閣僚も自転車通勤する

  デンマークは、6歳まで子供に読み書き・そろばんを教えない。遊びが社会性や集団、自由、責任の意識を育てる。義務教育では試験も通知表もない、高校、大学、専門学校には、入学試験も、入学金も、授業料も必要ない。だから教育に熟や受験産業などの商業主義や「偏差値」が巣食う事もない。

 高校、大学などを卒業しても「資格」はない、だから職業は各自が「自由」に選択する。学校歴や部活歴が、入学や就職に影響しない事こそ「自由」なのだ。わが国では学校歴や各種コネなどに拘束されることを「特権」として有難がる、そんな国が自由主義を論じる資格はない。 適性は、実際に大学や仕事の現場に出て初めて、適しているかどうかが問われる。卒業が資格を伴わないからこそ、どんな人間でも、あらゆる学問や職業に挑戦する必要があるし、挑戦できる。

 高校を終えると若者は大学に直行する事はない。ゆっくり自分と世界を観察する。例えば熱帯雨林の現状を知るために、一人でボルネオやブラジルの奥地を探索するのも厭わない。何が向いているのか、何ができるのか考え試す。そして大学を選ぶ。

  おそらくこれらの全てが日本の若者の政治的未熟=投票率の低迷とデモやストの少なさを招いている。日本の学校は若者が決意しないですむようしないよう「指導」しているし、世界断トツの長時間通勤通学ラッシュは、日本人の思考停止を日常化している。


 デンマークの教育指数は0.993

2007年の教育指数

1 ニュージーランド0.993

1 フィンランド 0.993

1 デンマーク 0.993

1 オーストラリア 0.993

1 キューバ 0.993


6 カナダ  0.991

7 ノルウェー 0.989

8 韓国     0.988

9 アイルランド 0.985


35 日本     0.949

 教育指数とは、国連開発計画が毎年発表する指数の一つ。標準化されたアチーブメントテストの結果得られた教育年齢を暦年齢で割り、それに100を掛けた数値。年齢の割に学習が進んでいるかどうかを示している。トップに並ぶのはいずれも「小国」である。日本の1/20程度の人口、狭い国土。


  教育指数世界1位のデンマークは、「国民の幸福度」も世界1位。誰もが挑戦できる市民社会を目指している。「失敗しても何度もやりなおせる社会」と言える。「負け組」と言う言葉が子どもも親も恐怖に落とし込む「失敗を許さない日本」がメダルの数しか誇れない国として世界に軽視される日が来る。

 

  1911(明治44)年10月22日の公演『デンマルク国の話 信仰と樹木とをもって国を救いし話』で内村鑑三はこう話した。

 「・・・デンマークは欧州北部の一小邦であります。その面積は朝鮮と台湾とを除いた日本帝国の十分の一でありまして、わが北海道の半分に当り、九州の一島に当らない国であります。その人口は二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります。実に取るに足りないような小国でありますが、しかしこの国について多くの面白い話があります。

 今、単に経済上より観察を下しまして、この小国のけっして侮あなどるべからざる国であることがわかります。この国の面積と人口とはとてもわが日本国に及びませんが、しかし富の程度にいたりましてははるかに日本以上であります。その一例を挙あげますれば日本国の二十分の一の人口を有するデンマーク国は日本の二分の一の外国貿易をもつのであります。すなわちデンマーク人一人の外国貿易の高は日本人一人の十倍に当るのであります。もってその富の程度がわかります。ある人のいいまするに、デンマーク人はたぶん世界のなかでもっとも富んだる民であるだろうとのことであります。すなわちデンマーク人一人の有する富はドイツ人または英国人または米国人一人の有する富よりも多いのであります。実に驚くべきことではありませんか。

 しからばデンマーク人はどうしてこの富を得たかと問いまするに、それは彼らが国外に多くの領地をもっているからではありません・・・」


  我々の最大の不幸は教育指数の低さが霞が関と永田町に凝縮して現れている事だ。デンマークなどでは閣僚も自転車通勤する。


粗末に扱われた人は、やがて他人を社会を粗末にする。

  「五輪すら止められないのに、戦争を止められるわけがない」 日米開戦も明るく盛り上がり、人々は万歳を叫び提灯行列さえした。作家も例外ではなかった。

  「一生に一度」と、炎天下の競技場周辺に密集する。競技場からバスで帰るplayerに手を振るためだけに。いい歳した人が、tvニュースのインタビューに興奮気味に答えている。

