながら、ダラーッと力無く立ち上がり始める。全員が立つまで長い時間が流れたような気がする。

 「立たなくてもよろしい。耳だけをこっちに」

 「君たちを初めて見たのは4日前の始業式だ。なかなかいいセンスだと思いながら見ていた。ナガーイ校長の話、何の話だったっけ?」

  「もう忘れた?・・・・聴いてなかった。ざわざわしてたからね」

 そのあと、ある先生に

 『オメェーラ何度言えばわかんだよ、だからオメーたちには自由がないんだよ、自由・自由がないと言うんだったらやることやってからにしろ』と言われて、シーンとした。ガッカリしたよ。

 いいか、君たちは口汚く怒鳴られて静かにしてしまうことで、教員にあることを学習させているんだ。『こいつらは怒鳴らなきゃ駄目なんだ』と『話の中身じゃない、そもそも聞く態度がなっていないのだ』と。君たちがわざわざ教えているんだ」

 叱られれば中身に関係なく静まうこと。自由と集会の態度をバーターすることのナンセンスとそこに含まれる論理の違法性。怒りが籠もって僕の話は少しも易しくはなかったと思う。

  僕は王子工高での体験を話した。 (王工の生徒たちもうるさかった。スピーカーが役立たないほどやかましかった。怖そうな教師が怒鳴っても静まらない。職員会議で議論した結果、聞きたくなる話をしよう、それもなるべく短くという事になった。その最初の話し手がたまたま交通事故の怪我で包帯と松葉杖姿で登壇したため、静まりかえった)

 そして、憲法99条の2箇所を空欄にして板書した。

 「ここに何という言葉が入るか考えてもらおう。」

 「ハイハイ、国会議員」教員でさえ間違えてしまう問題を、正しく答えて、僕は一瞬驚いた。こうした〃予想外〃はよくある。

 「それでいいかな」と念を押す。

 「えーじゃーナニナニ」と周りに相談し始める。

 「他には・・・&#¢さん」指名して行くと

 「国民?」

 「国民」と次から次に言う。最初の生徒まで

 「私もそれをほんとは言いたかったの」と言う。

 「憲法九九条を教科書の後ろの条文で確かめてみようか」

   「だよね、だよね」国会議員と言った生徒が叫ぶ。あらためて九九条を音読すると

 「セッショウって殺すことだよね」とニッコリする生徒がいて、みんな笑った。その他の公務員には公立学校の教員はもちろん含まれている。

 なぜ国民ととはどこにも、書いてないのかについて講義を始めた。学校でいえば、校則には教師の義務と生徒の権利が書いてあるのが憲法なんだと。例えば教師は良い授業をしなければならない、生徒を侮辱してはならないと。

  終わって教室を出ると「せんせー名前はなんて言うの」と追っかけて来た。


 この高校に転勤が決まって何人かの教師に会ったが、「授業は十分と保ちません」と誰もが念を押す。教室を廊下から覗いて、僕は辛くなった。職員室の風景も気に掛かる。見本の教科書資料集が十数年分、古い使いようのないパソコン・・・。HOW TOもの以外の本が教員の机上に殆ど無い。知的退廃。逃亡。

 授業して生徒から返ってくる反応が少なければ教師はつらい。教室の様子も職員室の雰囲気も、「辛いぞ」と予め釘を刺すようであった。

 教育は本来的に教師の思惑を超えて授業したことが教師本人に返ってくる仕事である。つまり二倍三倍時には十倍にもなって返ってくるのが常態である。 

 もし一割しか返ってこなければ発狂するだろうとは、佐藤学の言である。一割以下で発狂しないためには、様々に現場から逃亡を図らねばならない。その逃亡の姿が、職員室の知的退廃であった。

答案を時間内に仕上げられない 何が問題か Ⅰ

  巧みな指先・卓越した記憶力・賢さ・美しさ・を「個性」と呼び賞賛する。その逆の不器用さ・鈍い記憶力・愚鈍さ・醜さを人は何故「個性」と言えず、恥ずかしがり隠すのか。それは前者は金になる=「儲かる」からだ。それだけを価値とする社会。しかし後者も紛れなく「個性」である。その人・その子らしさを表している。

「たわし」とあだ名されていた頃の四谷二中を思い出す。

Z君が自分の通信簿を広げ

 「たわし、お前の通信簿見せてくれよ」

 「・・・お前の成績と俺の成績は丁度反対だね」明るく言う。洟を垂らしながら。

 「たわしの成績と俺の成績を足して二で割ると真ん中の三になる。・・・なぁ、おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、たわしお前はないんだ。だから俺たち親友なんだ」と顔を覗き込むようにして言う。周りの連中も爆笑しながらのぞき込んだ。彼とはクラスを挙げての「カンニング」を組織して以来の長い親友だった。 