  一体「一生に一度」とは何か。それ以外の日常は何なのか。「一生に一度」が輝けば輝くほど、残りの日常は彩りの消えた闇と化するのではないか。

 日常が暗い。・・・職場でも、家庭でも、地域でも粗末に扱われれば、自分自身が塵芥なみに思えてくる。

  そんな虚しさを、「近しい」つもりの他者の「輝かしき」属性で埋める。自らに欠けた、高貴さ、力強さ、希少性、美しさ、古さ・・・何であってもいい。たとえ藁であっても、溺れる者には救いに見える。それは藁だと指摘すれば、逆ギレさえする。


 皇太子の結婚行列目撃が、或る人の「一生に一度」なら、孫の笑顔も「一生に一度」の筈だ。何故なら昨日の孫も明日の孫も違う孫だ。毎日成長しているのだから。

 授業の出来も、生徒の反応も日一日変化して止まない。それが「一生に一度」の体験ではないか。煌びやかな結婚式が「一生に一度」なら、結婚前の日々もそれぞれ 「一生に一度」の興奮や喜びに満ちている。その後の平凡極まりない日々も、「一生に一度」の貴重な日だ。それが生きることではないか。

 粗末な自分も、粗末な日も。粗末な家族もないのではないか。粗末なのは制度ではないか。

 我々の日常には、近隣アジア諸国への蔑視と敵意が溢れる。その対極には、日本に原爆を落とした国への尽きない忖度があって分かり易い。しかし忖度しても忖度しても期待する見返りはない。さらなる貢をと脅される始末。当たり前だ、同盟国関係に忖度は在りえない。対等な関係でなければ同盟は在りえない。「トモダチ」強要も同盟ではない。何故なら「トモダチ」に条約は在りえない、あるのは掟。同盟に権利が明示されるが。掟には制裁がある。

 忖度にもとづく「トモダチ」関係はヤクザ社会の組織関係に似ている。平等意識のない社会に友情ばあり得ない。例外がある、ヤクザと担当刑事の間には「友情」が生まれる。

  アジア分けても中国や韓国への敵意の裏には、「隣人」への「愛」がある。アジア諸国への蔑視や敵意の裏にある筈の「隣人」への愛、その場合の隣人とは一体どこの誰なのか。

 隣人の実体は何か。日本が優位に在ると思い込める物や事柄を魅せる何かか。

例えば「学力」「歴史」「技術」「風土」「メダル」への執着。だがいずれも虚しい。賃金は6年も前に韓国に追い越されている。恰も「外国」や「外人」がいまだに日本に憧れているかのような幻想に縋りつく。幻想を無理やり映像化させるために莫大な浪費も犠牲も厭わなくなる。メダルが増えれば、粗末に扱われる日々は消えるか。狭い一部屋に数人が犇めく家族の感染恐怖はなくなるか。

   「一生に一度」のバカ騒ぎにシラケる若者に期待したい。入学や卒業「式」文化祭や体育祭の「開会式」も部活の大会出場も軽くボイコットして、日々の授業の充実と自由な日常を要求して座り込む生徒の出現が僕の夢だ。

教育は不当な支配に屈することなく、国民全体に直接責任を負って行われる。旧教育基本法第十条

  多摩の大規模校にいた時生徒から、ある教師によるセクハラの訴えを聞いた。周りの生徒にもその教師の様子を聞いた。管理職に話を回しはしなかった、管理職ほどあてにならないものはないからだ。生指もあてにできない。しかし訴えは深刻だった。ひとけのない時間に、彼を訪ねて直接話した。彼は狼狽したが否定、数日して数人の教師を伴った彼に呼び出され。「とんでもない言いがかりだ、生徒が教えて欲しいて言うから近寄って手を取り指導した。何故あなたは生徒の訴えばかりを聞くんだ。管理職に訴える」と息まいた。つまり僕が件の教師の仕草に寛容になり、「生徒の思い過ごし」を指導すべきと言うわけであった。

 瞬く間にこのことは学校中に知られ、僕は「浮いた」。「嫌がる生徒が間違っている」と勘違いしているのは教師の側ではないか。嫌が生徒の気持ちになってみる「寛容性」を教師が持つべきとの主張は受け入れられなかった。反対に僕の生徒に対する「毅然たる姿勢」のなさが問題視されてしまった。1990年代に入ったばかりだった。

 立場の弱い生徒が、あらゆる点で「力」を誇示する教師に忖度する事が常識になりつつあった。神戸高塚高校校門圧殺事件の起こった年だ。


 被害者が、寛容や我慢を強いられる。虐めにも同じ構造がある。「いじめられる側にも問題がある」と問題がすり替えられるのだ。職場や地域の「ハラスメント」は江戸の昔からそう扱われ続けてきた。セクハラを嫌がれば「可愛くない」と罵る。暴力沙汰を繰り返すチンピラは、若さ故の「やんちゃ」だったと笑う。 人の後ろに回って「カンチョー」を連発する「大物」芸人は怯えた眼差しで隠れるのだった。それが「お笑い」だとマスメディアも囃し立て、真似る者が続出する始末


 ありったけの理不尽に苦しめられてきたハンセン病者に何の咎があったか。ありはしない、神や仏までもが「業(前世の悪行の報い)」病と突き放したのだから。「ペスト並みの恐い病気」と全国を遊説して回り絶対隔離を画策した渋沢栄一が男爵になり相棒の光田健輔は文化勲章をぶら下げる構図の狂気に我々は未だに「寛容」だ。

 だから首相は金メダルチーム『東洋の魔女』監督“鬼の大松”を持ち上げる。鬼の得意は『シゴキ』=壮絶なパワハラだった。しかし世間は「金メダル」に目が眩んだ。『ド根性』が流行語となり、体罰やサービス残業など日本型組織体質が戦中の地獄から甦った。『極限状態に立たされることで、人間は真の力を発揮できるようになる』と強調した大松は帝国陸軍の生き残り。その悍ましい風潮克服の半ばというのに、『シゴキ』を賛美する首相の無知無神経。そういう男を引きずり下ろす怒りを我々は持てないでいる。怒りが組織化されないからだ。

怒りは組織されねばならぬ

 我々に必要なのは、弱く虐げられる側に立ち、虐げる側への怒りを挙げること
 「神の愛」や「仏の慈悲」は、虐げる者に限りなく「妥協」して力なき者の不信仰を咎めてきた。教委や生指も、組織を可愛がり一介の力なき生徒個人に我慢を強いて止まない。「国民全体に直接責任を負」うとは、組織に忖度することではない。弱き者は、どうしても、どうしてか、教団や業界に組織されたがる。

 弱き者が弱き者同士組織をつくらねばならぬ、それは弱きものが自らの「弱さ」の根源を知る事から始まる。それ故若者には、哲学・歴史・経済学が不可欠なのだ。わが国で全ての若者に、「哲学・歴史・経済学」が普通教育として行き渡ったことはない。ただ戦後混乱の1947年、新制高校のカリキュラムがあっただけ、瞬く間に幻のごとく消えた。新制高校への進学率が50%を越えるは1954年のことである。

Oxfordの大学院生自治会、 Queen Elizabeth II肖像を植民地支配の象徴として撤去








 

Students at an Oxford College voted to remove Queen Elizabeth II portrait.

The MCR committee voted for the portrait to be taken down, claiming it represented an unwelcoming symbol of "recent colonial history”

Queen becomes latest victim of cancel culture as portrait is removed from Oxford college

Students at Magdalen College vote to remove the picture after claiming it represented an unwelcome symbol of 'recent colonial history' 

    Daily Telegraph.co.uk


 しかし何より興味深いのは、学生の行動に対する大学および政府の対応である。

  マグダレン・カレッジのダイナ・ローズ学長は院生「自治会は確か2013年に、女王の肖像写真を購入し、談話室に飾った」が、「最近になって外すことにした。飾ると決めたのも自治会なら、外したのも自治会だ」と指摘。「マグダレン・カレッジは言論と政治的な議論の自由及び学生たちの自治権を断固として支持する」と強調している。

  イギリスでは今、学問の場における言論の自由を保障する政策が推進されている。教授陣や学生、外部の講演者が大学当局に忖度して自由闊達な議論ができなくなることがないよう、英政府は大学当局の言論規制を禁じる法整備を進めている。

 翻って日本では今、植民地支配の責任を明らかにし天皇や政府を追及する動きは死んだかのようだ。加えて学問の場における言論の自由を窒素させる、青バッヂの極右議員が人気を博している。