 A君(彼は高倉健と菅原文太を合わせた顔貌風体で喧嘩も滅法強かった。その彼に「なあたわし、数学って面白いかい、俺にも教えてくれよ」とせがまれ何時の間にか「面白いな、宿題つくってくれよ」と言うようになった。しかし彼も愚連隊の一員としてのケジメはあり、決して教師から教わろうとはしなかった)に数学を教えている時、Z君も寄ってきて「俺にも教えてくれよ」と仲間に加わり、「分かったよ、たわし有難う」と、青洟を垂らし笑うのだった。だがテストになると、零点。僕に向かって零点のついた答案を見せて、ニコニコする。忘れやすい奴だと思っていた。しかし今になって気が付くのたが、彼は点数を取ることに興味がなかったのではないか。分かる過程は楽しむが、点数を競って我を張ること(頑張る)はしない、そういう世界観を持っていたと思う。他人を蹴落とす事に強い嫌悪感を持っていたのではないか。

 卒業間際には、べそをかきそうな顔して

 「俺たちと二中のこと、忘れないでくれよな。・・・でもきっとお前、俺たちのこと忘れるだろうな・・・」と僕の同意を促した。この時彼は、偏差値と相対評価の理不尽を正確に見抜き、それを僕に伝えていたのだと思う。

 「偏差値に囚われるな」と教師は誰も教えなかった。その仕組みを繰りかえし強調しただけだ。

 軒下の高い窓を拭くのも、暖房のコークスを運ぶのも喜んでやった。骨惜しみを知らない根っからの善人だった。忘れがたい思い出の数々に彼がいる。住んでいたのは、新宿天竜寺の裏、旭町の木賃宿。着ている制服も粗末だったが、それらが彼の快活さを妨げることはなかった。そのZ君と「寒山・拾得」や内村鑑三の賞賛した「智き愚人」=ダルガスが重なる。 

 「たわし、俺たちのこと忘れないでくれよなぁ。・・・あぁ・・・お前やっぱり俺たちのこと忘れちゃうだろうな」とべそをかきそうになったのは、効率や偏差値が社会全体を覆い尽す事態に反撃出来ない悔しさであり、親友が偏差値の魔界に引き込まれる事への警告でもあった。

 A君の懸念通り偏差値に溺れたのは、僕だった。僕が四谷二中にいた頃は、偏差値はまだ偽偏差値と言うべき段階でしかなかった。危うい制度が始まろうとする時、鋭い警告を投げかけるのは「優等生」ではない。

 公教育が荒廃の気配に包まれた頃、「(民主的)管理主義」や「毅然たる指導」の言説に惑わされずにすんだのは、彼らの思い出のおかげである。二中を取り巻く歓楽街の荒廃や大学紛争時の青年の閉塞極まる状況に比べれば、バラック作りの荒れた教室も僕には「花園」だ。      

  

  「おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、たわしお前はないんだ。だから俺たち親友なんだ」 

 

   今日本ではあらゆるmediaが、明けても暮れても勝負事絶賛一色だ。sports・公営ギャンブル・囲碁将棋カードゲーム麻雀・ゴルフ・・・商業化とプロ化が華々しく煽り立てられ、子どもまでが巻き込まれる。だが賞賛されるのは、獲得賞金額・世界大会メダル数(日本の)・・ばかり。fair「play」の楽しさやgentlemanshipの公正さを投げ棄てた独占欲。


 勝ち組の賞金が膨らめば、敗者のsaftynetは消滅する。勝者の賞金は
敗者の賜物なんだ。栄光が輝かしい程、挫折の陰は暗く寒い事を知らねばならない。スーパーサイエンスハイスクール如きを賞賛すれば、その対極に荒れる「底辺校」が必ず出現する。
 これはA君の懸念した「おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、お前はないんだ。」ではないか、それが半世紀を超えて続いている。負ける者のおかげで勝てる者がある。負け続ける国があるから、常勝の国もある。
 勝ちだけに拘れば、そこには「だから俺たち親友なんだ」が欠ける。


   それ故、「定期試験の答案を時間内に仕上げられない生徒たち」の人権保障は少なくとも社会科を講じる僕の義務だ。どうやったのかは次回に、疲れたから休む。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...