 過去の罪を直視し学ぶのと、過去を否定し偽造することの差は計り知れない。


専門家とは何か、業界人は腐敗する

  ハンセン病療養所菊池恵楓園に収容されセファランチンを投与されたため、症状が悪化、眉毛は抜け落ち、目も見えなくなった退所者に関する検証会議聞き取りがおこなわれた。

 セファランチンは結核の薬として戦後使われた。若くて軽症の人に投薬され、それによって症状を悪くし、全盲になったり、手足を悪くしたり、亡くなった人さえいる。この薬については学会に報告されたが、失敗例はすべて捨てられ、少し症状が良くなった例や病状に変化が見られないものだけ残された。そのため、学会論文上、犠牲者報告はない。その後、セファランチンはいつの間にか使われなくなり、薬害が明らかにされていない。 ハンセン病問題に関する事実検証調査事業  第4回ハンセン病検証会議   2002年12月9日和泉眞蔵検証会議委員証言                註   和泉眞蔵  国立ハンセン病療養所や京都大学医学部皮膚病特別研究施設で、ハンセン病の診療や教育・研究に従事。国賠訴訟では青松園医長でありながら原告側証人として証言。又医療過誤事件でも原告患者証人として証言、一貫して患者の立場から医療を担ってきた。

 

 ハンセン病者たちは、セファランチンをナオランチンと呼んでいた。  ハンセン病療養所に長い間カルテが無かった。カルテが要らなかったのではなく、都合の悪いデータとして有っては困るものでもあったという驚天動地の構図がここに見える。病気の研究治療に注がれるべき情熱・時間・費用が、愚かに私的に浪費されたのである


 救癩の父と賞賛され文化勲章を受けた光田健輔の、医学者としての見識の程を示す遣り取りの記録がある。

(光田) 「あなた(小笠原登)は、ライは全治すると言っているが、それは間違いだ。全治は不可能です」 

(小笠原) 「では一体先生のおっしゃる全治とは、いかなる規範であるのか、まずそれを承りたい」 

(光田)「それは、患者の躰の中にライ菌が全くなくなり、かつ再発しないことである」 

(小笠原)「それはおかしい。およそ伝染病にして・・・全治した後の体内に菌が完全になくなることはない。いったんライに罹ったら、全治していても、終身患者扱いをすることは誤りである。先生のいわれるような意味で全治を考えたのでは、世の中に全治する病気は一つもないことになりましょう。それとも、何か全治するものが、先生のいわゆる全治する病気がありますか」

(光田)「チブスがそうです」 

(小笠原)「チブスは全治しても、なお患者の躰の中にチブス菌のあることは、内外の文献にも明らかですが」 

(光田)「イヤ、私はライの方は専門に研究したけれども、チブスの方は私の専門外なので、あまり研究していないから 詳しいことは知りません         田中文雄 「京都大学ライ治療所創設者小笠原登博士の近況」『多磨』1967年12月号


 原理主義の恐ろしさは、その幼児性の無知にある。「それは間違いだ」と胸を張っておいて、動かぬ証拠を突きつけられると「専門外なので」と居直り、相手を「間違い」と決めつけたことは決して取り消さない。こうした無知に基づく素早い断定を、頼もしさと見誤ることがある。近代科学の専門家を自認する者が好んで陥った隘路である。自分と同類同質の無知を振りかざす者の過ちに気付くのは難しく、親しみと力強ささえ感じてしまう。無知で傲慢な断定ほどカリスマ性を帯びる所以である。理性的な熟考を、無能な優柔不断と見なす傾向と表裏一体となって機能する。医師光田健輔を、専門家として原理主義者に育て上げた責任が渋沢栄一にはある。

 この構図はコロナ禍の現在、マスメディアを通してむしろ拡大している。 

 賢者は、自分がつねに愚者に成り果てる寸前であることを肝に銘じている。・・・これに対して愚者は、自分を疑うことをしない。・・・そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。・・・愚者はけっして休むことがない。オルテガ


追記 光田健輔と論争した小笠原医師の自信の根底には、分厚いカルテがある。当時ハンセン病医はカルテを録っていない。治療への関心の低さを象徴している。京大「特研」(皮膚科特別研究室)医師小笠原博士のカルテは詳細かつ膨大であった。

 療養所以外でのハンセン病「治療」は、表向きには認められなかった。だが小笠原は、早朝から夜中まで毎日50名前後もの患者を素手で診察、その手の温もりが患者を「死んでもいい」とまで感動させている。

 彼の患者は、入院することも仕事を続けながら通院する事もできた。癩予防法が医師に義務付けたハンセン病患者の届出(即ち療養所隔離)を避けるためカルテの病名欄を空白にしたり、診断書が必要なら「多発性神経炎」とだけ記入。人目を避けて早朝夕方に通院する患者のために診療時間を大巾に延長した。患者の負担軽減のために、自らの研究費や給与も流用している。博士の着衣は、学生時代からの黒い詰襟を繕ったものであったという。彼が治療した患者は3000名にのぼる。

 光田と渋沢の救癩事業が慈善に依存する中で、国民皆保険制度の必要性も説いた。南画や漢詩を嗜む浄土真宗の僧侶でもあった。業界人から最も遠い教養豊かな「人」であった。


「授業をうける権利」と勤評

 「授業をうける権利」とは何か。学校に行くことか、教室に入ることか、よく考えると段々曖昧になる。だが権利の原則に立ち戻って考えてみる必要がある。例えば、宗教を信じる権利。これは特定の宗派あるいは宗教一般を信じる自由を意味するだろうか。

 そうではない、信じないことによっていかなる不利益も被


らない事である。この原則があって初めて特定の宗教を自由に信じることが出来る。だから戦前の日本に信仰の自由はなかった。ある宗教を信じれば、あからさまな弾圧が加えられたからである。アメリカには信仰の自由はない。無宗教は「アカ」と見做され入国さえ危いからだ。

 同じように「授業をうける権利」を考えてみる。それは「授業をうける」または「授業を受けない」ことによって不利益を被らない事である。

 具体的に言おう。僕が小学校六年生の時、クラスは能力別に4つに分断された、一番できるグループは廊下側、二番目が窓側、三番目は廊下側の次、おしまいは窓側と三番目の間。一目瞭然だった、60年が過ぎた今なお「あれは嫌だったね」と同級生たちは口々に言う。この並び方で行われた授業は、毎日業者テストの繰り返し。僕は次第に不満を募らせ、三学期の末怒りを爆発させた。担任が楽しく「お別れ会」をやろうと言った。このクラスは6 年間クラス替えがなくそのうち5 年間がこの担任で、僕は転校生だから2年半だけこのクラスだった。学級委員だった僕は「なぁ、いいだろう、いいだろう」を笑顔で繰り返す担任に、「嫌です」とかみついた。賑やかに、あれをやろう、誰とやろうと盛り上がっていた教室は、突然シーンとなった。

 担任は「何が不満なんだ、みんなが賛成しているのに。このクラスが詰まらなかったと言うのか」

  僕はこの後チャイムが鳴るまでの30分以上を担任と喧嘩した。「みんなが賛成なら僕は出ません」と僕は最後に言って教室を出た。すぐに野球仲間が追いかけてきて「ごめんな、俺も反対だったんだ」「担任が恐くて何も言えなくなっちゃった」・・・僕はリーダーシップもあり、成績もよく担任のお気に入りだったからみんな驚いた。頻繁に行われた業者テストでは毎回千人中の順位が添削とともに記入されいた。僕は一桁の順位だったから、初め不満はなかった。クラスの空気が暗くなったことに気づいたのは二学期になってからだ。

 母は呼び出されて「こんな協調性のない子は初めてだ」とだいぶ小言を食った。僕は祖父母や大叔母や両親から、納得いかない時にははっきり意見を言いなさいと言われ続け実行してきた。

 この顛末が「勤評」だったのかと読めてきたのは、高校生になって「教育問題」を文化祭でとりあげてからだ。

 勤評に怯えた担任によってクラスが「出来・不出来」で分断されたのが、不利益にあたる。勿論僕は一学期に、「こんな不快な席順はやめてください」と言うべきであった。

 教師の日常に煩雑な競争を持ち込むのは、政策vision のない政治屋とって手軽に票を組織する手段である。

 例えば、若者の自殺をなくすことを真剣に考えるなら、少なくとも25年を見据えた社会政策が必要になる。 長く費用の嵩む社会政策を訴えていては、議員4年の任期は瞬く間にすぎてしまう。

 誰もがその門を潜り多かれ影響を受ける学校教師の「資質」や「日教組」の問題と罵れば、「単純で分かり易い」説明を希求する有権者の賛同は得やすい。予算の裏付けも僅かで済む。軍事予算や大規模公共投資に手を付けないで済む。マスメディアへの露出も増える。こうして彼らもまた教育を政治的に取り上げることで、ほぼ永遠に「授業をうける権利」阻害し続けるのである。


  マッカーシーが「赤狩り」にのめり込みアメリカの戦後を混乱のどん底に落としたのも、「単純で分かり易い説明」が有権者に受けたからである。その痛手からアメリカは未だに立ち直ってはいない。

  勤評のような政策を分析する時、我々は大人の世界である経済情勢や政治情勢の分析を好む。しかし僕は、当時の子どもや生徒の記憶を探る研究が無いことを悲しむ。何故ならそれなしに我々は 当事者から見た「授業をうける権利」にたどり着けないからである。

ハンセン病療養所「園券」の深い闇         ここにも渋沢栄一の影

   戦前戦中ちまたでは、「全生園にいけば2、30万はいつでも融通してもらえる」と公然と言われていた。高木敏子「ガラスのうさぎ」に、太平洋戦争末期「1000円といえば、ちょっとした家が一軒建つお金」という記述がある。2、30万円は大変な額である。現在の価値で2億、3億円に相当する。 

 絶対隔離は火葬場の煙とならなければ外に出られない仕組みだった。どんなに金を患者が持っていても、一旦園が強制的に預かってしまえばどう使ってもなんら咎められない。全く自由な400万円近い資金(4000億円に相当する)が、いろいろな方面から重宝されていた。戦前の市中金利は5%から10%で推移していたし、高利貸しの金利は年利100%を越え

患者たちは有り金残らず巻き上げられ・・・  
  
ていたからである。全国のハンセン病療養所は患者の逃亡を防ぐことを理由に、その所持金を園内だけにしか通用しない粗末な「園券」に強制的に交換した。
  しかし敗戦とともに事情は大きく変化した。1925年男子のみの普通選挙権が認められたが、皇族と公的扶助を受ける者は無かった。1947年補欠選挙が開始されるとともに、共産党遊説隊が園内に入り、草津栗生楽泉園ではその晩のうちに懇談会が開かれ患者の怒りは爆発する。(1947年患者の委任を受けた自由法曹団が、園当局の行為は殺人、同未遂、特別公務員暴行凌虐、不法監禁罪を構成するとして前橋検察庁に告訴告発している。それによれば、 庶務課長は重監房運用責任・物資隠匿横領・患者労働賃金のピンはね横領等、炊事主任は患者救済を騙って買い付け横流し、保母は虐待で保育児を死に至らしめている。)
  共産党や社会党も園内に入り、患者たちがハンセン病療養所の実態を村人や町民に訴え始める。長年の悪事が露呈・園当局の尻にも火が付く。患者が持参した金券=「正金」を当局は「保管金」と呼んだが、保管などしてはいない勝手に「運用」していたのだ。

 昭和27(1952)年4月1日「第一分館に於て保管金払出しの際本日より何の報告もなく正金にて払出しているとの情報を得たので、早速園当局に申入れし、正金切替は計画の下一斉に行うにつき、この処置を差しとめさせた」と全生園患者自治会は記録している。自治会が正式に金券への切替を要請したのが3月15日ごろで、切替希望日は4月なかごろである。
 開園から40余年もの間、入園者の所持金をいくら取り上げていくら園券にしたか明細などない。

 「切替えは予定通り始まり14日・・・15日・・・16日・・・17日・・・と順調に進んだが、保管金額に誤りがある疑いが出てきて、切替委員が立ち合って調査したところ、銀行預金の38万円余が見落とされていて、日本銀行券保有高とだいぶ差があることが判明した。・・・自治会では、調査委員会を設けることを決め、翌日には、施設側に現金出納簿の提出を要求してこれを調べたが、出納簿はこの切替えに当たって、都合よく書き換えられたものであったので、原簿の提出を要求。
 ・・・明らかに現金出納簿を改ざんしている等の事実を厳しく指摘し、全くいいかげんな取りあっかいについての釈明を迫った・・・ そして22日・・・園長は自治会に対し、73万5000円余が不足していることを正式に認めた。この不足分を認めたことは、患者の保管金と金券発行額だけ、現金の裏付けが無いということで、そこには明らかになんらかの不正が介在することを認めたわけである。
 ・・・「園券に関する不正責任糾明委員会」が発足したのはその夜。・・・激しい怒りが「園券に関する不正糾明患者大会」に結集された。この日の礼拝堂には、入園者600余人が会場と堂外にあふれ、出席している施設首脳者に怒りの声がしきりに飛んだ。大会決議では「73万余円不足の事実は、過去30有余年の永きに亘り我々患者の血と涙の結晶たる零細なる所持金が、何らの会計検査もなく、無能にして絞滑なる担当者にょり、如何に曖昧模糊たる処理に委ねられ来ったかを自ら暴露せるものであり、我々現存者のみならず不幸なる時代の中に病没した過去の病友の霊と共に断じて許さざる処」と述べ、施設の責任者園長の意志表示、永井と菱川の即時辞任とらい園たらい回し勤務の拒絶、不足金の個人負担、不足の真相調査と公表等を要求した。
 これに対する24日の園長回答は「皆様の所持金縁管に関して慎重を欠き不始末を生じ御心配をおかけしたことは責任者とし注意が足りなかったと痛感すると述べたが、内容はそれとはうらはらでそっけないものだったため、委員会はこれを拒絶して、再回答を要求、26日の再回答では責任を痛感し、永井、菱川両人をやめさせる、両人は辞職を隣い出、他のらい園には勤めない、不足金は個人が支弁し、原因調査は公正を期して本省と地方局に依頼、4月30日に公表するとしたのを、糾明委員会は了承した。
しかし新聞各紙は「患者の金を職員が横領?」 「らい園は伏魔殿」などと興味本位に取りあげ、事件の解決にはほど遠かった。
 4月30日加藤事務官らの本省調査団は糾明委員会に対し、調査の中間報告をしたが、・・・その調査の粗雑さについて糾明委員会からきびしい指摘をうけて、ついには施設、糾明委員会との三者で合同調査をすることになり、その結果は5月6日つぎのように発表された。
○入園者所持金
 有効園券         二三四万〇四五〇円五四銭
 保管金           一〇九万四三六七円五四銭
 互恵会             三八万四四八九円〇九銭
 慰安会               三万〇一四六円四〇銭
 その他                   一八七六円
  合計            三八五万二二二九円五七銭
○園が示した資金
 課長出納簿       二九七万八五二二円七一銭
 菱川保管金           四万八三六四円七五銭
 同立替金             八万一三〇〇円
 振替貯金                 三四〇五円二六銭
  合計           三一一万一五八三円七二銭
○差引不足額         七三万九七四五円八五銭

 そして永井は7月、菱川は8月に結核の施設に転勤となった。
 調査団発表は不足金の確認だけで不足した原因には触れない。施設ではその後も調査を続けているが、林メモによると(6月30日)42万4000円余の所在は、菱川の帳簿もれと解明されているが31万5000円余は不明金としている。前記したごとく裏付け金出納簿は改ざん(または問題ない部分だけはチェック)したものを自治会に提示し、改ざんを追及されてもついに原簿は出さなかった。」
全生園患者自治会編『俱会一処』一光社刊
 国立ハンセン病療養所は国内だけでも13箇所あった。不正横領は全生園だけではない。不正に運用された膨大な「利益」は何処に消えたのか。これも光田健輔と渋沢栄一画策による「絶対隔離」政策が無ければ出現するはずのない深い闇であった。この一事だけで、渋沢栄一が一万円に相応しくないことは明白。
 この後患者たちは長く困難な「ライ予防法」闘争に精魂を傾け敗北する。光田健輔は1951年、文化勲章を胸にした。

 敗戦は憲法改革を伴う「革命」であるべきだった。革命の過程では旧体制で弾圧迫害され投獄された人々が、新しい体制の理想を実現するために政権中枢で汗を流す。それが民主主義的政変である。眼光鋭く旧体制の闇を告発検証して、責任の在りどころを逃さない。そうでなければ新しい体制は実現しない。

 にもかかわらず光田健輔と渋沢栄一の絶対隔離体制は続いた。誰一人処罰されなかった。殺戮も横領も拷問も何も問われなかった。犯人たちは逮捕もされず裁判にも掛けられなかった。旧体制は、より権威主義的に整えられたのである。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...